本稿は「技術と人間」1994年1・2月合併号に掲載された。

 

 

 続・最近のベラルーシ事情

                             今中 哲二

 


 昨年11月末から2週間ほど、同僚の瀬尾さんと一緒にミンスクに行ってきた。ベラルーシの研究者と一緒にトヨタ財団に申請していたチェルノブイリの放射能汚染に関する研究助成が採択された(330万円、11月より期間1年)ので、その打ち合わせのための訪問であった。私にとっては、昨年の6月に続くミンスク訪問であったが、半年たらずの間に、向こうの事情、とくに経済状況がかなり変わっていた。前回の報告(本誌昨年8・9月合併号「最近のベラルーシ事情」、10、11月号「ベラルーシにおけるチェルノブイリ影響研究の現状(上、下)」)の補足をかね、その辺のことを紹介しておく。

1.インフレ

 まず驚いたのは、インフレである。5ヶ月間に物価が5〜10倍に上昇している。前回のときと物価を比べると、たとえば、

  (BRはベラルーシルーブル)

  牛肉1kg:1800BR → 7000BR

  トマト1kg:1200BR → 6000BR

  卵10個:165BR → 2000BR

  ウォッカ1本:600BR → 約10000BR

  ガソリン1リッター:(国営)100BR → 1100BR

            (民間)200BR → 2000BR

  バス・地下鉄: 10BR → 50BR

といった具合である。給料の方はせいぜい2倍に上がった程度とのことで、私くらいの研究者で5〜10万BRであろう。車を持っていてもガソリンが買えない、彼らの好物であるカルバサ(ロシア風ソーセージ)もめったなことでは口にできない、といった状況である。価格が統制されていて安く買えるのは、パン(1kg170BR)と牛乳だけのようだった。

 生鮮野菜は、国営の商店には全くない。自由市場で、わずかにトマトや玉ネギを売っている程度である。冬場の生鮮野菜不足は、経済危機以前からのことであろうが、その不足にいっそうの拍車がかかっていると思われる。

 ロシアから輸入している石油やガスの供給が減っているため、地域暖房センターからの給湯温度が下げられている。私たちが泊まったホテルの暖房も、ヒーターをさわってもほのかに暖かい程度であった。私たちがミンスクに到着したときは丁度、季節はずれの寒波がやってきており、外気温が-10〜-15度でホテルの部屋内で+10度くらいの感じであった。しばらくして、外気温が-2度くらいになると、その分だけホテルの部屋の温度も上がった。

 5ヶ月間で5倍の物価上昇とすると、毎月のインフレ率は約40%である。私たちがいた2週間の間だけでも物の値段が上がる始末であった。私が日本で経験したインフレは、第一次石油ショック後の「狂乱物価」であるが、それでもそのインフレは年率30%程度であった。このような大変なインフレの中で、ミンスクの人々がどのような思いで暮らしているのか、外来の我々には確かなところは分からないが、街中はきわめて平穏で、道行く人々の姿から経済危機は感じられない。もしも、今の日本でそのようなインフレが起きたとすると、とっくにパニック状態になっているであろう。ベラルーシでも田舎の人々の生活は分からないが、ミンスクの人々は、とにかくじっと耐えて暮らしている、という印象である。夏の間に自分のダーチャ(別荘)で作ったジャガイモや野菜をたくわえ、お互いに物資を融通しあいながら、なんとか暮らしているというのが実状であろう。

2.ベラルーシ経済

 ソ連時代は、モスクワの指導のもと、共和国間での分業体制が作られていた。その分業体制は、ソ連全体の計画経済に従い、原価とか利益とかに関係なく、生産、流通が行われるシステムであった。たとえば、ある工場が原材料や部品を受け取っても、相手先に代金を支払う必要はなかった。それぞれのノルマさえ達成していれば良かったのである。また、石油やガスといったエネルギー資源は、国際価格に比べると只のような値段で供給されていた。

