本稿は「技術と人間」1993年9月号に掲載された。
最近のベラルーシ事情
今中哲二
6月半ばから3週間ほど、チェルノブイリ原発事故研究の現状調査ということでベラルーシに行ってきた。高放射能汚染地域に4日ほど出張し、残りは首都ミンスクに滞在した。ここでは、チェルノブイリに直接関係する問題は別の機会に譲ることにし、3週間の間に向こうで見聞きし感じた、最近のベラルーシについて紹介したい。
1.ベラルーシという国
ベラルーシ共和国は、東はロシア、西はポーランド、南はウクライナ、北はリトアニアとラトビアに囲まれた、面積約20万平方km(日本の半分程度)、人口約1000万人の国である。首都ミンスクの人口は170万人、その緯度は北緯53度で、カラフトの北の端くらいに相当する。
「ベラ」とはロシア語の「白い」という言葉に由来している。「ルーシ」とはロシアの古名であるが、その「ルーシ」がそのまま現在の「ロシア」につながっているのではない。私のうろ覚えの世界史の記憶によると、12、13世紀ころ、キエフなど多くのルーシ公国が、現在のウクライナやベラルーシの地に割拠していた。モスクワのロシアはまだなかった。その後、モンゴルによりすべて征服され、数世紀のち、モスクワからロシア帝国が生まれ、ベラルーシやウクライナを支配下に置くことになる。
十月革命後、白ロシア共和国としてソ連に加盟。第2次大戦では、ドイツ軍に侵略される。ヒットラーの東方移住政策と関連したのであろう、ドイツ軍は、ベラルーシの国を徹底的に破壊、人口の4分の1が殺された。戦争後の国境引き直しで、かなりの前ポーランド領がベラルーシに編入される。
民族的にはベラルーシ人は、ロシア、ポーランドなどと同じくスラブ系である(バルト3国は全く別)。キリル系の文字を使うベラルーシ語があり、日常的に使われている(テレビや新聞では、ベラルーシ語とロシア語が半々くらいか)。ベラルーシ語は、ロシア語に似てはいるものの、若干なめらかに、抑揚もメロディックに聞こえる。バルト3国では、ロシア人排斥が問題になっているが、そういった問題はベラルーシにはない。ロシア系の人や混血も多い。
2.政治状況
1991年末のソ連崩壊後、ベラルーシも独立国家となるが、経済を始め、ロシアとの関係は簡単には清算できそうにない。ソ連崩壊の際、仮に国民投票があったら、ベラルーシでは70%の人々が崩壊に反対だったろう、と聞いた。旧ソ連の各共和国では現在、カフカス諸国、タジキスタンなどの内戦、バルト3国でのロシア人排斥問題など、紛争が多発しているが、その中でベラルーシは比較的安定している。
しかし、経済状態はガタガタで、今後のロシアとの関係、市場経済化の行方など、先行きは不透明であり、将来に楽観的な展望を持っている人はほとんどなさそうであった。
潮流としては、今後もロシアとの関係を緊密に保って行こうとする東向きの流れと、逆に、ロシアと別れ、東欧、西欧との関係を中心にして行こうとする西向きの流れがあるようだ。さらに、ウクライナやバルト3国との南北関係を強化しようという流れもある、ということであった。
ベラルーシ最高会議:旧ソ連時代の1990年の選挙で選出されたままで、任期は5年、定員は350人程度である。旧共産党系が160人で、民主派が110人、そのうちベラルーシ人民戦線(BNF)が40人程度とのこと。共産党は1991年8月のモスクワ政変後に禁止されたままである(ロシアでは共産党は復権している)。
ある人によると、政党などというものはなく、単にfraction(派閥)があるだけ、とのことであった。BNFも一枚岩ではなさそう。ミンスク滞在中は会期中で、ラジオ、テレビで最高会議の中継をやっていた。(演説の内容はほとんど理解できなかったが)党派を代表しているというより、個人が言いたい放題に演説しているという感じであった。私の滞在中、シシケビッチ議長の信任投票が行われ、不信任約130、信任約30、とのことであったが、定足数に達せず無効になった。(定足数を確認してから投票するのが順序じゃないか、と人に聞くと、この国にはルールがないのだ、という答が返ってきた。)
来年春にでも選挙があるかも知れない、とも聞いたが、ロシアのように保守派が選挙に抵抗すると、任期後の再来年ということになる。
