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本稿は、「技術と人間」1992年7月号に掲載されたものである



チェルノブイリ原発事故による放射能汚染と被災者たち

(3)

   今中 哲二

 


 1986年4月27日の日曜日、ウクライナの首都キエフは朝から快晴であった。多くの市民が、郊外の別荘などに出かけたりするつもりでバス停に並んでいた。しかし、どういうわけか、バスはほとんどやって来なかった。その前日、100km余り北方のチェルノブイリ原発で大変な事故が発生したことを知るキエフ市民は、まだほとんどいなかった。

 一方、チェルノブイリ原発従業員の町、プリピャチ市では、27日の昼頃、次のようなラジオ放送が流された。

 「皆さん、チェルノブイリ原発事故に関連して、避難が布告されました。身分証明書を携帯し、必要なものと3日分の食料を持参して下さい。避難は14時に開始されます。」(1)

 今月号では、前に分類した被災者グループの3番目、事故直後に原発周辺から避難した人々についてまとめてみる。

1.4月26日、プリピャチ市(2、3)

 プリピャチ市執行委員会副議長のエサウーロフが、事故発生の電話連絡を受けたのは、4月26日午前3時過ぎであった。4時前には市役所にかけつけた。発電所の4号炉で事故が発生したのは、午前1時24分頃である。夜明け前からプリピャチ市の幹部たちは市役所に集まって対策の相談を始めたが、いったい何をやってよいのやら判断がつかなかったようである。

 1986年8月のソ連報告書(4)では、「事故後ただちに、屋外に出ないようにし窓を閉めるようにという勧告が出された。26日は、すべての幼稚園、学校において野外活動が禁止され、ヨウ素剤の投与が実施された」と述べられているが、プリピャチ市民の証言を見ると、これは事実には合わない。

 午前10時頃、共産党キエフ州委員会のマロムーシ第二書記を迎え、市役所で短い会議が開かれた。その日に予定されていた集会が問題になると、マロムーシは、「計画していたことはすべて実行したまえ」と指示を出したという。26日の土曜日は、すべての学校で予定通り授業が行われた。ただし、多くの学校では、窓を閉め切り屋外の授業を中止したりした。先述のエサウーロフは、自分の判断で、市内に散水車を出動させたという。

 プリピャチ市内から事故を起こした4号炉は、よく見通せた。正式な発表は一切なかったが、その日のうちに、市民の多くは事故があったことを知った。それでも、買物に出かけたり子供を外で遊ばせたり、普段通りの土曜日を過ごしたという。なかには、煙を吐く原子炉を眺めながら、アパートの屋上で日光浴をした人もいた。ただ、いつもに比べ日焼けがきつかったとのことである。窓を閉めて家に閉じこもり、ヨウ素剤を飲んだのは、発電所関係者のごく一部の家族だけだったようである。

 1986年ソ連報告書によると、4月26日午前9時のプリピャチ市内の放射線量は、14〜140ミリレム/時であった。この放射線量は、自然放射線によるバックグラウンドの、1000倍から1万倍以上である。

 それにしても、事故当日のプリピャチ市民のノンビリさは、我々には不思議なほどである。原発で大事故など起きるなどとは、発電所の責任者や市当局者をはじめ、プリピャチ市民の大部分も考えたこともなかったのであろう。考えたこともないことが起きたのであるから、その対策が準備されていなかったのは当然である。市当局が独自の判断で住民避難などの対策をとるなど思いもよらなかったようだ。すべては上級組織の判断、せんじつめればモスクワからの指令を仰がねばならなかった。

 当時のソ連副首相シチェルビナを委員長とするソ連政府事故処理委員会のメンバーがプリピャチ市に到着しはじめたのは、26日の夕刻からであった。政府委員会の最初の会議で、プリピャチ市民の避難が議題にあがった。政府委員会の物理学者たちは、事態の進展は予断を許さないものであり避難を主張したが、保健省の医学者と民間防衛隊が反対したという。そうした議論を受け、夜10時頃、シチェルビナが翌27日に避難を実施するとの決断を行った。

