本稿は「技術と人間」1993年5月号に掲載された。

 

災難の傷跡はいまだ消えず

                   ミハイル・クリジャノフスキー

 


 <<この記事は、ヴィテプスク、モギリョフ、ゴメリ州担当の「ナバート」の専属記者、ミハイル・クリジャノフスキーによる。彼は、42才のベラルーシ人、最高学府出身で、1968年から記事を書いている。チェルノブイリに関する報告で、共和国ジャーナリスト連盟奨励賞を受けている。ヴィテプスク市在住。>>

I.

 夜汽車の中では、単調な車輪の響きが一晩中続き、やがて朝がやってきた。そして、寝不足で疲れ気味の私の目の前に、低い朝の空が立ちこめ、美しいプリピャチ川の少し傾斜した河岸に、ナローブリャ−−−私の青春時代の町が広がっていた。

 ここからチェルノブイリ発電所まで、60kmにも満たないなどと信じることは難しかった。しかし、1日、2日、3日と過ぎるうち、平穏でありきたりなポレーシエ(訳注:ウクライナ北部やベラルーシ東南部に広がる沼沢土壌地帯)の人々の日常生活の裏から、少しづつ、そして急激に、不安が私に襲いかかってきた。どこからとは分からないものの、至るところ、空気の中にさえも、不安が感じられるようになった。

 ナローブリャの町の活動は、一見したところ、シャルコフシーナやリオズナといった町(訳注:どちらもベラルーシ北部の非汚染地帯にある)と変わるところはない。たとえば、企業体では、どこにでもあるような問題にわずらわされている。そこの指導者たちは、とにもかくにも、いずこの地方都市でもあるような問題から、一日の仕事にとりかかる。つまり、何をどこで手にいれ、手配し、交換し、商売するといったことである。放射能はさておき、その出来高が人々の給料と直接に関係している以上、チェルノブイリ事故までと同じように生産活動が行われている。また、サービス業の人々も、それぞれの人がそれぞれの職場で仕事に励んでいる。要するに、ごく日常的な生活がナローブリャでは営まれている。

 しかし、医者、教師、地区農業組合職員、さらには警官などといった人々と話をしてみると、彼らの内部に、今にもはりさけんばかりの緊張の糸が感じられる。けれどもどうしたことか、放射能に対しまったく無防備の状態に置かれている。商店にはたくさんの食料品が並び、肉、鳥肉、牛乳といったものが売られているが、朝や昼の食卓には、菜園でとれたキュウリ、トマト、ジャガイモが出されている。肉の缶詰、とくに牛肉の缶詰を買おうという人は、最近ではいなくなった。ここ数年で全く飽きられ、嫌われてしまった。

 子供たちのリンゴはバザールで手に入れる。冬に備えて、自家菜園からの食料が貯蔵され、地下室には砂糖漬けのガラスびんが50個以上並べられる。それから、魚はプリピャチ川から捕ってくる。釣人たちは、コイや川カマスといった魚を、親戚、隣人、友人たちに喜んで分け与えている。放射線測定器をもっている人も多いが、それで魚を検査したりするようなことはまずやらない。「シグナル」が出たりして、せっかくのごちそうを放棄しなきゃならないなんて。

 多くの人がブタを飼っている。ナローブリャの町はずれでは、ほとんどすべての家の庭の小屋から、子ブタのうなり声が聞こえる。商店には、安全な食料が運びこまれ、お金も足りているはずなのに、いったい何のためにブタを飼っているのか、と尋ねてみた。

 原発30km圏内から移住させられてきたという人は、子供でも見るかのように私をながめて答えた。「いったい全体、これまで村で家畜を飼ってきたし、ナローブリャがどうしたと言うのかね」。

 夏にはキノコを採る。しかし、非常に慎重な人だけがキノコの放射能を検査している。キノコを食べたいがため、放射能検査ではねられるのが分かっているので、意識的に、検査に持って行かない人もいる。思えば、ここの人々は、四方数10kmにわたってキノコの松林が広がる町で育ったのである。

 低地帯や沼沢地域では、松林にかわって、はんの木、カシ、カエデ、さらには白樺の林が広がっている。夏であろうと冬であろうと、多くの野生動物がいる。チェルノブイリ事故が起きるまで、猟のきまりは守られていた。かりに規則違反があっても、どんな場合でもそこそこの礼儀正しさがあった。ポレーシエの人たちは、森は自分たちの生活を助けてくれるものと考え、森の中の野いちごを大事にし、必要なしに動物を殺すようなことはしなかった。森では、自然の恵みが残るように振舞わねばならないということが分かっていた。

