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本稿は、「技術と人間」1992年5月号に掲載された。



チェルノブイリ原発事故による放射能汚染と被災者たち

(1)                           今中 哲二  


 1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリ原発4号炉で発生した事故は、いうまでもなく原子力発電史上最悪の事故であった。爆発し崩壊した原子炉から放出された放射能は、北半球のほぼ全域を汚染し、8000kmあまり離れた日本にも飛んできた。また、ヨーロッパの汚染食品などによってもチェルノブイリからの放射能は世界中に拡散した。そうした意味では、北半球に住むほとんどすべての人がチェルノブイリ事故の被災者とも言えよう。

 事故から3ヶ月後、旧ソ連政府は、IAEA(国際原子力機関)に対し、チェルノブイリ事故に関する報告書を提出している。その報告書によると、事故直後、チェルノブイリ原発周辺30kmから、13万5千人の住民が避難させられた。しかし、その報告書以降、3年近くの間、ソ連国内の汚染に関する情報は、ほとんど我々には入って来なかった。チェルノブイリ周辺における深刻な汚染のニュースが入り始めたのは、1989年の始め頃からであった。

 旧ソ連内の3共和国、すなわち、ウクライナ、ベラルーシおよびロシアにおける汚染は、きわめて深刻であることが明らかになってきた。1991年5月には、旧ソ連最高会議が、高汚染地域の住民28万人を移住させる決議を採択するに至ったほどである。

 本稿では、ここ数年間に明らかになってきた情報を含め、事故当時から振り返って、放射能汚染の状況と事故の被災者についてまとめてみる。

 便宜上、事故被災者を以下の4つのグループに分けて考えよう。

(i)事故時の運転員と消防士たち

(ii)事故処理作業従事者(リクヴィダートル)

(iii)事故直後30km圏から避難した住民

(iV)高放射能汚染地帯の住民

  (本稿の末尾で、放射能・放射線の量と放射線による障害についての用語を、簡単に説明しておいた。キュリー、レントゲンなどの言葉に不慣れな方はご参照願いたい。)

1.事故現場

 1986年4月26日午前1時24分少し前、チェルノブイリ4号炉は、原子炉の暴走により爆発した。原子炉建屋の外にいた目撃者によると、2度の爆発(実際はもっと多かったという話もある)とともに、花火のような火柱が夜空に吹き上がったという。そのとき、4号炉では、タービンの慣性回転を利用した非常用電源のテストが行われていた(先月号の拙稿「規則違反か設計欠陥か−−事故の原因に関する最近の報告から」参照)。事故が発生したとき、チェルノブイリ発電所では、1〜4号炉の運転管理要員として176人がいたという。単純に割り算すると、4号炉関係では40人余りの人数になる。また、1〜4号炉とは少し離れた5・6号炉の建設現場には268人の建設要員がいた。

 先月号でも紹介したメドベージェフの本など(1ー5)から、事故当時の4号炉の状況を簡単にまとめてみよう。そのとき、4号炉の制御室には、運転員や電源テストの要員など14名がつめていた。原子炉運転当直の班長はアキーモフ(33才)で、原子炉運転技師のトプトゥーノフ(25才)とともに原子炉の運転にあたっていた。制御室での実質的な責任者は、3・4号炉担当副技師長のジャトロフであった。電源テストが終わり、原子炉を止めようと制御棒一斉挿入のボタンを押した直後、事故が発生した。爆発により、原子炉そのものと、その上のクレーンなどの機械がある原子炉中央ホール周辺は壊滅的な損傷を受けた。しかし、少し離れた制御室にいた人々には、衝撃、停電、火災の連絡などにより、緊急事態が発生したことは歴然としていたが、いったい何事が起きたのか分からなかった。制御棒の位置を示す計器は、挿入の途中で制御棒が止まってしまったことを示していた。運転員たちがまず考えたことは、とにかく原子炉を破壊から守ることであり、そのため、制御棒を完全に挿入するとともに、冷却水を送り続けて炉心の冷却を確保することであった。プロスクリャコフ(30才)とクドリャフツェフ(28才)の運転技師補二人が、現場でハンドルを廻して制御棒を挿入するため中央ホールへ行かされた。しかし、彼らが見たものは、崩れた建屋と噴火口のように燃え上がる原子炉であり、原子炉はすでに破壊されてしまっていた。そこに数分いただけで、彼らが致死量の放射線を浴びるには十分だった。制御室へ戻った二人は、見たままを報告したが、ジャトロフは、緊急用水タンクが爆発したのであって、原子炉そのものは無事だ、と言い張ったという。運転員たちの心理には、原子炉が破壊されたなどとは認めたくない気持ちが働いたようだった。アキーモフとトプトゥーノフの二人は、炉心への給水のため、現場のバルブを開けに行ったことが死につながった。ここまでの登場人物のうち、ジャトロフ以外の4人は、後にモスクワの病院で死亡する。