 ソ連崩壊の結果、各共和国は独立し、それぞれの国ごとに、経済の市場化、資本主義化に取り組むことになる。しかし、国境という壁が出来たため、物資の流通はとどこおり、計画経済分業体制下で作られたベラルーシやウクライナの工場は、部品やエネルギーの不足で操業短縮や休業に追い込まれつつある。ミンスクのトラクター工場は、旧ソ連でも有数のトラクター工場であったが、その工場もいまや操業停止の危機にある、とミンスクの新聞は報じている。

 はじめに述べたインフレはミンスクでの話であって、モスクワの話ではない。ベラルーシに比べれば、ロシア、とくにモスクワの経済は資本主義の軌道にのりつつあるように感じた。モスクワは、活気にあふれ、市場経済化をバンバン進めている。ロシア政府によると、ロシア経済は回復過程にあり、物価もかなり安定しつつあるとのことだ。「ビジネス」の成功で金持ちが増えると同時に、年金生活者や経済基盤の弱い地方が切り捨てられつつある。資本主義の矛盾が、その勃興期に露骨に現れている、というのがロシアの現状であろう。

 

 昨年6月のミンスクでは、ロシアルーブル(R)とベラルーシルーブル(BR)の両方が、公定レート通りで通用していた(公定レートは、若干ややこしい事情はあるが、1対1である)。今回のミンスクでは、ロシアルーブル札は一度も見かけなかった。つまり、形の上では、ベラルーシはまだルーブル圏にとどまってはいるが、実質的には、ベラルーシ経済がロシア経済から切り離されてしまったようだ。この間、ロシアルーブル(R)は、1ドル($)=1200Rでほぼ安定しているが、ベラルーシルーブルの方は、1$=4800BRまで下がっている。こうした事情は、ウクライナについても同様であるが、ウクライナは自分からルーブル圏を出ており、その分ロシアとの摩擦は大きく、ウクライナの経済状態は、ベラルーシよりもっと深刻なようである。

 ロシアは、ウクライナやベラルーシに対し、石油やガスの代金を国際価格で支払うよう要求しはじめている。ベラルーシの普通の人の給料は、ドルにすると毎月10〜20$程度までに落ち込んでおり、そうした要求はベラルーシ経済をますます追い込んでいる。外貨の獲得が困難なベラルーシにとって、ロシアへの借金がどんどん膨らんで行く構造になりつつある。

 ベラルーシ政府が最近発表した経済計画によると、1994年はまだ生産は下降するが、年後半にはインフレを月10%に抑える。1995年度からは生産は上向き、 1997年には1990年のレベルにまで経済を回復させる、ということになっている。ベラルーシ政府がとろうとしている経済政策は、基本的にロシアと同じ方向である。すなわち、国営企業の民営化と競争原理の導入による活性化、各種補助金の廃止による財政の建て直しである。しかし、経済基盤はロシアに比べ脆弱であり、政府の見通しは楽観的で実現不可能、と新聞は述べている。

 日本の経済は現在、戦後最大規模の不況に見舞われているとのことだが、それでも世界最大の黒字国であることに変わりはない。資本主義という連鎖の中では、ベラルーシのような国が貧しくなればなるほど、日本という国が金持ちになって行くように感じられる。

3.経済危機とチェルノブイリ

 ベラルーシの人々は、チェルノブイリ原発事故を、第2次大戦でのドイツの侵略に続く、今世紀2番目の悲劇と呼んでいる。そのチェルノブイリ事故に対し、第一に責任を持つべきソ連政府は、放射能汚染は残したまま、なくなってしまった。ソ連の崩壊過程で、チェルノブイリ事故対策にともなう経済負担が、ボディーブローのようにソ連経済に影響を及ぼした、という説があるが、今度はその負担を各共和国が背負うことになった。

 ベラルーシでは、1989年から共和国独自に事故対策をはじめ、高汚染地域からの住民の移住、被災者への補償や特典の給付といったことを行っている。現在、事故対策の財源として、給料の18%が税金として天引きされ、国家予算の約1割が対策にあてられていると聞いている。

 経済危機の深刻化で、そうした負担がいっそうの重荷になりつつあるのは想像に難くない。ベラルーシ最高会議では現在、チェルノブイリ対策の見直しが審議されているようだ。こまかい内容は承知していないが、汚染対策の適用範囲を見直し、対策を実質的に切り下げる、といったものらしい。