シシケビッチ最高会議議長:ベラルーシ国立大学物理学教室の教授であったが、1990年の選挙で当選、最高会議議長に選ばれる。支持基盤はとくにないが、BNFに近いとのこと。最近は言動に一貫性を欠くとのことで、評判は落ちているとのこと。(旧ソ連の共和国で、大統領制を導入していないのはベラルーシだけであろう。)
労働組合:モスクワで見た新聞には、6月24日からミンスクではストライキと書いてあったが、結局ストはなし。聞くところでは、政府系、産業別、独立系の3つの労働組合があるという。3週間の滞在中、街頭集会やデモは見かけなかった。
マスコミ:ミンスクで発行されている日刊紙は数紙か。「ズベズダ」というベラルーシ語の新聞(約16万部)がリベラルとのことで、何人かの知り合いが読んでいた。週間新聞は10数紙ありそう。テレビは3局で、一つは、モスクワのオスタンキナ放送をそのまま流していた。あとの二つは、ベラルーシ政府系と民放のようだった。
3年前のテレビと違うのは、モスクワでもそうであるが、コマーシャルが圧倒的に増えたことである。日本製品のコマーシャルはほとんどなかったが、韓国のコマーシャルが目についた。
現在、アメリカのメロドラマが大人気のようで、朝と夕方に同じ番組をやっていた。30年位前の日本でアメリカのドラマが多かったのを思い出した。
3.経済状況
インフレ:3年前にもミンスクに1週間ほどいたが、その時に比べると物価は、200〜300倍になっていた。
(1990年) (1993年)
地下鉄・バス 5K(コペイカ)→10P(ルーブル)
ガソリン1リットル 50K→配給券で100P(配給券:100リットル/月・車)、
配給券なしで200P
ホテル朝食 3P程度→500〜1000P
<注:1P=100K。ルーブルの交換レートは、1$≒1000P、1$≒100円なので、1円≒10P。>
給料は、3年前の100倍程度か。私程度の研究者の給料は、3年前、400〜500Pであったが、今は4〜5万P程度。3年前は、普通の労働者より、研究者の給料の方が良かったが、今は反対で、労働者の方が倍程度とのこと。ほぼすべての夫婦が共働きである。
食料など主要物資は統制価格が維持されている。
パン1kg 30P
バター1kg 1000P(配給300g/人・月)
チーズ1kg 500P
卵10個 165P
ウォッカ1本 400P(配給:大人1人に月2本)
600P(配給券なし)
電気代 324P/100kwh
ミンスクの国営食料品店には、一応ものはあるが、旨いものはなさそう。肉売り場で売っていたのはは鶏肉だけ、野菜もほとんど見かけなかった。
一方、リィノクと呼ばれる自由市場では、肉・野菜・果物何でも売っている感じであった。ただし価格は高い。
牛肉1kg 1800P
カルバサ(ソーセージ)1kg 2700P
トマト1kg 1200P
キュウリ1kg 275P
3年前は、普通の給料取りでも自由市場で買物はできたが、現在はできなくなったとのことであった。
生活で大変なのは、衣類や耐久消費材の高いことであろう。
ベラルーシ産カラーテレビ 17万P
紳士ブレザー 2万P程度
立派なじゅうたん 4〜7万P
立派な机 21万P
ロシア製乗用車ジグリ 数100万P程度
日産フェアレディー中古 16、000$くらい
パソコン(CPU:286) 840$
その他の物価。
タバコ一箱(国産) 200〜400P
(マールボロ) 800P
面白かったのは、電話代で、硬貨がなくなったので、市内公衆電話は無料。その他安いものでは、
バレー入場券 140P
バス定期 月700P
公衆浴場 40P
教育・医療は従来通り無料(いずれ有料になるだろう、とのこと)。
不思議だったのは、ドルショップでオランダ産缶ビールが0.35$/本、モルダビア産コニャック3$/本(モスクワでは11$)、カティーサーク6.7$。マールボロもそうだが、日本の免税店よりはるかに安かった。
通貨:ウクライナはルーブル圏から離脱したが、ベラルーシは留まっている。ただし、ベラルーシ国内だけで通用するベラルーシ・ルーブル(ザーイツ)を発行し、1ザーイツ=10ロシア・ルーブルで固定させている。つまり、ロシア・ルーブルに連動。価格はすべてロシア・ルーブルで表示されている。
ルーブル圏からの離脱の動きもある。しかし、そうなると、石油・電気等の決算を外貨($)で要求されることになり、一層の経済破綻は必至とのこと。
生活実感としては、ルーブルの交換レートは安過ぎる。10〜20分の1の感じがする。向こうの連中の話では、マフィアがレートを牛耳っており、レートの違いを利用して暴利を得ているとのことであった。