 いまや、そうした賢明なきまりは失われてしまった。といっても、狩への愛着は残っている。私の知り合いの土木労働者は次のように話してくれた。ナローブリャの人々は今、犬と銃と、それから放射線測定器を持って森へ入る。猟犬たちが薮から追い立てるものは何でも打ちまくる。測定器を死んだ獲物に近付け放射能レベルを測る。OKであれば、毛皮と肉をとり、袋に入れる。

 「もしも、獲物に、食用にできないほどの放射能があったら?」と私は尋ねた。「なに、ここではすべて簡単さ、小枝で覆っておいて先に行くだけさ」。

 私たちは、戸口のわきのベンチに座っていた。奥さんが出て来て、にこやかに、夕食に招いてくれた。私は断わってしまった。私はなんだか、自分が自分でないように感じた。友人は多分、私の気持ちを感じとった。彼は、だまって立ち上がり、ガレージへ行き測定器を手にし、急いで戻ってきた。

 「見てみろ、放射線レベルがどんなものか、こいつが見せてくれるさ」と私に言い、彼は測定器を、菜園の方、窓際から2mぐらいのところに放り投げた。

 私は、菜園の柵を開け、中に入って測定器を手にとった。測定器は、許容レベルの2倍の放射線を示していた。

 「あっちの方はもっと強いぞ」と彼は、物置の方を示した。

 私は、菜園の中を物置の方に行き放射線を測った。そこのレベルは、基準を3倍も越えていた。

 「兄弟、ここでは、森の動物を大事になんて必要ないんだ、まずは人間なんだよ」と、友人は別れの手を差し出し、私たちはだまって別れた。

 

II.

 チェルノブイリ事故以降、ポレーシエの人々は、恐怖と絶望から、正式な法律、さらには不文律について、馬鹿げたものとまでは行かないものの、重大な関心を払うべきものとは、大なり小なり見なさなくなった。目に見えない放射線が、人々を、日々の生活の中で精神的に打ち砕いた。測定器は、放射能の危険が、文字どおりどこにも潜んでいることを示している。放射能を見つけ出し、それを避けたり、排除することは、実際問題として不可能だ。

 お年寄り、とくに年金生活者たちは、災難に対し、慣れ、あきらめてしまった。一番の心配は、子供や孫たちである。彼らには、バザールの食料や、遠くの都市で作られたソーセージや肉が、優先的に与えられている。

 子供たちも、正直に言って、事故までとは全く変わってしまった。良くなったか悪くなったか、そんなことを私が一概に決めることは出来ないが、子供たちが変わってしまったことは確かである。ただ、私が断言できるのは、困難で出口のない状況が、ナローブリャの多くの人々を、事故までだったら決して行わなかったような行為に駆り立てている、ということである。

 ナローブリャに着いて2日目か3日目、静養のためドイツに出発する子供たちの一団に出会った。ベラルーシ人民戦線が手配したものだった。

 そのことが、ここでこだわっている問題ではない。労働組合、共産青年同盟地区委員会なども、子供たちを外国へ送り出している。私が驚いたのは、その親たちのもうけ根性であった。どこの家でも、旅行の支度そのものが、まさに、珍奇な商業取引となっていた。子供たちに何を持って行かせ、向こうから何をせしめるか...。みやげに選ぶのは、まずウォッカ数本。ウォッカは国外ではいい値らしい。それから、木彫り、ブレスレットといった小物、ぬいぐるみ、といった具合である。

 バスがブレスト(訳注:ベラルーシ西端、ポーランド国境の都市)の方向に向かって走り去ると、多くの親たちが、大きな声で遠慮なく、自分の娘や息子はドイツから、どんな稼ぎを持って帰るだろうかと、話し始めた。実際のところ、すべては、子供がどんな家に割り当てられるかにかかっている。金持ちの家に当たれば上等である。だとすれば、ダブルカセットのラジカセが手に入ったも同然である。

 どんな風に子供たちが物欲を吹き込まれて国外に出かけたのかを見たとき、正直に言って、私は背筋が寒くなった。その後、学校を訪ねたとき、大部分の親は、善良で礼儀正しい人々であった。しかし、状況が人々を、時として貪欲にさせるのであった。放射能汚染というウィルスに侵された論理が、時として現れる。つまり、ここでは何も出来やしない、せっかくの機会に何を遠慮することがあろうか、と。ある母親は私にこう言った。「子供は、たぶん、生涯最初で最後の外国旅行に行こうとしているのに、自尊心など必要ないんです」。