 原子炉機械係のホデムチゥク(34才)は、原子炉に近いポンプ室で循環ポンプの様子を見ていた。計器係のシャシェーノク(44才)は、原子炉下の配管室で計器の当直をしていた。ホデムチゥクは、そのまま破壊された原子炉と一緒に「石棺」に埋葬されることになる。シャシェーノクは、大火傷を負いながら救出されたが、その日の朝6時頃死亡する。原子炉係のクルグーズ(27才)とゲンリフは、たまたま原子炉中央ホール脇の小部屋で休憩していた。クルグーズは5月8日に死亡するが、ゲンリフは、600レントゲンもの放射線を浴びながらも九死に一生を得ている。彼らの班長ペレボズチェンコ(38才)は、部下たちを救出するため崩壊現場で活動したが、自らは命を落とすことになった。機械係ではもう一人デグチャレンコ(31才)が死亡している。

 タービン建屋では、爆発で吹き飛ばされた破片が、屋根を貫いて降ってきた。梁が落ち、油パイプがこわれて燃え上がった。タービン建屋ホールには、1〜4号炉のタービン全8台が並んでいる。火災による建屋の崩壊やタービン発電機冷却用水素の爆発などにより、隣の原子炉へと事態がさらに破局的になる恐れがあった。火災を消し、タービン発電機から水素を抜き、さらに油タンクのオイル抜きといった活動が大車輪で行われた。まわりには、原子炉から飛んできた燃料棒さえころがっていたが、そんなことに注意を向ける余裕はなかった。タービン係からは、ペルチゥク(33才)、ヴェルシーニン(26才)、ブラジニク(28才)、ノビク(24才)の4人の犠牲者が出ることになる。

 電気係からは、レレチェンコ(47才)、バラーノフ(32才)、ロパチューク(25才)、シャポバロフ(45才)、コノヴァル(43才)と5人が死亡した。なかでも、電気係次長のレレチェンコは、率先して危険箇所へ入り、事故の拡大を防いだ。彼は、急性症状のため一旦医務室へ引き上げ応急処置を受けた後、再び現場に戻った。被曝線量は2,500ラドにも達したという。

 発電所に備えてあった放射線線量計はほとんど役に立たなかった。その最大目盛りは、1,000マイクロレントゲン/秒(3.6レントゲン/時)であり、至るところでその線量計は振り切れてしまった。1万レントゲン/時まで測れる測定器が一つあったが、それは爆発でくずれてしまった部屋におかれてあり利用できなかった。放射線の状況を把握できなかったことは、事態をできるだけ軽くみたいという願望と結びつき、放射線量はせいぜい5レントゲン/時程度であろう、となった。かりに、非常事態での被曝線量の限度を25レントゲンとすると、その線量下で5時間程度は作業可能ということになる。

 メドベージェフは、そのときタービン建屋ホールや原子炉中央ホールの放射線量は、500〜数万レントゲン/時であった、と述べている。

 午前2時30分、急を聞いたブリュハノフ所長が制御室に駆けつけた。運転班長のアキーモフは、所長に、重大な放射線事故が発生したが、原子炉は無事だと思うし、火事も消防隊が消しつつあること、原子炉への給水作業も進みつつあると報告した。所長は午前3時、モスクワの共産党中央委員会原子力発電部長マリインの自宅に電話を入れ、事故が起こったが原子炉は無事、と報告した。モスクワからは折り返し、とにかく原子炉への給水を続けるように、との指示が返ってきた。その頃、民間原発防衛隊の隊長ソロビョフがやってきた。彼の線量計は 250レントゲン/時まで測れるものであったが、その線量計さえ、多くの場所で振り切れてしまった。ソロビョフは状況をブリュハノフ所長に報告したが、所長は、ソロビョフのは故障している、といって取り合わなかったという。技師長のフォーミンが制御室にきたのは、午前4時30分頃であった。彼も、ブリュハノフ所長と同様、事態をありのままに受け取ろうとはしなかった。原子炉そのものが破壊されたという事実が公認されるのは、モスクワから専門家が到着してからである。

