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本稿は、「技術と人間」1992年6月号に掲載されたものである
  

チェルノブイリ原発事故による放射能汚染と被災者たち

(2)

                            今中 哲二

 1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故による被災者は、先月号で述べたように、

 (i)事故時の運転員と消防士たち

 (ii)事故処理作業従事者(リクヴィダートル)

 (iii)事故直後避難住民

 (iv)高汚染地帯住民

の4つのグループに分類される。それぞれの人数は、もちろん正確な数字ではないが、これまで伝えられていることを私なりにまとめると、

 (i)1000人程度

 (ii)60万〜100万人

 (iii)13万5000人

 (iv)400万人余り

となる。(i)と(ii)のグループの区別は厳密ではない。(iii)は1986年にソ連が発表した人数そのままである。(iv)は、最近の汚染データを基に、セシウム137で1平方km当り1キュリー以上の汚染地帯の住民数を割り出したものである。

 公式に認められている31名の死者と約200名の急性放射線障害者は、すべて(i)のグループの人々である。逆に言うと、それ以外のグループにおいては、急性放射線障害は認められていない、というのがソ連の公式見解であった。

 今年4月24日のイズベスチヤ紙(1)が、次のような事実を明らかにしている。事故当時、ソ連共産党政治局の会議に報告された、チェルノブイリ周辺住民の患者の数である。

 1986年5月4日、病院収容1882人、急性放射線障害と診断された者204人、うち子供64人、重症18人。

      6日、病院収容3454人、うち入院2600人、子供471人。

      7日、入院4301人、うち子供1351人、急性障害は内務省関係を含め520人、うち重症34名。

      12日、入院10198人、急性障害345人、うち子供35人。

 これらの数字は、上記のグループで言うと、主として(iii)にあたる人々のものであろう。先月号で、除染作業の一端を紹介したが、事故直後の現場では、若い兵士たちが大変な放射線量のなかで、ほとんど素手のまま作業にあたっていたという。これらの数字には、そういったリクヴィダートルたちの数字が加えられる必要がある。

1.石棺の建設(2,3)

 事故から10日後の5月6日に原子炉の火災は収まり、放射能の大量放出は止まった。といっても、破壊された原子炉はむき出しのままである。この破壊された原子炉をまるごとコンクリートで囲ってしまおうという工事が、6月から始まった。高さ60m、縦横約70mの巨大な構造物、いわゆる「石棺」の建設である。ソ連各地の原発などから大量の技術者や労働者がチェルノブイリに招集された。

 まず壁の建設が始まった。現場から少し離れた場所でコンクリートを流し込む枠を作り、それをトレーラーで原子炉建屋まで運び、コンクリートを流し込んで行く。3つのコンクリート工場が建設され、7月の半ばに最初の壁が建設された。原子炉建屋周辺は、土を入れ換えたりコンクリートを敷いたりして除染されていたが、それでも建設現場の放射線量は、150とか180レントゲン/時もあったという。遠隔操作のブルトーザーなどさまざまな機械力が用いられた。この頃には、放射線管理の体制も次第に整えられてきたが、放射線専門家の数と測定器材が不足していた。そして、作業員も放射線に対する知識のない人々が大部分であった。25レントゲンの被曝基準が設定されていたものの、かなりの人々が基準を越える被曝をしたようである。当時現場で放射線管理にあたっていたワシルチェンコの話では、作業員たちの「愛国的」行動が被曝を大きくする一因になったという。

 最初の壁が出来ると、それが放射線の遮蔽物となり、作業はかなりやりやすくなった。12mずつ壁が上へと重ねられて行った。作業は昼夜分かたず急ピッチで進められ、毎日5000トンのコンクリートが使われたという。

 事故から4ヶ月後の1986年8月、ウィーンのIAEA(国際原子力機関)でチェルノブイリ事故についての専門家会議が開かれ、ソ連の代表は、原子炉の埋葬はもうじき終了し、1号炉と2号炉も運転再開を準備中である、と発表した。

 しかしこの頃、現場では難題が持ち上がっていた。地上の除染はかなり進行し、石棺の建設もぼちぼち屋根を乗せる段階に入っていたが、3号炉の屋上と排気塔のプラットフォームには、事故当時のまま原子炉の破片が散らばっていたのである。石棺の屋根が出来上がる前に、それらを集めて石棺の中に投げ入れねばならなかった。そこの放射線量は500〜800レントゲン/時に達していた。