 何としても子供を外国へ送り出したいという願いは、一種の病気と言えるほどのものになっている。それまで思いもつかなったような事実を目にしたとき、私には、すべてがそのように感じられた。

 ポーランドかドイツか、どこへ出かけるグループだったかは思い出せないが、あるとき突然、病気の子供だけを送り出す指令がやってきた。わずか1日か2日後、候補者全員が、なんらかの病気の診断書を、旅行の権利の証拠として提出した。それから、指令が全く逆に変更され、病気ではなく健康な子供を送り出す、ということになった。そして、信じがたいことに、1人か2人かの例外の子を除いて、全員が新たに、健康で長旅に耐えられる、という診断書を持参したのである。

 ドイツでのラジカセのねだり方を、親たちが子供たちにどんなふうに教え込んでいるか、教えてもらった。−−−念願への第一歩は、到着するとすぐ、そこの主人にウォッカを、奥さんには特産の木彫りか何かを渡すことである。そして、ここが肝心だが、一緒に店へ行ったとき、適当な機会をみて、ラジカセを指さし、ドイツ語で、「ぼくこのオモチャが欲しいの」と臆さずに言うのである。

 本当のところ、高価な「オモチャ」が、すべての家とは言わないが、かなりのナローブリャの家庭で現在、ドレスデンとかボンで録音されたメロディーをかなでている。なかには、物事のとっかかりからうまく行かなかった例もある。私の知っている話では、外国に送り出す子供を選ぶ段階ではねられてしまった。この例には、信じ難いことに、政治的問題がからんでいた。

 私が町で話した人物の断言するところでは、ベラルーシ人民戦線ナローブリャ支部のメンバーが、ドイツ行きの子供の名簿から、彼の息子の名前を抹消した。なぜなら、その子の父、つまり彼が、選挙のとき、人民戦線を強く批判したからであった。

 「そんなことがありうるだろうか」と私が疑うと、彼は胸に手をあて、答えた。「なぜ私がゴマカシを言わなきゃならない。『あんたの子供は、あんたが運動し投票した連中から外国行きパスを貰えば良かろう』と、彼らから直接聞いたんだから」。

 別れるとき彼は、自分の名前を出さないよう私に頼んだ。私はだまってうなずいた。

 

III.

 学校の先生をしている私の妹の家で食事をしながら、そういった話はいったいどこまで本当だろうか、と彼女に尋ねてみた。彼女によると、そういった類の事実はあったが、政治的なこと以前の問題であると言う。

「どういうことなのか」と私が聞き返すと、「簡単なことよ、ナローブリャの町は小さく、お互い子供のときから知っている。ベラルーシ人民戦線の活動家にとって、自分たちの権力をみせつけるいい機会が降ってわいてきた...そして、馬鹿げたことに、あんたはいつか私を侮辱したことがある、だからあんたの子供の外国行きは取り消しだ、という風にまでなってしまったのよ」。

 親たちの野心に子供たちが巻き込まれることさえなかったら、そんな事件に大した注意を向ける必要もないかも知れない。しかし、原発事故は、肉体的にも精神的にも子供たちを傷つけ、蝕み続けている。

 別の女の先生の話では、あるとき彼女の学校に、人道的援助として小包が届き、赤ん坊用の下着が詰められていた。幼稚園に回そうとしたが、断わられてしまった。結局、年少クラスの子供が、産着や幼児服でマリを作ってしまった。

 また別の小包には、大人用の上着が入っていた。洗濯され丁寧にアイロンがけしてあったが、かなり着古されたものだった。用務員たちが、ハサミで毛皮のエリを切り取り、鞄に入れて自分の家に持って帰ってしまった。多くの子供の目の前でこうしたことが行われたのである。このような「教育」を受けた子供たちが、ドイツへの静養に旅立つにあたって、自分の第一の仕事はラジカセを持って帰ることだと考えたとしても、何を驚くことがあろう。

 チェルノブイリの悲劇は、人々の道徳的基準を真二つにしてしまった、というのが私の印象である。その半々は、互いに矛盾するとまでは言わないが、かなりかけ離れている。ナローブリャの人々の心が冷淡になったなどと言う気はない。そうではなく、もっと違ったものである。簡単に言えば、骨の髄までの現実主義とでも言えよう。むき出しの現実主義が、人々をして感心しかねる行為へと追いやっている。チェルノブイリ事故処理の作業には、どうみてもあまり関係してないはずの、団体管理人とか、地区執行委員会や教育委員会の職員とかが、事故直後30km圏内から人々や家畜を運び出したりした多くの農業組合運転手などに比べ、いち早く事故処理作業従事の証明書を受け取っている。どうやってそんなことが出来たのか、私には分からないが。

