本稿は「技術と人間」1995年12月号に掲載された。

 

チェルノブイリの地獄から

                  エレーナ・ワコリュク

                     


 こんなことを書くことになったのはすべて、チェルノブイリ原発事故という、私をおそった不幸のせいである。私の罪でも意思でもないのに、不幸は私や家族の生活を破壊してしまった。不幸というものは、いつも予期しないときにやってきて、弱い者を痛めつける。私が経験させられたこと、いや私だけでなく数百、数千の人々が経験したことは、チェルノブイリの囚人とでも言うべきものだった。故郷で私たちは「死刑囚」と呼ばれている。なんとも恐ろしい言葉であるが、本当のことでもある。

 一九八六年四月二八日、私の家族みんな(私、夫、四才半の息子)は、六才半の息子を連れた姉と一緒に、ホイニキ地区オレビチ村の両親のところに到着した。ジャガイモの植え付けを手伝い、五月一日のメーデーと復活祭の休日を過ごすためだった。多くの人々が、自分たちの両親の住む村々へとやってきていた。ホイニキの駅で、原子力発電所で火事が起きたことを聞いた。バスの中はその話でもちきりだった。しかし、確かなことはだれも知らなかった。何か悪い予感がし、胸がドキドキした。

 目に涙を浮かべながら、母は私たちを出迎えて言った。「ああ子供たち、なんと大変なときにあなた達はやってきたの。原発で大きな火事が起きたとみんなが言ってるよ。消防やら軍隊がいっぱいやってきて、住民にどこへでも行けるところに去れと言ってるって。」

 四月二九日と三〇日にジャガイモを植え付けた。天気は申し分なく、暖かく少し暑いぐらいだった。子供たちは原っぱで遊び回り、私たちは、上着をぬぎ素足で働いた。自分のところが済むと隣の植え付けを手伝った。そのとき、もう誰もそのジャガイモを食べることはなく、汚染された地面を歩き回り、有毒な空気を吸っていたなど、どうして頭に浮かべることができたであろう。

 頭上では始終うなり音がしていた。右の方ではチェルノブイリへ向かう飛行機が、左の方では戻ってくる飛行機が、まるでベルトコンベアのように飛んでいた。父が言った。「またえらく飛び回ってることよ。こりゃ発電所の火事は尋常ではないな、何やら深刻になってるようだ。農業役場へ寄ってみなきゃ、そこなら事情を知ってるはずだ。」

 野良仕事を終えたそのとき、近くにヘリコプターが着陸し、兵士が出てきて何やら測定した。私たちに、速やかに畑から立ち去り、子供たちを表に出さないよう告げた。地面も空気も大きな放射線量を示していた。

 放射能とはいったい何なのか?私たちの誰も知らなかった。空気には、電線を溶かした時のような、何やら気色の悪い匂いが立ちこめた。年寄りは、放射能が匂うと言った。放射能には匂いも色もないことなど、どうやって彼らに知ることができたであろう。そして、大きな被曝が死をもたらすことを。

 通りではあちこちに人々が集まり出来事について話合っていたが、どうしたらよいのか誰も知らなかった。多くの人は野菜畑で仕事を続け、時折通りに出ては情報を聞きだそうとした。

 荷物を背負い袋やカバンを下げた人々が村を通って行った。原発のあるプリピャチ市、さらにチェルノブイリ市や隣接の村々から人々が避難したことを知った。事態がどうなっているのか知るため、父は農業役場へ出向いた。私たちは家に残り、テレビのニュースに聞き入ったが、何も言わなかった。私には、モスクワでも何も知らないのか、それとも知っていながらパニックが起きるのを恐れているのか、どちらかであろうと思えた。

 父が何やら粉末を持って帰ってきた。水に溶かして子供たちや自分たちが飲むための粉末だそうだ。父の話では、地区の役人がやってきて次のように警告したという。原発から放射能が放出され一帯が汚染された、井戸の水を飲んではならない、子供にミルクを飲ませてはならない、できるだけ表には出ないように、近いうちにここのソフホーズも避難するであろうと。