 初めに、ソ連製や日本製のロボットが投入されたが、全く役に立たなかった。現場にはパイプが走っていたり段差があった上、強い放射線でロボットのエレクトロニクスが壊れたという。作業を遅らせるわけには行かなかった。チェルノブイリ事故処理政府委員会は、結局、人海戦術による除染、すなわち兵隊を「バイオロボット」として投入することを決定した。まず、偵察隊により放射線量の測定が行われ、さらに上空から写真をとったりして調べた結果、屋上に散らばっている破片の量は140〜150トンと判明した。

 建設中の5、6号炉建屋を用い、ダミーの黒鉛や燃料棒片を用いてモックアップ訓練が行われた。被曝線量のめやすは20レントゲンとされた。現場の線量を500レントゲン/時とすると、2.4分の作業時間である。兵隊たちが身に付けた装備の重さは20〜25kgにもなった。1人当りのノルマは、黒鉛で50kgか燃料片で10〜15kgとされた。

 9月19日より作業が始まった。バイオロボットには、35才以上の頑健で精神的にもしっかりした兵隊から志願者が選ばれたという。チェルノブイリを描いた映画に、この作業の様子が出てくるので、記憶にある方も多いであろう。兵士たちが、シャベルを使って破片を投げ降ろしているシーンである。作業の様子をテレビカメラでモニターし、ストップウオッチで時間を測り、時間になるとサイレンで知らせた。何人のバイオロボットが動員されたかは定かでないが、1人50kgのノルマで総量150トンとすると、3000人ということになる。平均被曝線量は、12〜20レムであったという。10月1日、屋上の除染が終了し、兵隊たちは、戦いの勝利の証として排気塔の上にソ連国旗を掲げた。しかし、この旗は、それを見て驚いた上司の命令によって、すぐに地上から撃ち落とされた。

 石棺に屋根を乗せるのも大変な工事であった。長さ72m重さ165トンの鉄骨をクレーンで持ち上げ、壁の上に設置した。その上にパイプを並べ、さらに薄い鉄板を敷いたという。政府委員会議長のシチェルビナは、その上にコンクリートを乗せるよう要求したが、設計グループ長のクルノソフが、強度の保証ができない、として断固拒否したという。

 石棺の建設が終わったのは、11月であった。結局、6000トンの鋼材と50万立方mのコンクリートが使われた。50万立方mというと、石棺の体積より大きくなってしまうが、作業中かなりのコンクリートが原子炉建屋の地下などに流れ込んでいることが、後の調査でも判明している。石棺の建設と平行して、1、2号炉復旧のための作業が行われ、1号炉は9月29日、2号炉は11月9日に運転を再開した。3号炉の運転再開は1987年12月であった。

 1986年11月に、除染活動などの全体を統括するための企業体「コンビナート」が結成された。以降、30km圏内の管理を含め事故処理活動の一切はコンビナートによって行われている。

 石棺の建設で、何人の作業員が働いたかは明かでない。私のつかみの感じでは、多分数万から10万人の作業員が動員されたのではないだろうか。断片的なデータながら、石棺の建設にあたった作業員71名などリクヴィダートルの血液中の染色体異常を調べた論文がある(4)。染色体異常発生率から石棺作業員の平均被曝線量を求めると34レムであったが、被曝から検査までの間に染色体異常が減少することを考慮すると、その値は実際の被曝線量より小さめであろうと、論文の著者は述べている。

2.リクヴィダートルの被曝線量の推定

 これまで述べてきたことから、リクヴィダートルたちが大変な被曝を受けたことは明らかであるが、その人数や被曝線量に関するまとまったデータは、残念ながら発表されていない。事故直後のドサクサと、当時の責任者たちは事故の影響をできるだけ小さく見せかけようとしたことを考えると、いまだにキチンとしたデータ収集すらされていないようにも思える。先ほどのワシルチェンコは、1986〜1987年の兵隊たちの被曝線量データはなくなってしまった、と述べている(2)。

 事故処理医療対策の責任者イリインが、リクヴィダートルの被曝線量について報告したグラフが、IAEAのチェルノブイリ諮問委員会報告書(5)に載っている。そのグラフを見ると、全体の人数は示されていないが、

