本稿は「技術と人間」1996年6月号に掲載された。

最近のベラルーシ事情(4)

            今中 哲二

 


 トヨタ財団から研究助成をもらっているチェルノブイリ原発事故に関する共同研究のアレンジと、三つの国際会議参加をかねて、今年の二月末から一ヶ月ほどかけて、モスクワ、ミンスク、キエフをまわって来た。最近のミンスクの様子や私の旅行について簡単ながら報告をしてきたい。まず日程を示しておく。

二月二四日    名古屋空港発

二月二五〜二六日 モスクワ

二七日〜三月七日 ミンスク

三月八〜一五日  キエフ、グリーンケープ

三月一六〜二三日 ミンスク

三月二四〜二七日 モスクワ

三月二八日    成田空港着

 

ミンスク再訪

 モスクワに二日ほど滞在してから、二六日の夜行列車でモスクワをたち翌朝ベラルーシの首都ミンスクに到着した。今年の冬は数十年ぶりの大雪とかで、ミンスクは一面の雪景色であった。私のミンスク訪問は、今度で六回目になるが真冬の訪問は初めてである。一月末に受け取った電子メールでは零下二〇度と聞かされていたので、寒さの覚悟はしていたが、零下五度程度で思っていたほどではなかった。さらに安心したのは、ミンスクで定宿にしている科学アカデミーホテルの暖房が十分に効いていたことである。

 この前にミンスクに来たのは一九九四年一〇月だったから約一年半ぶりになる。私の予想では、この間ベラルーシの経済状態はますます落ち込んでいるはずで、暖房や食糧事情の悪化などいろいろ心配していたのだが、意外にも、ミンスクの雰囲気は二年前より活気が出ているようだった。往来に車が増え、夕方のラッシュには交差点で信号待ちの車がつながっている。電気器具屋をはじめいろいろな店が増え、食料品店では、ドルショップでなくとも輸入食品がならび、ドイツ製ビールやフランス製ワインが手軽に入手できる。年中無休二四時間営業のスーパーまで登場していた。野菜は、以前には自由市場まで行かないと手に入らず、野菜の買い出しが最初の仕事になるはずだったが、町中でも買えるようになっていたのは助かった。つまり、金さえ出せばたいていのものは手に入る町にミンスクはなっていた。

 二年前のベラルーシは、対外債務が増え続けインフレは一直線に進行、国内経済回復の展望は全く見えない、という状態だった。一九九一年末のソ連崩壊に代わって創設されたCIS(独立国家共同体)は、ソ連型計画経済から市場経済へ向けて共同で取り組むはずだったが、実質的には全く機能しなかった。共通通貨であったソ連ルーブルはロシアルーブルとなり、ロシアは他のCIS諸国の事情など無視してしゃにむに資本主義化に走り出す。結局は各国が独自通貨を発行することになり、ベラルーシも一九九二年にベラルーシルーブルを発行した。当初はロシアルーブルと一定レートで連動させていたが、次第にレートが崩れ、ベラルーシルーブルが下落を続けていた。社会主義を維持できるほどの基盤はないし、といって市場経済を進めるほどの体力もない、というのが二年前のベラルーシ経済に対する私の観察であった。

 二年前に登場したルカシェンコ・ベラルーシ大統領は現在、かなり強権的な政策をとりながら、ロシアとの統合政策を進めている。国境が開放され、人と物の往来が自由になった。その結果、ロシアからの資本主義がベラルーシへ流れ込んでいるのが、ミンスクが活気づき始めた原因であろう。資本主義の常として、金を持っている人々、金を稼げる人々が活気づいているしわよせは、弱い立場の人々にふりかかる。幸いというべきか、今回のミンスク訪問は冬だったせいで、お年寄りの年金生活者たちを町中で見かけることはほとんどなかった。

 ミンスクの知り合いから町の印象を聞かれると、「以前はミンスクに降り立つと、突然私は大金持ちになった気がしたが、今ではただの貧乏学者になってしまった。ミンスクが普通の町になったのに驚いた」と答えることにした。