 悪夢と怖れ、未知への不安が襲ってきた。戦争が始まったかのような気分だった。その気持を言葉で表すことは出来ない。

 五月一日、メーデーの祝日だったが、気分は晴れず嬉しくもなかった。テレビやラジオはすでに事故が起きたことを伝えていた。いわく、何も怖いことはない、政府は事故処理に着手している、と。他のチャンネルでは、ある女性が何百万もの無知な人々に語っていた。放射能なんて怖くありません、被曝によって体内のすべての有害な微生物が死にます、などと。私はその女性に質問してやりたかった。あなたはどこで学位を買ったのですか、いったいなぜ放射能は体に良いのですか、微生物と一緒に放射能は命も奪うんじゃないですか、と。なぜ人々を欺く必要があったのだろう。

 父はしばしばソフホーズの事務所へ出向き情報を仕入れてきた。牛を放牧することはすでに禁止されていた。私たちのところから五km離れたクラスノセリエ村が避難したことを知った。人々にはパニック的な気分と不安が広まった。次は自分たちの番だろう、何をしたらよいのか、家畜はどうなるのか、ひょっとしてじきに戻ってこれるのでは、と。

 私たちは仮設救護所に呼ばれた。ミンスクからやってきた検査員たちが血液を検査し、放射能を計った。放射能測定器の針は勢いよく、子供の場合とくに勢いよく端までふれた。子供たちを直ちに連れ出す必要があった。しかし、両親をどうしたらよいのか、結局残らざるを得なかった。

 五月三日、復活祭の料理を準備した 。ピロシキを焼き、いろいろ飾り付けをし、卵の絵付け細工をした。すべてがおさまり、私たちの脇を悲しみが過ぎ去ってしまうのでは、というかすかな希望がわいた。

 五月四日、大きな音で目がさめ窓からのぞいた。避難だ。通りを家畜トラックの長い列が、その後にはバスが通って行った。

 私たちの番がきた。書類、貴重品、着替えの下着、三日分の食料、急いで必要なものをまとめた。

 ミンスクから来ていた叔父が、母と姉、子供たちを自分の車に乗せて行くことになった。私と夫、それに父はバスで出発することにした。母と子供たちが車に乗り込んだとき、みんな涙を流した。その時のみんなの気持を言葉で伝えるのは不可能だ。

 家は空っぽになった。テーブルの上には復活祭のピロシキがのったままだった。牛と豚は連れて行くが、山羊、ガチョウ、ニワトリは置いて行くよう言われた。家畜たちが泣くなんて誰が見たことあるだろう。庭で小家畜たちが私に寄ってきて手に鼻をすりつけ涙をながした。動物たちは、話せないだけですべてを分かっていた。それから向きを変えて離れて行った。たぶんお別れをしたのだ。

 私の心は空っぽになった。子供時代、青春時代を過ごし、祝日や休暇のたび、自由な時間があるたびに戻ってきた両親のいる私の家、この村に、もう一生戻ってくることはないだろうと感じられた。たまらなく涙がこみ上げてきた。永遠に戻って来れないのだろうか?耐えがたくなり表へ出て農場へ行ってみることにした。家畜が集められていた。

 農場には村の人が集まっていた。夫を見つけた。彼は牛をトラックの荷台にのせるのを手伝っていた。父はいなかった。父はソフホーズの事務所へ行って仕事をしていた(父はソフホーズの副長だった)。

 父がやってきて、まだたくさん仕事が残っているので、自分を残したまま出発するよう言った。父はソフホーズの事務所と一緒に避難するそうだ。

 国道は、自動車やすし詰めのバスが連なり、その行列には終わりがないかのようだった。私たちは乗用車に乗り込んだが、その運転手は疲れはてていて、今にもハンドルの上に寝込んでしまいそうだった。道中運転手は、どんなふうにプリピャチ市や隣接の村々から人々が避難したか語った。

 国道の端では人々が、荷物を背負い、袋やカバンを下げ、家畜を連れて歩いていた。戦争中の難民のようだった。そんなことを自分の目で見、経験しなければならなかった。

 五月五日にミンスクへ戻った。母と姉、それに子供たちはカリーニングラードへ行っていた。そこには姉と私の姑が住んでいる。私は身内が心配で、数日後そちらに出かけた。息子のイーゴリは州病院に入院していた。なんとも納得できないことに、私は息子の病室に入れてもらえなかった。担当の医者は、息子の気分は上々だと言ったものの、息子のような患者ははじめてで、はっきりしたことや先のことについては何も言えなかった。息子さんは放射能でたっぷり汚染され、彼の衣服はすべて処理にまわされました、と告げられただけだった。