 町の社会的、精神的雰囲気を言えば、現在のナローブリャはいたって静かである。ストライキとか集会などは、実際のところなくなった。というのはまず第一に、すべての人々が関心を寄せている最近の問題は、移住についてである。いつ、どこへ移住させられるのか。多くのナローブリャの人が、既にミンスク郊外のアパートの権利を受け取っている。地区執行委員会で私が聞いた説明では、移住は計画に則り、とにもかくにも整然と進められている。この希望が、人々を落ち着かせている。

 第二に、町にはもう、反体制的なリーダーがいなくなった。彼らのほとんどは、アパートを受け取って、よそへ移ってしまった。といっても、たった一人、V.シドレンコだけが残っていた。ナローブリャの人たちは、彼を、事故処理・移住問題地区評議会の議長代理に選出した。なぜかと言うと、シドレンコはかつて集会やストライキで、先頭にたって演説したからであった。

 残念ながら、私はシドレンコに直接会うことは出来なかった。何回か地区執行委員会に彼を訪ねたが、部屋の主はいなかった。どこかへ行ってしまい、戻ってくるかも分からなかった。事務所の職員は嘲笑ぎみに、次のように語った。「シドレンコさんは、言ってみれば自業自得といったところかな。今では、だれも彼の言うことに耳を貸さず、逆に、彼がみんなから、『あんたは集会で何と言った?覚えてるかい、地区執行委員会の官僚主義を痛烈に批判してたじゃないか、だのに自分はどうなったんだい』とつめよられ、吊し上げられているよ」。

 滑稽と言えば滑稽だが、笑えない...

 

IV.

 人々が、いつも落ち着きをなくしているわけではない。公園で知合いの年金生活者の出会うと、笑いながら、次のような、ブラックユーモアにでもなりそうな話をしてくれた。悲しむべき話だが、彼は笑っていた。

 彼が、ある店で、出来たてのカルバサ(訳注:腸詰ソーセージ)を1キロほど買った。店を出ると、カルバサを腕に抱えて匂いをかいだ。たしかにカルバサだ、さあ早く家へ帰らなくっちゃ、ところが彼は、何を思ったか、町の放射能測定室の方へ向かった。測定室に着くと、彼は、係のお嬢さんに丁重に言った。「実は私、イノシシを飼っておりまして、それをつぶして、ばあさんがこのカルバサをこしらえました。お嬢さん、すみませんが、食べてよいものやら、これを測ってみて下さいな」。係のお嬢さんは、測定して答えた。「カルバサはごみ箱へ捨てて下さい。測定器が鳴っています」。彼はイスから立ち上がり、まず測定の礼を述べ、そして問いかけた。「どうしてあんた、私みたいな年寄りに向かって、そんなデタラメを言うのかね。このカルバサは、ほんの10分前、店で買ったんだよ」。すると娘は叫んだ。「まあなんてバカなことを思いついたりするの。店で買ったカルバサを検査しようなんて...」

 滑稽で悲しい話である。地区執行委員会の見解では、政府による食料品の放射能管理は十分満足行くものだと言う。一方人々から聞く話は、それと正反対であり、どちらが正しいのか、私には分からない。私の感じでは、この問題については、だれも明確な答えを出せないだろう。

 ところで、地区の農業生産には減少傾向が認められている。そのことは確かである。私が理解している限り、この減少傾向は、計画的というより、自然のなりゆきによるものである。人々がナローブリャを離れ、労働者の数が次第に減りつつある。それが原因で、穀物、ジャガイモ、牛乳、肉などの生産が減っている。

 将来の見通しはどうだろうか。農業管理事務所で、将来の予測を見せてもらった。専門家の意見では、地区で残るのは、放射能に汚染されていない所に独立採算の作業班が点在する、わずかの集団農場だけである。自営農の振興など問題にならない。実際、自営農をやろうとは人はいない。なぜなら、集団農場には、自営できるような、高等教育を受けた農業専門家は、一人しか残っていない。

 ...ナローブリャを去る日がきた。寒く風の強い日だった。バスの窓越しに畑が行き過ぎ、遠くの丘にはカシ、白樺、エゾ松が見えた。反対の右側には、プリピャチ川が流れていた。

 私の青春の町よ、お前の将来はどうなるのだろう。その答えを探し求めているが分からない。

            「ナバート」 1992年 No.2

                    (1993.3.27 今中哲二 訳)