 

インフレの現状と市民生活

 二年前頃のインフレは、地元の人々には過酷でも、ドルを持っている外国人には降りかかってこなかった。しかし今回のミンスクでは、科学アカデミーホテルの宿泊代が私を直撃した。私の部屋は特等室で、ツインのベッドルームに、五・六人が集まってミーティングができる応接室、大きな浴槽のある風呂場がついている。科学アカデミーホテルは、見かけはりっぱとは言い難いが、交通や買い物の便のよい町中にあり、目の前に植物園があったりして結構気に入っている。インフレを見込んでもせいぜい一泊一〇ドル程度と思っていたら、一泊五〇ドルと言われ泡を食ってしまった。日本から持って出たドルのうち、こちらの共同研究者に配分する分を除くと、私の滞在費用分は一七〇〇ドル程度であった。二年前の感覚では、一ヶ月こちらにいても十分におつりが来るはずだった。一泊五〇ドルとなると、滞在費用はホテル代だけでなくなってしまう。たまたま、日本チェルノブイリ連帯基金のメンバーとミンスクで会えたので、事情を話して一〇〇〇ドルほど借金をし何とかしのぐことが出来た。外国人を別料金にして高額なホテル代をとるのは旧ソ連時代からのやり方であるが、遺憾ながら、それが科学アカデミーホテルにまで浸透してきたということであろう。ホテルの高級ルームが一泊五〇ドルというのは、日本の感覚では安いが、こちらの研究者の月給が一〇〇ドル程度であることを考えると、半月分の給料に相当する。

 この三年間のミンスクの物価の変動を表一にまとめてみた。九三年から九四年にかけてのインフレは、はたから見ていて悲惨なものだった。物価が二〇倍程度上がっているのに、給料は六倍程度で、実質的給料は三分の一から四分の一になっている。この時期のインフレは、ドルや円に換算すると、ほとんど変化していないか、むしろ安くなっていたりしている。九四年から九六年にかけては、物価の上昇は一〇倍余りであるが、給料の方も二〇倍に増えており、実質的給料が二倍程度増えたことになる。そして、ドルや円に換算しても、食料などが三倍程度になっていた。

 私の知り合いたちは、ほぼ一〇〇%夫婦共働きで、また夫婦ともにセカンドワークを持って稼いでいるようだった。彼らに言わせると、元気で働ける人々はなんとかなるが、働けないお年寄り、とくに身よりのない年金生活者は悲惨である。

表一に示した最低年金二十万ベラルーシルーブルというのがどの程度のものであるかは、毎月二十万円ほど年金をもらっていて肉の値段が一s四万円と考えると、日本の私たちにも実感できよう。

 共同研究の相手であるベラルーシ・放射線生物学研究所副所長のマツコの部屋を訪れた三月一日はたまたま給料日だった。給料明細書を持っていたので、コピーをくれというと、実物をくれた。是非日本にミンスクの実状を知らせろ、ということだったので、彼の二月分の給料明細を表二に示しておく。養育費というのは、昨年別れた奥さんが育てている一人息子の養育費である。養育費を除いたマツコの手取りは、前渡し分を加えて円に換算すると八七〇〇円ほどとなる。同じ日の酒席で、研究所の会計係と話す機会があったので給料の総額を聞くと、所員一五五名に対し二億ベラルーシルーブルとのことであった。平均一三〇万ベラルーシルーブルとなる。副所長のマツコの給料が一五〇万ルーブルなので、上下の差はそれほど大きくはないようだ。

 

  表1 ミンスクのこの3年間の物価変動(BR:ベラルーシルーブル)


            1993年6月  1994年6月  1996年3月


 <BRの交換レート>

 対ドル(BR/$)     120      2500     12000

 対円(BR/円)        1.1      25       114

   <収入>

 研究者の平均的月給   8000BR     5万BR     120万BR

            (7300円)   (2000円)  (10500円)