2.プリピャチ市の避難(2、3)

 4万5000人のプリピャチ市住民を、短時間で混乱もなく避難させるなどということは、途方もない作業である。それでも、当時のソ連の中央集権体制では、いったん指令が出ると、ものごとは迅速に運ばれた。キエフ市からは1200台のバスが招集された。市役所では、人員の手配、書類づくりなどの仕事が徹夜で行われた。避難を実施する作業を実質的に指揮したのは、ウクライナ共和国の内務省だったようである。

 27日の朝、プリピャチ市民の大部分の生活は、普段の日曜日通り平穏に始まっていた。1986年ソ連報告書によると、発電所に近い側にあるクルチャトフ街の午前7時の放射線量は、180〜600ミリレム/時であった。もちろん、そんな数字を市民は知らなかった。もうすぐ避難の命令が出ることも知らず、思い思いに散歩をしたり、ショッピングセンターは買物客で一杯だったという。ただ普段の日曜日と違っていたのは、市内のあちらこちらに警備員が立っていたことである。避難の準備にあたっていた共産主義者青年同盟のペルコフスカヤの話によると、彼女が、それとなく散歩している人に状況を告げると、「私が外を歩いているのは、あんたの知ったこっちゃないでしょう。私は散歩したいからしてるんだ」という返事が返ってきたという。

 12時頃、避難を告げるラジオ放送があり、市内の各アパートには、計画に従って、共産党のメンバーが避難の誘導員として配置された。市内の放射線量は徐々に上昇しつつあった。午後2時、バスへの乗り込みが始まった。事故の発生からすでに36時間が経っていた。避難作業中の放射線量は、290〜1400ミリレントゲン/時であった(5)。当局者が最も恐れていたパニックは発生しなかった。住民たちは整然と避難したという。2時間後には、プリピャチ市はほぼ無人の町となった。避難バスの列は西へ向かい、プリピャチ市から50〜60km離れたポレスコエ地区とイワンコフ地区で住民を下ろした。「3日分の食料を用意して下さい」とは、「3日間だけ避難して戻ってくる」ということだと多くの市民は考えていた。

 プリピャチ市の住民たちが自分の家に戻れたのは、3日後ではなく、数カ月後であった。しかし、再びそこで生活するためではなく、放射線防護服とマスクを着け、大事なものと貴重品を持ち出し、自分の家に永遠に別れを告げるためであった。持ち出そうとした物の多くが、汚染が強いため、結局は廃棄せざるを得なかったという。

3.避難地域の拡大

 1986年のソ連報告書では、「4月27日にプリピャチ市民4万5000人が避難し、それ以外に原発周辺30km圏から事故後2、3日間で住民9万人が避難した」と述べられているが、この記述も事実ではない。プリピャチ市以外、30km圏の住民の避難が決定されたのは、事故から6日もたった5月2日のことであった。プリピャチ市以外、30km圏の大きな町は、南東15kmに位置するチェルノブイリ市(人口1万2500人)だけで、残りは農村地帯である。これらの地域の避難は、事故発生から10日後の5月6日に完了したという。農村の避難は、都会であるプリピャチ市にくらべ、はるかに大変であった。何万何十万という家畜が、住民と一緒に避難した。多くの人々に第二次大戦でのドイツ軍の侵攻のときの避難を思い出させたという。

 なぜプリピャチ市以外の30km圏の避難が遅れたかは明らかでない。5月2日の避難決定は、この日に、ソ連首相のルイシコフと共産党書記のリガチョフが現地を訪れたことと関連していると思われる。文献3で著者シチェルバクは、「ものごとはすべて順調で、勝利と成功だけがある」という肉体に染み込んだ考え方が避難の遅れをもたらした、と責任者たちを批判している。ウクライナ共和国の最高指導者は、5月2日まで一人として現場に足を運ばなかったという。