エネルギー:石油、ガスは基本的にロシアから輸入している。ただし、大きな石油精製工場があり、その精製能力は自国の需要を上回っている。電力も、自給は40%程度で、60%は輸入。輸入先は、リトアニアのイグナリーナ(RBMK150万kw×2)、ロシアのスモレンスク(RBMK100万kw×3)、ウクライナのロヴノ(VVER44万×2、100万×1)などベラルーシ周辺の原発が主とのこと。電力需要は 700万kw程度とのこと。
後でも触れるが、現在、原発の建設計画が進行し、立地選定のための作業が行われている。
主要産業:ミンスクの大きな書店で統計資料のようなものを探したが、最近のものはなかった。1988年の簡単な統計資料を1Pで買った。それによると、人口約1000万のうち、就業人口434万、うち農業人口67万。総生産額は、120億P(1988年価格)で、うち工業生産65億P、農業生産30億P。1988年の平均月給は205P。
1988年の農業生産は、穀物775万トン、ジャガイモ1100万トン、肉112万トン、牛乳750万トン、といったところ。(チェルノブイリ事故で相当の被害を受けたであろうが、)農業については、十分自給できる量と思われる。
工業生産については、ミンスクの、トラクター工場、テレビ・冷蔵庫などの電気製品工場、時計工場、ボブルイスクのタイヤ工場などが有名と聞いたが、全体を見通すような資料は入手できなかった。
全産業が、旧ソ連の計画経済下での分業体制に組み込まれていたのであるから、ソ連崩壊の影響はすさまじいものであろう。経済的に自立するには、さまざまな投資が必要であろうが、人々が生活するのにめいっぱいの現在のベラルーシにそのような余裕はなさそうである。西側の資本導入というのも一つの方法であろうが、そうなると西側資本の草刈場になるのも見えている。救いは、ロシアに比べ軍需産業が少なそうなことである。
4.市民生活
ミンスクで最初に戸惑ったのは、どうやら私は大金持ちになったようだ、ということであった。ドルと円を合わせて3000$位持っていたが、それは普通の人の年収の6年分くらいになる。予想していたことではあったが、向こうの人と、こちらの年収は7万$くらいになるという話をすると、どうにも居心地が悪かった。
日本の都会で年収500$(5万円)、夫婦で年収10万円程度では、到底生きて行けないが、ミンスクではそれで大部分の人々が暮らしている。
「クリーズィス(危機)」という言葉を何度も聞いたが、騒動でも起きそうだという感じはなかった。3年前に比べ、実質収入が減り、食料事情が悪化しているのは確かであるが、ギリギリの窮乏生活という感じではない。街中の人通りが減っただろう、と言われてみるとそんな気がする。特に、土曜日曜は減っているようだ。というのは、みんな自分のダーチャ(別荘)へ出かけるからであった。ミンスクのほとんどの人が、都心部のアパートの他に、郊外にダーチャ(敷地平均400〜500平方m)を持っており、そこで自給用の野菜やジャガイモを作っている。ダーチャへは、みんな、休息ではなく働きに行くのだ、と真面目とも冗談ともとれる口調で話していた。
労働者の夏休みは1ヶ月程度で、以前は、黒海沿岸などに出かけることが多かったようだが、ソ連崩壊後は、ベラルーシ国内の湖畔などの保養地でノンビリ過ごすらしい。
ミンスクの街中を、結構ベンツやフォルクスワーゲンが走っている。そして、ほぼ例外なく若い連中が運転している。ミンスク3週間で最も奇妙に感じたのは、20代30代の若者の方が、私の相手をしてくれた中堅の人々より、はるかに金持ちに見えたことである。ロシアに遅ればせながら、ベラルーシも市場経済化の道を歩んでいるが、その過程で起きている現象であろう。
あるレストランで、22才の若者が私にブランデーを奢ってくれた。彼は印刷業で本を作っていると言い、モスクワとミンスクを行ったり来たりしているとのことであった。月収は700$程度で、私と一緒にいた学者の15倍くらいである。4才くらいの娘も一緒だったが、彼は胸を張って「家族に楽をさせたい、娘に何でも買ってやりたい」と言う。彼の会社の社長の話が出たところで、「君は金持ちを尊敬するのか」と聞くと「そうだ」と答え、ややあって「社長は家族のようなものだ」と付け加えた。