 発電所消防隊が現場に到着したのは、爆発の5分後であった。原子炉からは炎と黒煙が吹き上げ、隣接のタービン建屋や3号炉の屋根でも火災が発生していた。消防隊長プラヴィーク中尉(24才)の指揮のもと、タービン建屋屋上の火事から消火が始まった。まず延焼を防ぐという判断であった。プラーヴィク中尉は、その一方でキエフ州全体の消防に非常呼集の警報を発した。キベノーク中尉のプリピャチ市消防隊もプラヴィーク隊とほぼ同時に出動し、5分ほど遅れて現場に到着した。こちらは原子炉建屋中央ホールの消火に着手した。燃えさかる火、しみる煙、溶けたアスファルトのなか、消防士たちの活動により、数時間で火災は鎮火した。ただ、原子炉そのものは燃え続けた。消火活動のとき、放射能を恐がって尻込みするものは一人もいなかったという。というより、放射能のことなど考えている余裕はなかった、というべきであろう。消火活動の途中から気分が悪くなりおう吐するものが続出した。17人の消防隊員が病院へ運ばれた。このうち6人がモスクワの病院で死亡した。そのうち5人は、あとから到着し原子炉中央ホールの消火にあたったキベノーク隊の隊員であった。もう一人のプラヴィーク中尉は、タービン建屋屋上の火災を一応鎮火させた後、キベノーク隊の応援に出かけたことが死につながった。この夜出動したの消防隊は、総員186人、車両は81台であった。

 その他の死亡者について、判明していることを述べておく。1・2号炉担当の副技師長シトニコフ(45才)は、ブリュハノフとフォーミンの指令を受け、事故現場の状況を確かめるため中央ホールなど建屋全体を見てまわったことが死につながる。彼は、原子炉は破壊されたと報告したが、所長らはそれを無視し、炉心への給水作業を続けさせた。チェルノブイリ市から出張し、制御室で電源テストに立ち会っていたパラマルチゥクは、運転員などと一緒に負傷者の救出や事故の収拾にあたった。ハリコフ市から出張していたタービン技術者のポポフら二人も、タービン係と一緒に消火にあたったが、犠牲になった。さらに、原子炉建屋の外にいて事故に出会った女性警備員のルズガーノフとイワニェンコが死亡者に含まれている。

 1986年8月のソ連政府報告書(6)などに基づくと、事故直後約300人が病院に収容され、約240人が急性放射線障害と診断された。そのうち放射線障害で死亡したのは28人であった。現場で行方不明になった1名と火傷で当日死亡した1名に、後に別の病気で死亡したと言われている1名を加え、事故で死亡したのは31名ということになっている。病院へ運ばれた人々のなかには、5・6号炉の建設要員や、さらには冷却水流路で釣りをしていた人たちも含まれている。

 

2.事故対策の開始

 プリピャチ市は、原発職員のために作られた人口5万人たらずの近代的な町で、発電所敷地の北西、原子炉から3kmぐらいの距離から町並が広がっていた。幸いなことに、爆発の最初の放射能雲は、プリピャチ市街に向かわず、その南の林を通過した。

 4月26日の朝、大部分のプリピャチ市民は普段通りの土曜日の朝を迎え、子供たちは学校へ出かけた。ただ、一部の関係者の家族は、発電所で大変な事故が起きたことを知り、子供を休ませ窓を閉め切って外出を控えた。市内から4号炉はよく見通せた。大部分の市民は夕方までには事故のことを知ったが、それでパニックになることはなかったし、なかには、煙を吐く4号炉を眺めながらアパートの屋上で日光浴をした人もいたという。プリピャチ市当局の幹部はどうしたらよいのか判断できなかったが、病院だけは、次々と発電所から送られてきた負傷者でゴッタ返していた。夕刻、モスクワ第6病院の医師チームが到着し、モスクワへ送る患者を選別した。患者の第1陣28名は、午後11時バスでプリピャチ市を出発し、キエフ空港からの特別機でモスクワへ向かった。