 文献6によると、5月10日に、放射線量の分布図が作成され、20ミリレム/時以上の地域の面積は1100平方km、5〜20ミリレム/時は3000平方km、3〜5ミリレム/時が8000平方kmであった。30km圏外であっても、放射線量が5ミリレム/時を越える汚染地帯からも避難が実施された。3〜5ミリレム/時のところは厳重監視区域とされ、子供と妊婦の一時的な避難が義務づけられたという。しかし、30km圏外の地域から避難した人数は示されていない。さらに、6月と7月に作成された汚染地図は、ベラルーシの29の居住区とロシア共和国の4つの居住区からも避難が必要なことを示していた。

 キエフは人口250万人の旧ソ連で3番目に大きな都市である。ソ連国内でチェルノブイリ事故の報道が最初にされたのは、29日の夜のテレビニュースであった。(国外向けには、28日夜8時のモスクワ放送が伝えている。)しかし、キエフ市民の多くは、すでに口コミで事故の発生を知っていた。キエフ市の放射線量が上昇し始めたのは、4月30日午前10時からであった。その日のうちに最高2ミリレントゲン/時まで上昇した。翌5月1日、市内の中心にある十月革命広場前では、予定通りメーデーの行進が行われた。キエフ市内の放射線量は、数日間程度0.5〜2ミリレントゲン/時が続き、それから徐々に減少し、5月の末には0.2ミリレントゲン/時程度になった(5)。

 シチェルバクによると、詳しい情報がないまま、キエフ市民は、「破局恐怖症」と「元気者」に分極したという。前者は、あらゆるパニックの情報を振りまいたり、5月の暑さのなかで、頭のてっぺんから足の爪先まで衣類でくるんで歩いたりした。後者は、「すべて結構」と繰り返していた。多くの市民がキエフを離れようとし、鉄道や飛行機の切符売り場はゴッタ返したという。キエフの小学校は夏休みを繰り上げることになった。マスコミは、キエフの市民生活は正常に行われている、と繰り返し伝えたが、5月の半ばまでにキエフを離れた人の数は、パンの消費量からの推測によると、100万に及んだという。

3.避難住民の被曝線量:外部被曝

 表1は、1986年ソ連報告書が示している避難住民13万5000人の外部被曝線量である。放射線量を連続して記録するような野外モニターは、発電所周辺にはほとんど設置されていなかった。ソ連報告書を読むと、表1の値は、事故後15日めの5月10日の時点における、その集落での放射線量を基にして、事故から避難までの外部被曝線量を推定したもののようである(7)。表1の値がどこまで信頼できるかは分からないが、当面この表を基に避難住民の被曝について考えてみよう。プリピャチ住民の平均被曝線量が3.3レムと比較的小さいのに比べ、3〜15kmの住民の平均線量は、35〜54レムとかなりの被曝量になっている。これは、プリピャチ以外の周辺住民の避難が遅れたためと考えられる。

  表1:避難住民の平均外部被曝線量

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  地域     集落数   人数(人)  平均線量(レム)

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 プリピャチ市        4万5000     3.3

 3〜 7km    5     7000    54 

 7〜10km    4     9000    46

10〜15km   10     8200    35

15〜20km   16   1万1600     5.2

20〜25km   20   1万4900     6.0

25〜30km   16   3万9200     4.6

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  合計         13万5000    12

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                 1986年ソ連報告書より作成

 住民の避難が遅れたのではないか、という批判に対して、チェルノブイリ事故の医療対策責任者であり、この連載で毎回登場していただくイリインソ連医学アカデミー副総裁がどう回答しているか、要約して紹介しておこう(1)。

 「ソ連においては1960年代から、このような放射線災害に対する準備を行ってきており、各原発においては総合的な事故対策が用意されている。住民の避難については、基準Aと基準Bが設定されている。基準Aは、全身線量で25レム、子供の甲状腺線量で30レムの被曝が予測される場合である。基準Bは、全身線量で75レム、甲状腺線量で250レムの被曝が予測される場合である。基準Aに達しない場合、避難は行わず、しかるべき予防対策が取られる。基準Bを越える場合は避難が義務付けられるが、AとBの中間では、それぞれの地域事情を考慮して決定される。ちなみにいうと、チェルノブイリの場合基準Bには達していなかった。」