  0〜 1レム(6)  4%

  1〜 5レム   11%

  5〜10レム   30%

 10〜25レム   46%

 25〜50レム   8%

 50レム以上   1%

となっている。リクヴィダートルの数を、かりに60万人とすると、50レム以上の被曝は6000人ということになる。先月号でも述べたように、イリインは事故を小さく見せようとしている張本人の一人であり、彼の報告をそのまま受け取るわけには行かない。

 本稿の始めに述べたように、5月12日の段階で1万人以上の住民が病院に収容されている。事故直後に現場に入ったリクヴィダートルたちの被曝線量は住民よりもかなり大きかったであろう。一般に、吐き気・おう吐などの急性放射線障害が現れるのは、一度に100レム以上の被曝のときと言われており、100レムを越える被曝を受けたリクヴィダートルの数は数万に及ぶと考えるのが順当である。

 前節でも述べた、染色体異常を調べた論文(4)のデータを基にリクヴィダートル全体の被曝線量を考えてみよう。論文中の被検者の数は限られたものであり、そのデータがリクヴィダートル全体をどこまで代表しているかは明らかでないが、ここではそのデータが全体の被曝線量分布を反映しているものとしておこう。表1は、その論文中の染色体異常の頻度分布図を読み取り、被曝線量に換算してグループ分けしたものである。ただし、被曝から検査までの期間の、染色体異常の消失分を補正するため、1986年の検査については、被曝線量を1.5倍にし、1987年以降については2倍にしてある(7)。

 この表を基にリクヴィダートル全体の被曝線量を見積ってみよう。まず、リクヴィダートル全体の人数を推定する必要がある。60万人とか100万人とか言われているが、いずれも断片的な話で、それらの根拠は明らかでない。ここでは一応、事故後4年間に60万人のリクヴィダートルが働いたとし、以下のグループに分けて考える。

 (イ)事故直後緊急時作業者(〜1986.5)       5万人

 (ロ)石棺建設労働者(1986.6〜11)         5万人

 (ハ)1986年のイ、ロ以外作業者          20万人

 (ニ)1987〜1989年の作業従事者          30万人

(ロ)のグループについては、表1のAの被曝線量分布を適用する。(ハ)のグループには表1のBを、(ニ)には、C〜Eを平均した値を適用することにする。(イ)のグループには、表1は適用できない。私の全くの独断であるが、5月末までの急性障害患者を2万人と考えて、100レム以上を2万人、それ以外の線量グループを各1万人としてする。そうしてまとめたのが表2である。

 バナナの叩き売りのような見積りであるが、60万人のリクヴィダートル全体の平均被曝線量は約36レムで、そのうち100レム以上被曝した人の数は、なんと5万人にも及ぶという結果になる。この5万人という数は、必ずしも5万人の急性放射線障害患者があった、ということを意味しない。被曝期間が数ヶ月といったように長くなると、急性障害は顕著には現れなくなることが知られている。

 

   表1:染色体異常データに基づく被曝線量の分布

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                             被曝線量別割合(%)

   分類     検査年 検査人数 平均被曝 ・・・・・・・・・・・・・・・

              (人)  線量(レム) 0〜10レム 10〜50レム 50〜100レム 100〜200レム

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

A 石棺建設労働者  1986    71    51    16     33    33    18

B 発電所労働者   1986   83    35    24     53    14     9

C 発電所労働者   1987   74    20    29     57    14     0

D 発電所労働者   1988   不明   28     15    66    19     0

E コンビナート労働者  1987   58    33     14    53    27     6

F プリピャチ市避難民 1986   102    17    50    33    10     7

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注:文献4で示されている平均被曝線量は、A:34.1、B:23.6、C:10.0、D:記載なし、

  E:16.5、F:11.2(レム)である。

 

 

   表2:リクヴィダートル全体の被曝線量分布の推定

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                     被曝線量別人数(万人)

   分類      人数  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     

          (万人)  0〜10レム  10〜50レム  50〜100レム  100〜200レム

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     

イ 緊急時作業者    5    1     1     1     2

ロ 石棺建設労働者   5    0.8   1.65   1.65   0.9 

ハ 1986年作業者   20    4.8  10.6    2.8    1.8

ニ 1987〜9年作業者  30    5.8  17.6    6.0    0.6

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   合計(約)   60   12    41    12     5