 ウクライナ共和国当局の初動は早かった。共和国内務省次官のヴェルドフ少将は、26日の朝5時に現場に到着し、7時には1,000人以上の治安警察隊などで現場周辺の道路を封鎖した。また26日のうちに、住民の避難に備え1,000台のバスを集める作業をキエフ市で始めていた。一方、チェルノブイリ民間防衛隊長のソロビョフは、すでに夜のうちに共和国民間防衛隊本部に非常警報を発している。

 ソ連政府専門家グループの第1陣がモスクワを出発したのは、26日午前9時であった。昼過ぎには現場に到着し、早速、事故現場を見て回りヘリコプターで原子炉の上空を飛んだ。現場の状況は、第1陣の専門家たちの想像を絶したものだった。原子炉そのものの崩壊を、現実のものとして認めざるを得なかった。夜に入って、ソ連政府副首相のシチェルビナらが到着し、彼を議長として政府委員会の活動が始まった。委員会のメンバーには、電力電化大臣マイオレーツ、共産党中央委員会原子力発電部長マリイン、保健省次官のウォロビョフなどとともに、クルチャトフ原子力研究所副所長のレガソフや原子力産業省次官のシャシャーリン次官などの原子力専門家が含まれていた。レガソフらがキエフの空港に着いたとき、ウクライナの指導者たちが多数出迎えに来ていたが、彼らは心配そうな顔をするだけで、正確な情報をほとんど持っていなかったという。現地の初めの会議で、原子炉は無事だというブリュハノフ所長ら発電所幹部の報告は偽りであり、事態は極めて深刻なものであることが明らかにされた。

 政府委員会の最初の仕事は、住民を避難させるかどうかということと、燃え続ける原子炉の火災をどうやって消すか、であった。26日夜、シチェルビナの決断により翌日プリピャチ市の住民を避難させることに決定した。原子炉の消火については、かんかんがくがくの議論の結果、上空から砂や鉛を投下して封じ込めることになった。

 ソ連軍化学部隊のピカロフ大将が演習地で、参謀総長アフロメーエフ元帥からの緊急指令を受けたには、26日早朝のことであった。大将は早速化学部隊第一陣を引き連れてキエフへ出発し、夜半にプリピャチ市に入った。化学部隊の最初の任務は、事故現場と周辺の状況把握であった。

 27日午後2時、1,100台のバスによってプリピャチ市民4万5,000人の避難が始まった。作業は整然と進み、2時間後プリピャチは無人の町となった。恐れていたパニックは起きなかった。1986年ソ連報告書に従うと、プリピャチ市内の放射線量は、26日午前9時で14〜140ミリレントゲン/時、27日午前7時で180〜600ミリレントゲン/時であった。その後、避難が終わった午後5時には、360〜1,000ミリレントゲン/時と上昇した。

 5月2日、ソ連首相のルイシコフと共産党書記のリガチョフが現地を視察に来た。この頃には、ソ連の総力をあげて事故に取り組む体勢に入っており、チェルノブイリ原発へ向かう道路には、トラックが延々とつながったという。参謀総長アエロメーエフ元帥は、事故後2ヶ月間は本当に戦争のようだった、と後に述懐している。5月6日、モスクワで内外記者団を集めチェルノブイリ事故についての初めての記者会見が行われ、シチェルビナ副首相やペトロシャンツ国家原子力利用委員会議長らが出席した。シチェルビナは、発電所敷地境界の放射線が最高で10〜15ミリレントゲン/時などと、放射線レベルを楽観的に発表し、ペトロシャンツは、「科学に犠牲はつきものだ」と述べたという。5月14日、ゴルバチョフがチェルノブイリ事故についてテレビで演説し、そのなかで彼は、「チェルノブイリ事故は、核戦争が起きたらどんな恐ろしいことになるかを示した」という奇妙な論理を披露している。

 

3.リクヴィダートル

 ここ数年の間、チェルノブイリ事故に関して新たな情報やデータがいろいろと出てきている。しかし、事故処理と除染作業に従事した人々、いわゆる「リクヴィダートル」(ロシア語で<清算活動をする人>)に関するまとまったデータはほとんどない。1990年にキエフで開かれた第1回チェルノブイリ被災者全ソ大会の報告では、その数は60万人で、うち4分の1が正規軍、残りが予備役ほかの民間人だったと報告されている。