 イリイン氏にかかると、住民の避難は早過ぎた、ということになろう。

4.避難住民の被曝線量:内部被曝

 事故直後で最も問題になる放射能はヨウ素131などの放射性ヨウ素である。ヨウ素を体内に取り込むと、甲状腺にたまり、甲状腺が局所的な被曝を受ける。放射性ヨウ素を体内に取り込む経路は、汚染空気の吸入と汚染飲食物の経口摂取である。1986年ソ連報告書によると、プリピャチ市から避難した住民の甲状腺被曝は、避難直後の200人余りの測定から、97%が30レム以下であった、ただし、プリピャチ以外の30km圏では、汚染された牛乳を飲んだ人がいるため、そうした人々は数100レムの甲状腺被曝を受けた、と述べている。しかし、具体的なデータなどは示されていない。

 断片的ながら、甲状腺中の放射性ヨウ素を体外から測定し、避難住民の甲状腺被曝線量を推定している論文がある(8)。表2は、プリピャチ市からの避難した、一般市民210人(子供75人、大人135人)と原発従業員650人のデータである。一般市民をみると、大人の平均14レムに対し、子供は25レムである。同じ量のヨウ素131を体内に取り込んだ場合、子供の甲状腺被曝の方が、大人に比べ5〜10倍程度大きくなることが知られている。表2の子供と大人で被曝量に大きな違いがないのは、吸入による取り込みが主であったことを示している。つまり、呼吸量は大人の方が3〜6倍程度大きいので、被曝線量としてはほぼ同じくらいになったものと思われる。表3は、プリピャチ市以外の避難住民75人の甲状腺被曝線量であり、事故後、牛乳を飲んでいた人と飲まなかった人に分けて線量が示されている。年令は特定されていないが、大人に関するデータと思われる。集落Iで牛乳を飲んでいた人の平均甲状腺被曝が236レムなど、プリピャチ市の避難民に比べかなり大きい。牛乳を飲んでいた人の甲状腺被曝は、飲んでいない人に比べ、2.2〜2.6倍である。その差が、牛乳の摂取にともなう甲状腺被曝とみてよい。

表2:プリピャチ市避難住民の甲状腺被曝線量とその分布(8)

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          平均        線量別の人数と割合(%)

          線量 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    

         (レム) 15レム以下 15〜75レム 75〜150レム 150〜300レム

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 一般市民:

   子供  75人  25   41(54.7%)  31(41.3%)  2(2.7%)   1(1.3%)

   大人  135人  14   99(73.3%)  34(25.2%)  1(0.7%)   1(0.7%)

 発電所従業員:

       650人  21  416(64.0%)  214(32.9%)  17(2.6%)   3(0.5%)

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甲状腺の測定は、1986年5月3日〜10日に実施.ヨウ素131以外の放射性ヨウ素の寄与も

補正ずみ.

表3:プリピャチ市以外からの避難民の甲状腺被曝線量(8)

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         グループ     人数  平均被曝線量  D2/D1比    

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 集落I   牛乳を飲まなかった人 15人   90レム(D1)   2.6

       牛乳を飲んでいた人  31人  236レム(D2)

 

 集落II   牛乳を飲まなかった人 14人   41レム(D1)   2.2

       牛乳を飲んでいた人  15人   91レム(D2)

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 これらのデータと1986年ソ連報告書のデータを組み合わせて、避難住民全体の甲状腺被曝について見積ってみたのが表4である(9)。あまり細かい扱いをしても意味はないので、3〜15kmと15〜30kmの二つのグループにまとめてある。さらに、0〜7才の子供の割合を全体の1割、汚染牛乳を飲んでいた人と飲まなかった人の割合は半々と仮定してある。

 表4:避難民全体の甲状腺被曝の見積り

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 地域       グループ        人数  取込み経路別線量(レム)

                         吸入  経口  合計

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プリピャチ市  子供                25    0    25

        大人                14    0    14

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3〜15km  牛乳を飲まなかった子供  1200  560    0   560