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3.リクヴィダートルの健康影響

手紙1:「数日前(1990年1月14日)、大変な悲しみが私たちを襲いました。私たちの息子、ヴァレリーが逝ってしまったのです。1965年生まれでした。ミンスクで兵役についていたとき、1986年5〜6月、彼はチェルノブイリの事故処理作業に参加しました。1989年10月、検査のため病院へ行ったとき、左の腎臓にガンが見つかり、肺と肝臓に転移していました。小さな子供二人(2才半と6才)が残されました。

 ヴァレリーの子供たちにチェルノブイリ退役兵の年金を得るにはどうしたらよいのか教えて下さるようお願い致します。

                ピョートル・ペトロービッチ・スバロフ

                           1990年1月20日」

 

手紙2:「チェルノブイリ事故の直後、私の夫は緊急招集され、事故処理作業に派遣されました。その後、彼の健康は悪くなりました。常に頭痛や手足の痛みがありました。突然目が見えなくなりました。どこへ行こうと治療の方法がありませんでした。以前は必要とされた人間であったのに、誰も彼を必要としなくなりました。彼のため注射代を払わねばなりませんでした。医療費は無料のはずなのに、どこへ行っても金、金でした。

 彼の痛みはひどくなり、耐えられないほどになりました。そして1989年12月1日、彼は死にました。

 このむごたらしい真実、何の助けもなくチェルノブイリのリクヴィダートルたちが如何に死んで行ったか、私はみんなに知って頂きたい。彼らこそ、かつて世間から、英雄と称えられ、国や世界を救ったと書き立てられた人々なのです。

                           N.マゲーラ

                           1990年4月5日」

 

これらの手紙は、キエフのチェルノブイリ同盟にあてられたものである。チェルノブイリ同盟は、事故被災者救済のための民間団体で、被災者が中心になってソ連各地で設立されている。キエフでは、1990年始め公的な団体としてウクライナ共和国に認められている。キエフのチェルノブイリ同盟には、上記のような手紙が数千も寄せられているという(2)。

 1986年末、ソ連政府は、チェルノブイリ事故の放射線影響の研究と被災者治療を目的として、キエフに全ソ放射線医学研究センターを設立した。60万人にのぼる被災者を登録し、追跡調査して事故の影響を調べるということで、世界的にも注目されている研究所である。しかし、放射線医学研究センターを管轄しているのは、ソ連邦医学アカデミーであり、私の文章に度々登場するイリイン博士が、そのアカデミーの副総裁でもあることを考えると、その設立時からセンターの役割は決っていたと言えよう。

 チェルノブイリ事故による放射線影響に対するソ連中央政府の建前は、事故時の運転員と消防士以外に急性の放射線障害を受けたものはいない、晩発性のガンや白血病があったとしても無視できるぐらいわずかである、というものであった。それ以外の被曝影響は原則的に存在しないものとされたのである。次の通達は、その姿勢をはっきりと打ち出している(8)。

「ソビエト連邦国防省中央軍医委員会通達 No205 1987年7月8日

その1.放射線被曝によって引き起こされる影響の一つとして、50ラド以上の被曝があった場合に5〜10年後に発生する白血病に関心を向けるべきである。

その2.事故処理作業に従事し、かつ急性放射線症状の出なかった人物において、急性的な病気や慢性病悪化の兆候があっても、放射線被曝との因果関係を認めてはならない。(後略)

          第10軍医委員会委員長 軍医大佐 B.バクシュートフ」

 リクヴィダートルが病気になると、まずその地域の病院で診てもらい、事故処理作業との関連が疑われると、医学研究センターに送られることになる。ウクライナ共和国では、医学研究センターが、放射線と病気との関連を認定できるただ一つの研究所であった。検査が終わってしばらくして、リクヴィダートルやその家族は、次のような通知を受け取ることになる。

「あなたの夫の病気と、彼がチェルノブイリ発電所に滞在したという事実との間には関係がない、と医学研究センターが結論したことをお知らせします。従いまして、病気以前の給料と現在与えられている年金との差額を、あなたの夫が以前に働いていた研究所が支払うべきだ、という要求には答えることは困難であります。そのような支払いは現行法令のみならず、企業評議会の決定にも反するものであります。