 私が息子に会えたのは三日目であった。見たとたんにショックを受けた。イーゴリは何やらガラスの箱の中に入れられていた。並んで同じようなガラスの箱にもう一人子供がいた。息子は蒼白い顔で横たわり、目の下に隈ができ、泣いていた。その部屋には、看護婦や看護人は誰も入って来なかった。息子の放射能を恐れて、近寄らなかったのであった。医者は私に、息子の状態はまずまずと繰り返し、ヨウ素剤投与で治療していると語った。衣服はすべて処理に回されていたので、着替えなどを持ってくる必要があった。私はあれこれかき集め翌朝病院へ持って行った。その夕方、姑のところに保健所から車が来た。病院へ持って行った物も放射能で汚染されており廃棄しなけばならないとのことだった。

 イーゴリは一〇日間入院し、良くなって退院した。じきに私たちはジョジノの家へ戻った。息子は再び悪くなり、お腹が痛む、頭がふらふらする、吐き気がする、足がふるえると訴え、歩くことも出来なくなった。病院に出向き、息子に付き添って私も入院した。毎日どころか日に何度も血液検査を受けた。聴診、触診と検査がありビタミン投与を受けた。私と息子はともに「自律神経失調症」という診断をもらって退院した。

 息子はほんとに度々病気になった。頭が痛いと訴え弱っていった。走ったりはしゃいだりせず、横になっていることが多くなった。食欲が落ちずっと眠気がしていた。視力も悪くなった。医者もどうしたら良いのか分からなかった。医者が処方してくれた薬も役に立たなかった。ミンスクに検査に出かけた。多くの専門家がイーゴリを検査した。いったいどれくらいの検査室を訪ねただろうか。息子は州子供病院に入院した。いろいろな診断が山のようにたまって退院した。いったい全体どうしてこんなことになったのか。息子は風邪以外の病気になったことはなかったのに。再び専門家から専門家へと診断に回ることになった、血液検査、心電図、レオグラムと。

 ある専門家のところで、「すべては被曝が原因でしょうか?」と聞くと、「たぶん、そうでしょう」と答えた。めったにない機会なので、もう医者のところを走り回らなくてすむよう、カルテにそう書いてくれるよう頼むと、「そんなことを書くのは許されていない、あなたのおかげで仕事をなくすのはまっぴらだ」と彼は答えた。

 つまりは、まったくのところすべては秘密にされ、手加減され、被曝の線量とか診断が下されることはなかった。ただ、「この子供はチェルノブイリからやってきた」とだけ医者たちは書いてくれた。医者の立場も理解できた。いったい誰が好き好んで仕事をなくすことをしたがるであろう。

 この歳月、息子と私たちは病院がよいに明け暮れた。私たちは放射線医学研究所に登録され、半年毎に検診に出かけた。医者らは私たちにとても慎重に接した。診察の度にさらに複雑な診断が加えられた。

 息子は、大きくなるにつれ、ますます健康状態が悪くなった。一九八六年の四月から一九九二年までに三〇〇回以上医者にかかった。この間、一人の医者も病気とチェルノブイリ事故とを結び付けることをしなかった。時は過ぎ、さまざまな経験をさせられた。中傷や侮辱に耐えねばならなかった。役所の審査に何度も出かけた。私たちは休暇で「ゾーン」に居た、ということを証明する書類を持っていたが、そこで暮らしていたのではなかった。同じことの繰り返しで、役所ではいつもこんなせりふを聞かされた。「誰かがあなた方をそこへ行かせたのではない」と。このせりふはいつも私の心にグサリと刺さった。実際、誰かが私たちをそこへ行かせたのではない。しかし、ではなぜ汚染ゾーンへの切符を売り、そこへ入らせたのか。

 息子は毎年、アクサコフシチェーナにある放射線医学研究所の病院に入院している。退院しても同じように治療と投薬を続けている。しかし、私たちには治療など出来なくなってきた。薬がないし、あっても買えないほど高いのだ。その時に休暇でゾーンにいたという理由で、私たちは何にも被災者手当てを受け取れなかった。