        牛乳を飲んでいた子供   1200  560  2600   3200

        牛乳を飲まなかった大人 1万800  310    0   310

        牛乳を飲んでいた大人  1万800  310   430   740

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      

        子供平均         2400          1900

        大人平均        2万1600           500

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15〜30km 牛乳を飲まなかった子供  3300   63    0    63

        牛乳を飲んでいた子供   3300   63   290   350

        牛乳を飲まなかった大人 2万9700   35    0    35

        牛乳を飲んでいた大人  2万9700   35   49    84

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      

        子供平均         6600           210

        大人平均        5万9400           60

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子供の年令は0〜7才、大人は7才以上.

 表4を平均すると、プリピャチ市以外の避難住民の平均甲状腺被曝は、子供 9000人の平均で650レム、大人8万1000人の平均で184レムとなる。15km以内の子供で牛乳を飲んでいた子供では、なんと3200レムにも達している。これらの数字は、目を疑いたくなるほどに大きな値である。

 では、どのくらいの量のヨウ素131を取り込んだらこんな数字が出てくるのか考えてみよう。ICRP(国際放射線防護委員会)が示している数字に基づくと、生後3ヶ月の乳児が1マイクロキュリーのヨウ素131を取り込んだ場合の甲状腺の被曝線量は13.7レムで、5才の幼児の場合は7.8レムである(10)。つまり、3200レムの甲状腺被曝は、230から410マイクロキュリーのヨウ素131の摂取に相当している。

 一方、1986年ソ連報告書には、ウクライナ、ベラルーシなどを11地区に分け、事故直後のヨウ素131による牛乳汚染を、汚染濃度の巾で示した図がある。その図を見ると、原発から比較的離れた地区であるベラルーシ共和国北西部において、全体で最も大きい、90マイクロキュリー/lという上限値が示されているが、不思議なことに、もっと近いウクライナ中央部とかベラルーシ南東部の上限値は20マイクロキュリー/l程度になっている。避難地域での汚染が最も大きかったはずであるから、15km以内の牛乳汚染が100マイクロキュリー/lを越えていたことは十分に考えられる。5才の子供が、ヨウ素131による100マイクロキュリー/lの汚染牛乳を4l飲んだとすると、甲状腺の被曝線量は3100レムにも達する。

 文献8では、プリピャチ市から避難した原発労働者の甲状腺被曝について、ヨウ素剤を服用した人としなかった人での被曝線量が比較してある。その図をみると、両者の違いがはっきりと現れ、ヨウ素剤を適切に用いると甲状腺の被曝が10分の1になることを示している。その他、プリピャチ市民の全身計測や排泄物の測定により、その他の核種による内部被曝を見積っている。表5にその結果を紹介しておく。

表5:プリピャチ市からの避難住民(大人)の内部被曝線量(レム)(8)

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            1年目       50年間

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  甲状腺     14〜21      14〜21

   肺       2.6        3.5

  全身       0.068      0.08

  赤色骨髄     0.64      10

  骨        7.3       87

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5.避難民のその後

 チェルノブイリ原発はウクライナ共和国にあるが、その30km圏のうち北側約3分の1はベラルーシ共和国である。文献11では、事故直後に避難した住民の数を11万6500人と述べている。そのうち、9万1600人(79%)がウクライナで、2万4700人(21%)がベラルーシになっている。(さらになぜか、ロシア共和国が181人となっている。)

 避難民たちは、30km圏外の各地区に分散して避難した。しかし、避難先のうち、ポレスコエ地区やナロージチ地区などは、30km圏外でも最も汚染の強い地域であった。そこに留まった避難民は、さらにかなりの被曝を受けたものと考えられる。文献11によると、ウクライナ・キエフ州の各地区では、農村からの避難民のため、87ヶ所の村が新たに作られた。(ただし、ポレスコエ地区には新しい村は作られていない。)事故から5ヶ月後には7000軒の住宅が建設され、1987年の夏までにさらに5000軒が追加された。また、プリピャチ市から避難した原発従業員には、キエフ市とチェルニゴフ市で8000戸のアパートが割り当てられたという。避難民には優先的に仕事が与えられ、医療サービスを提供したと述べられているが、多分に公式見解と見るべき記述であろう。1年後の調査によると、ウクライナの避難民のうち、ウクライナ国内の所在が確認できたもの84%、国外の所在が確認できたもの7%、所在不明のもの9%、となっている。