 食料の特別割当を認めるかどうかの決定は、ウクライナ共和国保健省が適切な証拠に基づいて行うでしょう。

                        B.M.シャルベンコ

                        州職業評議会書記」(2)

 1986年5月にチェルノブイリ発電所で作業し、現在「普通の」病気に認定されている男性からチェルノブイリ同盟に手紙が寄せられている。その手紙によると、医学研究センターで被曝との関連が認められたのは、皮膚に放射線火傷が残っていたケースだけで、2年間で2件のみであった。医学センターでは、ほとんどのケースが普通の病気とされ、被曝との関連を訴えると「ラジオフォビア(放射能恐怖症)」と呼ばれたという。しかし、この男性がセンターに入院していた1988年10月に、チェコ科学アカデミーの代表が訪れたとき、センター側の代表は、リクヴィダートルの有病率は一般の人々の3倍である、と語っていたという(2)。

4.リクヴィダートルの死亡率

 自らもリクヴィダートルであり、本稿の主要な引用文献「チェルノブイリ:インサイド・フローム・ザ・インサイド」(2)の著者であるチェルナウセンコは、 1991年4月にチェルノブイリ事故による死者の数は、7000〜1万人におよぶと発表した。すると数日後には、ソ連医学アカデミーのイリインが、事故後2ヶ月間の死者は28名であり、その後リクヴィダートルにはガンなどの増加は認められない、とチェルナウセンコの発表を否定している。事故の真相を追求する側と責任当局との間で、こうした泥試合のようなやり取りの繰り返しが、この数年間続けられてきた。

 チェルノブイリ同盟が、1986年から続けてチェルノブイリで働いている発電所従業員1200人の死亡率を調べている。そのデータを基にリクヴィダートルの死亡率を考えてみよう。それによると、事故直後の急性放射線障害死者と交通事故死を除き、事故から3年間の間にさまざまな病気で43名が死亡している。死亡年令は、20代1名、30代10名、40代21名、50代7名、60代1名、年令不明3名であった。これから死亡率を求めると、1年間で1.2%となる。発電所従業員の年令構成は分からないが、ここでは全員40代であったとしよう。ソ連国民の40代の死亡率は手元にないが、日本の1980年における40代男性の年間死亡率は、人口動態統計によると、0.35%である。この値がソ連にも適用できるとするなら、チェルノブイリ発電所従業員の死亡率は一般の人に比べ3.4倍ということになる。

 事故以来発電所で働いてきた従業員の被曝線量は、リクヴィダートル全体の平均より当然ながらかなり大きいものであろう。年間1.2%という死亡率を、表2の100レム以上被曝グループの5万人に適用して、事故後6年間の死者数を求めると3600件になる。この数字が、一般の人に比べ3.4倍大きいとすると、このうち約 1000件が、いわゆる自然死であり、2600件が事故処理作業に起因するものと言える。さらに、この発電所労働者の死亡率を50レム以上被曝のリクヴィダートル17万人に適用してみると、死者数は約1万2000件となり、事故処理作業に起因するのは8600件ということになる。

 今年の4月には、ウクライナのチェルノブイリ事故対策大臣が、事故によるさまざまな影響で死んだ人の数は、ウクライナだけで6000〜8000人におよび、そのなかでリクヴィダートルの死亡率は一般の3〜5倍であった、と発表している(9)。これらの数字は、ここで私が出したものと基本的に一致している。

 リクヴィダートルの健康影響をイリインらのような権威筋が認めない根拠の一つは、広島・長崎の被曝体験と関係している。現在の放射線影響の「常識」に従うと、被曝影響は、急性障害と晩発性障害に分けられる。急性の障害は、死亡を免れたなら、半年ぐらいで正常な状態に回復し、一方、晩発性の障害とは、ガンや白血病であり、これらは数年から10年ぐらい経たないと発現しない、ということになっている。つまり、リクヴィダートルについて言われれている免疫系の障害とか、循環器系の障害の増加は、「常識」に従うと放射線影響に入っていないのである。これらの常識の最大の根拠になっているのが広島・長崎の被爆生存者の追跡調査データである。しかしながら、その追跡調査が本格的に始まったのは、1950年頃からであり、被爆から5年以上も経ってからであった。広島や長崎では、「原爆ブラブラ病」という言葉があるが、原爆ブラブラ病の死者たちは、戦争直後の混乱のなかに埋もれてしまった。そして、データのないことが、影響がなかったということに置き換えられて「常識」が出来上がったのである。