 わずかでも公正さを期待してチェルノブイリ問題政府委員会に出向いた。私たちの話を聞き、同情しながら言った。「あなた方のような被災者については、法律は適用されておらず、何の救済もできません。子供さんが病気でしたら、共和国の専門家審議会に出向いて、チェルノブイリ事故と病気との関連を証明してもらって下さい。」共和国専門家審議会に行くと、共和国レベルではそのような問題は扱っていない、州専門家審議会のミンケビッチ氏のところへ出向くよう、丁寧に答えてくれた。しかしミンケビッチ氏はろくに私の話を聞こうともせず、「またやってきたのか被災者め!我々はそんな問題は扱っていない、ぜんぶ地元で決めているんだ、自分の病院へ出向いてあんたがどうしたらよいのか地元で決めてもらえ」と吐き捨てた。大変な屈辱を受けながら彼のところを去った。このように、誰も助けてくれようとせず、理解さえしてくれようとしなかった。しかし、遊びですむ話ではないのだ、生きている人間、子供のことなのだ。ようやく私は、何か貢ぎ物はないのか、コネはないのか、という役人たちの間に長く深く根付いている事実を理解した。しかし、何も貢ぐものがない私にできることはなかった。

 ジョジノでチェルノブイリ被災者の運動をしている、リディア・アナトーリエブナ・オクネバヤのところに出向いた。彼女は、すべての書類を持ってもう一度州専門家委員会へ申請するよう勧めてくれ、自分で書類を持って出向いてくれた。

 期待しながら何週間も待った。メンバーの休暇や出張やらの後、やっと委員会が開かれた。そして、何の結果も得られず書類が戻ってきた。すべては、私たちが休暇でゾーンに居た、ということがネックだった。いま一度、チェルノブイリ事故被災者としての認定を求めて政府委員会に出かけた。しかし、そこでの答は、私たちは如何なる条項にもあてはまらず、法律は私たちには適用されない、とのことだった。

 一九九四年、ゾーンに居たという証言を集めて、その事実を新たに証明するためホイニキ地区を訪れた。すべての証言は確認され、ホイニキ市執行委員会はしかるべき証明書をくれた。しかし、それも何の役にも立たなかった。

 いったい、どれだけ屈辱を耐え、何度頭を下げ、どれほどの中傷と侮辱を受けたらよいのであろうか。政府の役所での出来事をこれ以上書く気にはなれない。ただ、他人の不幸は自分には無関係ということだろう。他人の痛みというものは、自分もそれを経験した人にしか感じられない。心の底から腹立たしいのは、どこに、どの方向にチェルノブイリがあるのか知らない人でさえ、多くの人が「被災者証明」を受け取っていることである。私たちのように、本当に地獄を経験し、今もそこから抜け出せずに苦しんでいる人々は、死なんとしている。まさに私たちは死刑囚である。九年が過ぎ去り、あと一年も生きられるだろうか。もっと短いかも知れない。

    (ベラルーシ・ミンスク州ジョジノ市在住、ナバート・一九九五年第八号)

                             今中哲二 訳

 


訳者より‥「ナバート(警鐘)」は、ベラルーシ社会エコロジー同盟・チェルノブイリの機関紙として一九九〇年にミンスクで創刊された。当初は週刊であったが、その後の経済危機もあって、現在はほぼ月刊で発行されている。

 チェルノブイリ原発事故が発生したのは一九八六年四月二六日未明である。翌二七日には原発の町プリピャチ市住民が避難し、五月二日から六日にかけて周辺市町村の住民が避難した。一九八六年八月に発表されたソ連政府報告書では、原発周辺三〇km圏から一三万五千人が避難したとされている。著者の滞在したオレビチ村は原発北西約三〇kmに位置し、セシウム137の汚染地図によるとその汚染密度が一平方km当り四〇キュリー以上の地域にある。

 本手記に従えば、著者らは四月二八日に村に到着し五月四日に避難しており、一週間ほど汚染地帯に滞在している。被曝線量などは不明であるが、著者の息子イーゴリは急性放射線障害を呈して入院し、その後慢性的な病状が継続しているものと思われる。ソ連政府の公式見解では、周辺住民の間には一件の急性放射線障害も認められなかったことになっているが、実際にはイーゴリのような被災者が無数にいたことであろう。

 来年四月のチェルノブイリ事故一〇年に向け、IAEA(国際原子力機関)などにより、事故影響評価の国際会議が予定されている。訳者としては、本手記のような被災者や事故直後に崩壊原子炉周辺の片づけに携わった兵士たちへの影響を無視して、事故影響の全体を語ることはできないことを強調しておきたい。