 ベラルーシ側の状況もほぼ同様で、避難民のため、多数の村や住宅が建設された。普段なら3年かかる住宅建設が半年で行われたという。当然のことながら、多くの住宅が欠陥住宅であった。暖房はうまく働かないし、保温の手を抜いてあるため水道管が凍結したという(1)。

 住宅が提供され学校が建設されたからといって、避難民の生活がうまく行くはずがない。まして、農作業を新しいところで始める困難さは、私などの想像のおよぶところではないであろう。30km圏内は、一応立ち入り禁止になっているが、お年寄りをはじめ、かなりの人々が自主的に帰村しているようである。ベラルーシのグジェニ村のように集団で戻っている場合もある。グジェニ村は、30km圏の東の端、圏内では最も汚染の低いところにあるが、避難した750人のうち500人が村に戻っている。グジェニ村の教師が次のように語っている(3)。

 「私たちにどこか暮らせる場所があったなら、ここへ帰ってくる人は少なかったでしょう。...あえて申しますが、私たちは帰ってこざるを得なかったのです。どこにも行き場がなかった...」。

6.避難民の健康影響

 表6は、先月号でも紹介したが、今年4月24日のイズベスチヤ紙に掲載された、住民の患者数である(12)。事故直後、当時のソ連において最も権力を握っていた共産党中央委員会政治局に、チェルノブイリ事故対策の作業グループが作られた。その作業グループの秘密議事録に残されていた数字である。

 表6:事故直後に病院に収容された住民の数

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  1986年 5月 4日 病院収容1882人、

              急性障害と診断204人、うち幼児64人、

              重症18人.

        5月 6日 病院収容3454人、

              うち入院中2600人、うち幼児471人.

        5月 7日 入院中4301人、うち幼児1351人、

              急性障害は内務省関係者を含め520人、

              重症34人.

        5月12日 入院中1万198人、

              急性障害345人、うち子供35人.

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                  1992年4月24日イズベスチヤ紙より

 「表向き」の公式見解と違って、たいへんな数の患者数が示されている。これらの患者がどこの住民かは分からないが、避難が遅れた住民に加えて、30km圏外の高汚染地帯の住民も含まれていると思われる。5月12日の段階で、入院患者が約1万人で、そのうち放射線障害と診断されたものが345人である。記事にはないが、12日以降、その数はもっと増えていったであろう。入院患者の数に比べ、放射線障害と診断されている人の数が少ないが、これは診断の基準に関係したものであろう。避難の大変さを思うと、通常の病気も増えたであろうが、常識的に考えて、患者の大部分は放射線被曝に関連したものであろう。

 これらの数字と、住民には放射線障害はないという公式見解との食い違いについて、イズベスチヤ紙は次のように述べている。

「数千もの放射線被災者が、いかに奇跡的に、突然に健康を回復したか見てみよう。『機密。議事録その9、1986年5月8日。ソ連保健省は、放射線による住民の許容被曝線量を、従来の10倍にするという新基準を決定した。特別な場合には、この基準は、従来の50倍まで引き上げることが可能である...かくして、現状の放射線の状況においても、今後2.5年間にわたり、すべての年令の住民の健康は保証される』...こうして、治療や薬もなしに、数千もの同胞が、5月8日、一挙に治癒したのであった。」(13)

 そして記事は、薬や医療器具の不足など、現在のロシアにおける医療事情の困難を克服するため、今後、体温の正常値を、36.6度ではなく、たとえば38度に、特別な場合には39度にしたらどうか、と皮肉っている。