ベラルーシは現在、極端な紙不足で、本を発行するのが非常に困難である。そこで、モスクワで印刷し、ミンスクで売れば非常に良い商売になる、国境には税関があるが、それは袖の下で何とかする、というのが後で一緒にいた学者から聞いた説明である。
結局は、若者たちが闇屋をやっているのである。外車の展示場というのに入ってみると、4・5台のベンツやフォードを並べ、若い衆が手持ちぶさたに座っていた。ルーブルの交換レートがいびつで、さらにロシアとベラルーシでも物価の違いがあり、その気になれば、いくらでも商売のネタはありそうに感じた。その闇屋を裏で取り仕切っているのがマフィアということである。
経済の混乱期に闇屋が横行するのは当然の現象とも言えるが、闇屋経済が発展し、市場経済が育って行く、という感じはなかった。若者が競って闇屋もどきの商売に精を出し、中堅の人々がそれにマユをひそめている情景をみるのは、愉快なものではなかった。
生活が最も大変なのは年金生活者であろうが、最低年金額など聞くのを忘れた。
5.ベラルーシ雑感
気質について:日本人がせっかちなのか、向こうがノンビリしているのか、少なくとも日本のペースではものごとは動かない。
私の3週間の滞在中の行動は、基本的には招待元である放射線生物学研究所にアレンジしてもらった。訪問希望先については、事前はもちろん、到着した日に先方に伝えてあったが、毎日の予定がはっきりするのは、当日の朝か前日の夕方である。3週間分のスケジュールを予め立ててアレンジしておく、という習慣はあまりないようだった。それでも当初の訪問希望は一応すべてかなえられた。
午前、午後で別の予定を立て、午前の話が延びて午後3時頃になったことがある。「疲れたか」と聞かれ「少し疲れた」と答えると、いつのまにか午後の予定はなしになっていた。後で聞いた話であるが、午後の面談の相手はその日1日中、私を待っていたとのことで、中止の連絡はされなかった。私としては、自分に責任はないものの、申し訳なかったという気でいっぱいであったが、当の待たされた方も、後日会っても、すっぽかされた理由を聞くではなし、気にしてない風であった。
ミンスクに到着した日、ホテルで風呂に入ろうとすると、湯が出ない。翌日フロントで聞くと、7月5日まで出ませんと、アッサリ言われてしまった。ある人に聞くと、集中暖房工場が修理中と言うし、別の人は、エネルギー危機のため、と言う。事情が分かって来ると、結局、どちらも正解であることが理解できたが、始めは何とも釈然としなかった。
そのうち、待たされたりすっぽかされても、オタオタしなくなった。最後の日、モスクワの国際空港で、(4日前、ミンスクのアエロフロート支店で予約を確認しておいた)搭乗予約の名簿に貴方の名前はありません、と言われても、やっぱり、といった感じであった。
ものごとが予定通り行かななくても、その原因を究明したり、責任を追求したりすることは少ないようだ。こうした気質が、もともとのロシア(ベラルーシ)人気質なのか、70年間の社会主義の結果なのかは、よく分からないが、多分両方が関係しているであろう。
原発建設計画について:昨年暮れか今年始めベラルーシ政府は、エネルギー計画を策定し、電力自給のため原発を建設する方針を打ち出した。現在、立地選定のための作業が行われている段階で、11月にその報告が出る予定である。それを受けて、原発建設の最終決定が行われるとのことであった。しかし、当然のことながら、原発に対しては拒否の国民感情が強く、建設となると国民投票が必要になるだろう、とも聞いた。
この原発問題には、さまざまな要因が絡んでいるように感じた。たとえば、ルーブル圏からの離脱を主張する人々にとっては、ロシアから経済制裁を受けた場合のエネルギー供給をどうするのか大衆に提示する必要がある。そこでは、原発建設が、ロシアからの自立の宣伝材料のようである。
安全性の問題を抜きにしても、ベラルーシの原発建設にメリットがあるとは思えない。現在のベラルーシ経済に、原発のような大規模投資を行う余裕があるとは感じられない。エネルギー自給どころか、いっそうの泥沼への道であろう。その投資を、むしろエネルギー効率改善に向けた方が、よほど効果的のように思える。