 キチンとしたデータがない以上、広島・長崎を基にチェルノブイリのリクヴィダートルたちの健康影響を結論づけることはできない。むしろ、チェルノブイリの現在の経験を基に、広島・長崎のデータ空白期間を見直す作業が必要ではないか、と私は考えている。

 ソ連邦崩壊後の流れの中で、チェルノブイリ事故を小さく見せようとし続けてきた人々の立場は徐々に弱まりつつように見えるが、事故全体の影響を評価するための肝心なデータを握っているのは彼らである。また彼らには、IAEAなど、チェルノブイリ事故の被災者の実状はできるだけ伏せておきたい、という原発推進勢力からの国際的支援も寄せられている。

 事故の責任を取るべきソ連邦そのものが消えてしまった以上、モスクワ中央政府vs各共和国政府の対立(10)という以前の構図はなくなるが、チェルノブイリ事故対策をめぐっての対立は、それぞれ各共和国の中にもちこまれることになる。おそらく各共和国それぞれにイリイン氏が現れてくるであろう。

 私としては、日本における研究者の一人として、微力ながらも、私なりに原子力の問題を考え被曝の問題に取り組むことで、チェルノブイリの被災者の側から事故の真相を明らかにして行くことに努めて行きたい、と思っている。

 多くのリクヴィダートルにとって、チェルノブイリ「以前」と「以降」とで、その人生は全く別のものになったという。1986年当時は英雄と持ち上げられたものの、ペレストロイカの混迷とともに、次第に世間の目も冷たくなって行った。ウクライナ・チェルノブイリ同盟の創始者の一人でその副議長をしているレーピンが次のように述べている(2)。

 「チェルノブイリ!チェルノブイリ!と、騒ぎたてられているが、いったいどれほどのことが言われ書かれたであろうか。チェルノブイリについて、その真実を語る人間が出てくるのをいまだ私は待ち望んでいる。かつて、ソルジェニーツィンが書いたように。

 悲劇的なことに、ソルジェニーツィンが書いたことは過去、つまり比較的前のことであったのに比べ、チェルノブイリの問題は、現在、今日そのもののことである。」

                             (つづく)
 

注:

(1) Ярoшинcкaя A.、“Coрoк ceкрeтныx

   прoтoкoлoв крeмлeвcкиx мудрeцoв”、

   ИЗВЕCТИЯ、24 апpeля 1992.

(2) V.M.Chernousenko,“Chernobyl: Inside from the Inside",

   Springer-Verlag, Berlin, 1991.

(3) 松岡信夫、「ドキュメント チェルノブイリ」、緑風出版、1988.

(4) Шeвчeнкo В.A. и др.、“Иcпoльзoвaниe     мeтoдa биoлoгичecкoй дoзимeтрии

   в уcлoвияx aвaрии нa Чeрнoбыльcкoй   AЭC”、Прoблeмы бeзoпacнocти при

   чрeзвычайныx cитуaцияx、

   Bып.12、1990、C.69.

(5) International Advisory Committee/IAEA,“The International Chernobyl

   Project: Technical Report", IAEA, 1991.

(6) 先月号では説明しなかったが、「レム」というのも被曝線量の単位のひとつ

   である。本稿の範囲ではとりあえず、レムは先月述べた「ラド」と同じで、

   1レントゲンほど放射線を浴びると、1レムの被曝になる、と理解しておい

   て頂きたい。

(7) 文献4の被曝線量推定は、二動原体など、いわゆる不安定型の染色体異常を   用いている。この型の染色体異常は長続きしないため、被曝から時間を経た   検査の場合は、その間の消失分の補正が必要となる。文献4には、補正係数   をいくらにすべきかは示されていないが、諸説あるものの、被曝後5週から   10週で染色体異常が半分に減ると報告されている、と述べていることと、   1987年の被検査者の大部分は、実際は25レムの基準まで被曝していたと思わ   れる、という記述から、本文のような補正係数を採用した。

(8) Кoвaлeвcкaя Л.、“Пoрoги Чeрнoбыля”、

   Paдyгa、 No.4 1991 C.114.

(9) 朝日新聞、1992年4月23日.

(10) 今中哲二、「白ロシアでの放射能汚染調査」、技術と人間、1991年12月.