 ソ連当局の公式見解は、事故時の運転員と消防士以外に放射線被曝による急性障害を受けたものはいない、また、リクヴィダートル(事故処理作業従事者)をはじめ、周辺住民において、ガン・白血病などの晩発的障害は認められていない、というものである。1988年5月、ソ連保健省などの主催で、チェルノブイリ事故の医学的影響に関する国際会議が、キエフにおいて開かれている。ソ連保健省第一次官セグレーエフの会議での講演を要約すれば次のようになる(14)。

 「事故直後より、我々は、約2000の医療チーム(医療関係者2万3000人)を現地に派遣し、住民の検診と被曝線量の調査にあたった。避難住民全員を含め、60万人以上の住民(うち子供21万5300人)を検査した。そのうち3万7500人(うち子供1万2600人)については、予防の目的もかねて、病院での検査を行った。事故との関連を疑わせるような悪影響は全く認められていない。晩発性の影響を調査するため、全ソ連放射線医学研究センター(前号参照)を設立し、さらに事故被災者の全ソ登録システムを実施する。しかし、予測されるガンや遺伝的影響は、自然発生のものに比べ、その1万分の1程度の増加に過ぎず、その増加を観察することは困難である。」

 ソ連はなくなってしまったものの、このような公式見解の持ち主は、現在も重要なポストにあり、事故に責任を持つべき人の見解は変わっていない。彼らには、チェルノブイリ事故の真相はできるだけ伏せておきたいという、IAEA(国際原子力機関)などの国際的支援もよせられている。

 イズベスチヤ紙の記事を考えると、上記のセグレーエフの講演は、「3万7500人の病院検査」を「3万7500人の放射線障害」と読むべきであろう、と私には思える。

 イズベスチヤの記事をはじめ、避難住民の間に急性放射線障害があったことは間違いないが、では具体的にどのようなデータがあるかとなると、残念ながら、まとまったものを私は目にしたことがない。事故当時の原発の従業員で、10km内にあるブラコヴァ村に住み、事故の時に原発にいあわせて380ラド被曝し、1986年9月までモスクワの病院に入院し、現在も病気がちだというストラヴォイトフの証言を引用しておく(15)。

 「事故のとき、私は4号炉から500mぐらいのところにいた。爆発の1、2分後、雨が降った。黒いススのような雨だった。...私の姉も10km内にあるチストゴロフカ村というところに住んでおり、5月4日に避難した。彼女の娘は、その時2才だったが、日中庭の砂場で遊んでいた。10才の息子は、いつもの通り4月26日はプリピャチ市にある学校へ行った。その日の午後、戦車やガスマスクをした兵士がプリピャチにやって来て、人々は原子炉が燃えているのに気付いた。学校から、子供や大人が火事を見物に橋へ駆け寄った。その橋は、4号炉から1kmほどである。現在、甥や姪は病気で、二人とも、手足に湿疹が出たり、肝臓や胃の病気、貧血や頭痛がしたりしている。...事故このかた、彼らは病院での治療を受けていない。キエフで血液検査を受けたが、その結果を彼らは受け取っていない。姉は、子供たちのための医療機関を探して走り回っている。...イリイン・アカデミー会員や新聞は、一般市民の間に放射線障害の患者は1件もない、と言っているが、ではなぜ、私のような人がこんなに多いのであろう。...モスクワの第6病院の主任医師であるグスコヴァ女史が何度かこちらにやって来ている。彼女の任務は、放射線障害であるという以前の診断を取り消すことであった。」

 昨年5月、ウィーンのIAEA本部で、チェルノブイリ事故の住民への影響を調査した国際プロジェクトの報告会が開かれている。報告会の結論は、放射能汚染による住民への影響は認められない、というものであったが、その会議で、ベラルーシ共和国チェルノブイリ事故委員会議長のコノプリャは、次のように述べ、プロジェクト報告書の訂正を求めている(16)。

 「レニングラード小児科研究所の科学者が、スウェーデンと共同研究を行い、人口10万人のある町で、12〜14才の子供1万人を調査しました。...その町には、1986年に30km圏から避難してきた人たちがおり、約300人の子供が含まれています。そうした子供たちでは、90%が甲状腺障害を抱えています。(プロジェクトの)報告書には、子供たちの甲状腺腫はきわめて稀であった、と述べられています。私は、改訂版においてそこを削除するよう求めます。」

                           (つづく)


(1)松岡信夫、「ドキュメント チェルノブイリ」、緑風出版、1988.