日本との関係:今年の1月にミンスクに日本大使館が開設されたと聞いたので訪ねてみた。ミンスクに住んでいる日本人は、大使館関係2人、留学生1人、国際結婚の婦人1人で、他に連絡はとれていないが、バレーの研修で6人程度ということであった。企業の支店などはない。貿易関係があったとしても、すべてはモスクワを通じてであり、ミンスクでは把握されていない。結局は、日本とベラルーシの付き合いはほとんどない、ということで、チェルノブイリ事故を通じての関係が最も大きいのでは、と感じた。日本政府も、チェルノブイリ事故に関連し100万$の援助を決定し、ベラルーシ側と現在その内訳の交渉をしているところ、とのことであった。
一方、ベラルーシの人は日本のことを、良くは知らないまでも、大体好意的に見ている。絵画博物館を訪ねると、芸術大学の卒業製作展をやっていたが、素人の私の目にも、日本絵画の影響があるように感じられ、中には、どうみても花札の構図を持ってきたとしか思えない絵もあった。
ある夜、バーニャ(ロシア風銭湯)に出かけ、あがって着替えようとすると、木製のロッカーが開かなくなってしまった。どうにもならないので、隣の部屋にいた従業員に訴えると、私はその係じゃない、別の係に聞け、と答える。そして、ベトナム人か、と聞かれ、日本からだ、と答えると、途端に相手の態度が変わって、ロッカーをこじ開けてくれた。妙な感じであったが、最後に握手して帰った。
食べ物について:日本を出るときから、旨いものが食えると期待はしていなかったが、だいたい予想通りといったところである。
朝食は、ホテルのレストラン。ソーセージ4本、小さいトマト1個分の輪切り、スメタナ(ヨーグルトのようなもの)、黒パン数切れ、コーヒーといったところで1000P弱、味はまずまずであった。レストランで朝食にありつけないときは、部屋でカップヌードル(日本から1ダース持って行った)と自由市場で買ってきておいたトマト、キュウリ、バナナなどで済ませた。朝食はしっかり食べておく必要があった。というのは、昼食の時間がもう一つはっきりせず、場合によっては昼食抜きということもあった。
研究所やビルの食堂で何度か昼食を食べた。スープ、ハンバーグ、スメタナ、パンなどだが、おせじにも旨くはない。向こうの連中もまずそうに食っていた。ミンスク郊外の食堂にも入ったが、閉口したのは、食器がどうにもウス汚れていることと、一般の食料品店でも同じニオイがしているが、何とも言えないニオイが漂っていたことであった。向こうの連中は気にならない風である。(サッカーのラモス選手が、来日当初、日本の食堂で醤油のニオイに閉口したとテレビで言っていたのを思い出した。)
夕食は、誰かと一緒にレストランか、家庭に招待してもらったりしたので、まずまずのご馳走にありついた。といっても、手に入る材料が限られているためか、どこのご馳走も同じような料理であった。カルバサ、卵、チーズ、黒パンに野菜サラダ、最後にステーキといったところである。レストランのキノコ料理は旨かった。汚染地域を訪ねたときは、ナマズ鍋をご馳走になった。バケツでナマズと野菜を煮込み塩で味付けたものでまずまずであった。
酒はまずウォッカ、それからブランデーである。日本にいるときには、ウォッカのストレートなど飲む気にならないが、結構旨い。ブランデーはモルドバ産で良いのがあった。酒盛りといっても、日本のように休みなく飲み続けるのではない。50ml位のグラスで乾杯すると、酒についてはしばらく間を置く。15〜30分位してから、誰かがみんなに注ぎ始め、そしてまた乾杯といった感じである。
食事に対する感覚が、一般的に日本人とは違うようだ。向こうの連中にとって、食事とはまず栄養を補給するものであって、旨いにこしたことはないが、それに執着している感じはない。もう一つ驚いたのは、彼らが出張する際には普通、パンやチーズなど食料一式を持って出かけることである。私など、日本で旅行に出ると、旅先で何が食えてどんな酒が飲めるかが楽しみであるが、ベラルーシでそんな感じで旅行すると、食事にありつけないといったことになりかねない。旅先でレストランがやっているとは限らないのである。
郷に入っては郷に従え、ということで、3週間、なるべく向こうの連中と同じように生活してきて、帰ってみると2キロほどやせていた。良きにつけ悪しきにつけ、今の日本は、金にあかして、世界中から食べ物を輸入し、タラフク旨いものを食べている、ということを実感した次第である。
以上とりとめもないことを書き連ねたが、チェルノブイリ事故を考えるにあたって、こういった情報も何かの参考になるのではないかと思っている。
(いまなかてつじ、京都大学原子炉実験所)