 日本に住んでいる我々が、チェルノブイリ対策はどうすべきだ、などとベラルーシの人々に言える立場ではないが、私としては、経済危機を原因に、被災者たちが次第に見捨てられて行くような事態を憂えざるをえない。

 

 ベラルーシの研究者たちの状況も深刻である。生活そのものの大変さもさることながら、研究室では、実験のための試薬がない、化学分離のフィルターが手に入らない、といった状態になっている。ベラルーシのチェルノブイリ影響研究の全体を統括しているのは、ゴスコム・チェルノブイリ(チェルノブイリ問題政府委員会)であるが、ゴスコム全体の年間研究予算は13億BRで、日本円にすると約3000万円でしかない。私の感じでは、ベラルーシでチェルノブイリの影響研究に従事している人々の数は、1000人を下らないであろう。そうした予算で外国から研究資材を買うのはまず不可能と思われる。

 経済危機のあおりで、科学アカデミーといったところまで、自分でネタを見つけて金を稼がざるを得なくなっている。実は、トヨタ財団に採択された共同研究も、向こうからみれば商売のネタでもある。共同研究の主な内容は、向こうの研究所が持っている事故直後に測定された放射能汚染データを基に、短半減期の放射能も含め、ベラルーシ全体の汚染状況を再評価しようというものである。今回のミンスク行きの目的はその打ち合わせであった。ベラルーシ側が手持ちのデータを出してくれなければ話ははじまらないが、向こうにしてみれば、そういったデータは彼らの財産らしい。打ち合わせにあたって、我々としては、まず共同研究の内容を議論し、それから金の具体的な使い方を相談するつもりでいた。しかし、ベラルーシ側にとっては金の話がまず第一のようだった。つまり、彼らが提供するデータに対し、いくら貰えるのかということらしい。我々は共同研究をしに来たのであって、データを買いに来たのではない、と原則論で押し切って話をすすめ、研究予算の使い方については日本側とベラルーシ側で同等の権利がある、とこちらが言うと、向こうとしては若干拍子抜けの感じだったようだ。(後で、向こうの責任者が、最初の態度は本意ではなくすまなかった、と我々に謝ってきた。)

 チェルノブイリ事故直後の放射能汚染データは、ミンスクのいくつかの研究所が抱え込んでいる。今回の共同研究がうまく運ぶと、7年たってもほとんど表に出てこなかったそうしたデータをまとめることが出来るのではないかと考えている。

4.日本に戻って

 12月10日に日本に戻って2日後、関西のあるグループが、チェルノブイリからの子供たちを招いた場に同席した。ウクライナから子供5人と先生1人がやって来ていた。私としては前から、健康回復のためといって子供たちを日本につれてくるやり方には疑問を持っている。そうした運動をしている人たちの考えを私がよく知っているわけではないが、私の従来からの疑問は、日本につれてくることが金の使い方として適切なのだろうか、そして、日本に1ヶ月程度滞在することが子供たちの将来にとって本当にためになるのだろうか、という点である。

 その席で感じたのは、私にミンスクでの2週間の「耐乏生活」の余韻が残っていたせいか、日本の人々の金銭感覚が、向こう人たちの感覚とまったくズレていることであった。はじめの方で述べたように、ベラルーシの普通の人の給料は、現在千〜2千円程度である(ウクライナの先生から聞いた給料は月800円程度だった)。チェルノブイリから子供をつれてきて1ヶ月日本で面倒みると、旅費を含めて一人当りおそらく数十万円の費用がかかるであろう。子供たちの親の給料の数十年分にも及ぶ費用をかけていることになる。子供たちを日本へ呼ぶ運動をしている人たちが、日本の中で金持ちな人々だとは思っていないが、それでも私には、大金持ちがかわいそうな貧乏人の子供を招いて善意の施しをしている構図がみえて仕方がなかった。

 人道援助とはもともとそんなものだと言われれば、私などがとやかく言う筋合いではないかも知れないが、援助する側の思いと援助される側の思いとが、どこかで大きくすれ違っているのではないかという危惧を感じている。

               (いまなか てつじ、京都大学原子炉実験所)