(2)ユーリー・シチェルバク著、松岡信夫訳、「チェルノブイリからの証言」、  技術と人間、1988年3月.

(3)ユーリー・シチェルバク著、松岡信夫訳、「続・チェルノブイリからの証言」、  技術と人間、1989年8月.

(4)USSR State Committee on the Utilization of Atomic Energy,

  "The Accident at the Chernobyl Nuclear Power Plant and Its

  Consequences", August 1986.

(5)I.P.Los, et.al., "The Peculiarities of City Environment Contamination

  and Assessment of Actions Aimed at Reduction of Public Exposure",

  All-Union Scientific Center for Radiation Medicine USSR Academy of

  Medical Sciences, 1991.

(7)ソ連報告書によると、いろいろな測定データを整理して得られた結果として、事故後15日めの空間線量率D15d(ミリレントゲン/時)と、放射能雲からの外部被曝線量Dclや沈着放射能からの事故後7日間の外部被曝線量Dfall(7day)の間に次のような関係が示されている。

 Dcl=(0.28〜0.07)×D15d (レム)

 Dfall(7day)=0.7×D15d (レム)

これらの式を、避難した村々での測定値D15dに適用し、さらに家屋などによる遮蔽の効果として0.7の係数を乗じ、平均したものが表1の値と考えられる。

(8)V.T.Khrushch, et.al., "Characteristics of Radionuclide Intake by

  Inhalation", IAEA-TECDOC-516, Proceedings of an All-Union Conference

  on Medical Aspects of the Chernobyl Accident, Kiev, 11-13 May 1988.

(9)ソ連報告書によると、D15dの値と吸入による子供の甲状腺被曝線量Tinhの間に次のような関係が示されている。

 Tinh=10×D15d (レム)

表1のデータから、D15dの値を逆算し(ただし、Dcl=0.1×D15dと仮定する)、まず、子供の吸入による甲状腺被曝を求めた。大人の吸入による甲状腺被曝は、プリピャチの一般市民のデータを基に、子供の0.56倍とした。経口による大人の甲状腺被曝は、表3のデータを基に、吸入による被曝の1.4倍とした。さらに、子供の経口甲状腺被曝は、大人と同量の放射性ヨウ素の摂取があったものと考え、大人の被曝の6倍とした。

(10)ICRP Publication 56, "Age-dependent Doses to Members of the Public

  from Intake of Radionuclides: Part I", April 1989.

(11)N.I.Omel'yanets, et.al., "Medical Demographic Consequences of the

  Chernobyl Accident", IAEA-TECDOC-516, Proceedings of an All-Union

  Conference on Medical Aspects of the Chernobyl Accident, Kiev, 11-13

  May 1988.

(12)Ярoшинcкaя A.、”Coрoк ceкрeтныx

 прoтoкoлoв крeмлeвcкиx мудрeцoв”、

  ИЗВECТИЯ、24 aпрeля 1992.

(13)従来の基準がいくらであったか、記事にはないが、議事録の内容からすると、事故後1年間の住民の被曝線量を10レムに決めたことをさしているのではないかと思われる。そうであれば、記事にあるような、新基準による健康回復マジックは成立しないが、為政者の都合に合わせて基準を決めたという事情をよく物語っている。

(14)G.V.Segreev, "Medical and Sanitary Measures Taken to Deal with the

  Consequences of the Chernobyl Accident", IAEA-TECDOC-516, Proceedings

  of an All-Union Conference on Medical Aspects of the Chernobyl

  Accident, Kiev, 11-13 May 1988.

(15)V.M.Chernousenko, "Chernobyl: Inside from the Inside",

  Springer-Verlag, Berlin, 1991.

(16)International Advisory Committee/IAEA, "The International Chernobyl

  Project: Proceedings of an International Conference", IAEA, 1991.