 リクヴィダートルには、周辺30kmの立ち入り禁止区域内において、さまざまな作業に従事した人々が含まれているが、その主役は軍隊であった。ここでは最も被曝が多かったと考えられる、事故炉周辺で働いた人々について考えてみよう。といっても、全体を把握できるようなデータを示すことはできないので、断片的なデータや伝聞を組み立ててみるしかない。

<ヘリコプター部隊>

 原子炉消火のための空中投下を担当したのは、キエフ軍管区副司令官アントキシン空軍少将の指揮するヘリコプター部隊であった。燃え続ける原子炉を封じ込めるため、ヘリコプター部隊が活動を始めたのは、4月27日からである。アントキシン少将は、ヘリコプターとパイロットの招集、投下する資材の確保や袋づめと大車輪で活躍したという。袋詰めの作業員がいなかったので、初めは政府要人までかりだされた。27日には110回の飛行が行われ、150トンの砂袋が投下された。以下、28日300トン、29日750トン、30日1500トン5月1日1900トンという数字が残っている。投下された資材の重さで原子炉基礎のコンクリートが破壊される恐れが指摘されたため、5月2日以降の投下は控えられた。この間、2,000トンの鉛を含め、5,000トン以上の砂、ドロマイト、ホウ素などの資材が投下された。

 高度100〜200mから原子炉のクレーターを覗くと、傾いた原子炉上部板の隙間から太陽のように熱せられた光が見えたという。クレーターからは放射能をたっぷり含んだ熱気が上がってくる。高度110mで線量計は500レントゲン/時にも達していた。投下の衝撃によってさらに放射能が舞い上がった。最初に活動したパイロットら30人がまもなく戦列をはなれ、キエフへ送られた。彼らの血液中からウランやプルトニウムを除去するため、何度も血液交換が行われたという。

 こうしたヘリコプター・パイロットたちの英雄的な活動が、崩壊原子炉からの放射能放出を封じ込めるため、実際にどれほど有効だったかは、疑問の残るところである。後の調査によると、投下された資材は、原子炉中央ホールに散乱しており、原子炉そのものの封じ込めには失敗していたことが判明している。

<建屋内の活動>

 1986年ソ連報告書によると、崩壊原子炉からの放射能の大量放出が終息したのは5月6日のことになっている。この日、3号炉側から穴を開けて、原子炉の下に窒素を送り込むことに成功した。酸素の供給がなくなり黒鉛火災が止まったことが放射能放出終息の理由であろう。

 原子炉そのものや周辺の部屋がどのような状態にあるのか、この段階ではほとんど分かっていなかった。核燃料が溶けたり基礎が崩壊すると、原子炉直下にあるプールの水と接触して水蒸気爆発を起こす恐れがあった。まず、原発の職員3人が、ウェットスーツを着けプールの排水バルブを開けて水を抜こうとしたが、バルブは動かずうまく行かなかった。そこで消防隊にその任務が与えられた。6日の夜12人の志願者が水抜き作業のため建屋に入った。地下プールから排水ホースを引き、ポンプを設置する作業を24分で行った。しかし、ポンプが止まったりホースが漏れたりしたので何度か引き返す必要があった。

 一方、建屋の外からは、原子炉の下へ向けてトンネルが掘られつつあった。溶融した燃料が基礎コンクリートを貫いてしまう、いわゆるチャイナシンドロームに備え、基礎の下にコンクリートを流し込みその中に冷却用配管を設置する工事であった。400人近くの地下鉄工事と炭坑の労働者が、24時間8交替で作業にあたっていた。狭いトンネルでは機械力はほとんど使えなかった。トンネル内の放射能はそれほどではなかったが、劣悪な条件下で約140mのトンネルが掘られ、この作業は6月末に完了した。

<建屋外の活動>

 原子炉建屋の周辺では、飛び散った残骸の片付けや除染が始まっていた。4号炉の周辺には、原子炉の黒鉛や燃料棒がゴロゴロころがっていたという。まず、それらを集めコンテナに収納した。機械力を使おうとしたが、あまりうまく行かなかったようだ。さらに、周辺の表土を剥し、コンクリートを流したり、土の入れ替えが行われた。しかし、こうした作業が、いつどのように、どれくらいの放射線環境下で、どれくらいの人数がこの作業に従事したかは、はっきりしない。 

 先のメドベージェフの本には、自ら事故現場に出かけたときの様子が描かれている。事故発生から約2週間の5月9日であった。彼はまず、その時政府委員会が置かれていたチェルノブイリ市へ立ち寄った。チェルノブイリ市に近づくと、道路の両わきは、軍隊の野営地で、テント、装甲車、ブルドーザーなどでビッシリ埋まっていたという。政府委員会のある建物では、中央官庁のそれぞれが出先連絡所を開設してゴッタ返しており、とても統制がとれているなどという状況ではなかった。

 そこから車を調達し、現場へ向かった。プリピャチ市内の放射線量は、700〜 1,000ミリレントゲン/時ぐらいであったが、場所によっては60レントゲン/時もあった。市内には、住民が避難した後、始末に困って射殺された犬や猫の死骸がゴロゴロしていた。

 事故現場での記述は、彼の本(1)をそのまま引用しよう(ヴァロージャは運転手)。

<<4号炉までおよそ400m。私はヴァロージャに言った。

「前輪の駆動スイッチも入れよう。車の登攀能力を上げておく必要があろう」

 だが、あれはいったいなんだろう?...4号炉の隣り、堆積のそばの囲いの中で、兵士たちが行き来して、何かを集めている。

「右に曲がってくれ。ここでいい...ああ、もうちょっと前...建物の向こう側に行き、塀のそばで止めてほしい」

「(放射線で)焼かれますよ」

 私をじっと見つめてヴァロージャが言う。かれの顔は緊張で紅潮している。二人ともマスクを着けた。

「ここで停止。ああ!あそこでは将校もやってるぞ...将官もだ...」

「大将がいますよ」

ヴァロージャが確かめた。

「あれは多分ピカロフ大将だ...」

 兵士と将校たちが燃料と黒鉛を手づかみで集めている。バケツを持ち歩いて集めているのだ。それをコンテナに放り込む。われわれの車のそばにある塀の向こうにも黒鉛がころがっている。私はドアを開けて、放射線測定器を黒鉛のかたまりのすぐ近くまで突き出してみた。2000レントゲン/時だ。ドアを閉める。オゾン、焼け焦げ、埃、さらに何かが混じった異臭が鼻を刺した。その異臭は、多分、人間の焼けるにおいではないだろうか...兵士たちは黒鉛がいっぱい詰まったバケツを集め、ゆっくりと金属性のコンテナの方に運び、バケツの中身をそのなかに移している。愛する人たちよ、あなた方は何という恐ろしい収穫を集めているのか、と私は思った。>>

 メドベージェフが事故現場を見た前日、クルスク原発から上級技術者のアキーモフ(運転員のアキーモフとは別人)が、事故処理に志願してチェルノブイリに到着した。彼は、当時の出来事を以下のように回想している(5)。

 <<それは多分、5月15〜20日の間の深夜のことであった。若い兵隊が仕事をしている私のところへやって来て、「被曝証明書を書いてくれ」という。それは私の仕事ではなかったが、「いったいどこで作業をしていたのか」と地図を示しながら聞くと、廃液貯蔵所を指した。そこには、60レントゲン/時と放射線量が記入してあった。どの位の時間いたのか、と聞くと、約30分です、と答えた。私は不意に気分が悪くなった。彼らは測定器を持っていなかった。「他にはどこにいたか」と聞くと、35レントゲン/時の場所と50レントゲン/時の場所を示した。それぞれに30分ずついたとすれば、合計で70〜75レントゲンにもなる。彼のグループ6人の名前を聞き、被曝証明書を作成してやった。>>

 アキーモフによると、初期に動員された軍隊は正規軍であり、従って兵役年令の若い兵隊が多かった。5月の末には正規軍はいなくなり、予備役に替わった。作業者の被曝管理は、原子力産業省、中機械製作省、国防省の3つに分かれて行われていた。中機械製作省と国防省は、それぞれ自分のところのスタッフを受け持ち、それ以外の作業者を原子力産業省が受け持った。被曝限度は25レントゲンで、積算の被曝量がそれを越えると作業を離れるという規則だったという。アキーモフらによると、国防省の被曝管理はズサンであり、その記録もどうなったか分からない、と言っている。

 アキーモフが着任した日、彼は政府委員会のシャシャーリンの要請を受け、事故処理に関するいくつかの計画をまとめ、翌日提出した。そのなかに、作業者全員と避難住民の健康モニタリングをすべきだという提言が入っていた。それを見た委員会のイリイン(チェルノブイリ事故の医療対策責任者)は、「こんな計画は、私のものでもないし、我々のものでもない」と突き返したという。

 6月の初め頃から、事故炉全体をコンクリートで覆い閉じ込めてしまうという「石棺」の建設が始まった。同時に、1号炉と2号炉を除染し10月には運転を再開することが決められた。アキーモフは、なぜそんなに石棺の建設を急ぐ必要があったのか、と疑問を投げかけているが、事故処理は終了し発電所は復旧した、とできるだけ早く宣言することが政治的に要求されていたのであった。                               (つづく)  


・付記

<放射能>とは、放射線を出す物質のことである。放射能がこわいのは、その放射線が、我々の体の細胞や遺伝子を傷つけるからである。放射能が地面にあると、そこから出る放射線により、我々の体は外から被曝する(体外被曝)。放射能を含んだ空気を吸ったり水や食物を取り込むと、体の中の放射能から被曝する(体内被曝)。放射能の強さ(毎秒どれだけの数の放射線を出しているかのめやす)を表わすのにキュリーという単位を用いる。

<放射線>とは、放射能から放出される非常に大きなエネルギーを持った電子などの粒子のことで、いわゆるアルファ線、ベータ線、ガンマ線などがある。医療で使うX線は、機械で発生する放射線である。

<被曝線量>とは、どれくらいの量の放射線を受けたか、すなわちどれだけ被曝したかを表わす量である。本稿ではしばしば、レントゲンという単位とラドという単位が出てくる。レントゲンは、どれだけ放射線を浴びせたかという量で、ラドは、どれだけの被曝を受けたかを表わす量である。ここでは、1レントゲンほど浴びると、1ラドほど被曝すると覚えて頂きたい。私たちは、自然放射線によって1年間に100ミリラド(0.1ラド)ほどの被曝を受けている。

<放射線量率>とは、その場所の空気中でどれだけの放射線が飛び交っているかを表わす量で、普通、レントゲン/時という単位が使われる。自然放射線によるバックグラウンド線量率は、通常10マイクロレントゲン/時(0.00001レントゲン/時)程度である。(本稿では、放射線量率のことを、たんに放射線量と表してある。)

<急性放射線障害>とは、一度に大量の被曝をしたときに出る症状である。被曝線量がだいたい100ラドを越えると、個人差もあるが、しばらくして気分が悪くなり、吐き気・おう吐が始まる。400ラドでは、骨髄の造血機能が破壊され、数週間後から2ヶ月後くらいにかけて約半分の人が死亡する。600ラドを越えるとほとんどの人が死亡する。ソ連の公式に発表しているチェルノブイリ事故の死者の大部分は放射線急性障害によるもので、手厚い看護にも拘らず、事故後10日から40日にかけて死亡した。

<晩発性放射線障害>とは、被曝して数年とか数十年してから現れる障害で、ガン・白血病や遺伝障害などが含まれる。急性障害が、大量の細胞死にともなう臓器機能の喪失の結果であるのに対し、晩発性障害は、1ヶの細胞内での突然変異によって起きると考えられている。こうした晩発性障害では、症状の重さは被曝量には関係なく、障害の発生確率が被曝量に関係する。被曝線量が小さい場合、急性障害は起きないが、晩発性障害については、たとえ微量の被曝であろうと、それなりに将来ガン・白血病などにかかる確率が大きくなる。

 なお、厳密さを欠いた説明もあるが、本稿理解のための説明であり、了承願いたい。

 


・参考文献

(1)グレゴリー・メドベージェフ著、松岡信夫訳、「内部告発」、技術と人間、   1990年6月.

(2)松岡信夫、「ドキュメント チェルノブイリ」、緑風出版、1988年8月.

(3)ユーリー・シチェルバク著、松岡信夫訳、「チェルノブイリからの証言」、   技術と人間、1988年3月.

(4)ユーリー・シチェルバク著、松岡信夫訳、「続・チェルノブイリからの証   言」、技術と人間、1989年8月.

(5)V.M.Chernousenko,“Chernobyl Inside from the Inside", Springer-     Verlag, Berlin, 1991.

(6)USSR State Committee on the Utilization of Atomic Energy,“The     Accident at the Chernobyl Nuclear Power Plant and Its Consequences",   August 1986.

 本稿の内容のほとんどは、以上の文献による。その他、断片的な新聞報道などにも基づいているが、省略させて頂く。