 最低年金(月)       −      1.2万BR     20万BR

                      (480円)    (1800円)

   <物価>

 ガソリン(1リットル)  10BR     450BR    3000BR

              (9円)     (18円)     (26円)

 バス・地下鉄(1回)    1BR      20BR    1500BR

             (0.9円)    (0.8円)     (13円)

 パン(1塊)        3BR       −      2400BR

              (3円)               (21円)

 牛肉(1kg)      180BR    3500BR   40000BR

             (160円)   (140円)    (350円)

 トマト(1kg)     120BR    3500BR   45000BR

             (110円)   (140円)    (400円)

 ウォッカ(500ml)  60BR    2000BR   24000BR

              (55円)    (80円)     (210円)


 1994年秋に10分の1のデノミが行われたが、表の数字は現在の勘定に合わせてある.

 

   表2 マツコ氏の1996年2月分給料明細


 給与総額  1508659BR   内訳 基本給  1224700

        (13234円)      年功手当  183750

                      学位手当  100000

                      端数       209

 控除総額   952050BR    内訳 前渡し   440000

         (8351円)       税金    139650

                      養育費   342200

                      組合費    15100

                      年金費    15100

 手渡し額   556000BR   端数の609BRは持ち越し

         (4877円)


 給料日は月に2回あり、月半ばに前渡し分が支払われる.

 

ベラルーシの政治状況

 ベラルーシの初代大統領を選ぶ一九九四年七月の選挙は、ルカシェンコ現大統領が圧勝した。ルカシェンコは、モギリ

ョフ州のコルホーズ議長出身であるが、もともとの支持基盤は持たず、共産党でも改革派でもない。大統領選挙当時、私の知り合いの間での評判は極めて悪かったが、パフォーマンスの強い人物のようで、折りからの経済的困難のなかで大衆的な人気を集めているようだった。結構若くて、現在五〇才前後か。最高会議での彼の就任演説を以前に新聞で読んだが、チェルノブイリ事故については一言も言及していなかった。路線としては、ロシア寄りで、経済改革には慎重のようである。知り合いによると、社会主義市場経済を標榜しているが、それがどんなものか、本人はもちろん誰もしらないということだった。

 一九九五年五月には、国民投票と最高会議の選挙が合わせて行われている。国民投票のテーマは、大統領権限の強化、ロシア語の公用語復活(ベラルーシ語と併用)、国旗・国章の変更、ロシアとの経済統合の四つでいずれも承認されたようだ。ベラルーシの国旗は、白・赤・白の横三本と思っている人が多いかも知れないが、現在はソ連時代の共和国旗からカマとハンマーを除いたもの(赤と黄緑の上下2色、左端に赤白の伝統模様)に戻っている。最高会議の選挙では、多くの選挙区で、投票率が五〇%を下回り当選者が出なかった。選ばれた議員数が最高会議の定足数にみたず、一一月に再選挙が行われた結果、ようやく定足数を越える一九七名の代議員が選ばれている。といっても、議員定数は二六〇であるから、六三の空白選挙区があることになる。今回聞いた話では、大統領派六八名、共産党四四名、共産党シンパの農業党四八名、民主派その他で三七名とのことだった。凋落が際立っているのは、ベラルーシ人民戦線(BNF)で、三七の議席が一議席になってしまった。BNFは、反ロシアの民族派政党で、ソ連時代末期には共産党攻撃の先頭にたち、放射能汚染対策を求めるチェルノブイリの運動とも連携して、当時はかなりの支持を集めていた。しかし、ソ連崩壊後の経済困難のなかで、ロシアとの決別を唱えるBNFは人気を落としたようだ。私の知り合いもミンスクのある選挙区からBNFの候補として立候補し落選している。彼によると、ミンスクの選挙区はいずれも選挙無効で、最高会議にはミンスク選出の議員はひとりもいないとのことだった。

 ルカシェンコ大統領派は、集会を禁止したり新聞発行を停止したりして、大統領独裁の強権政治に向かっているようだ。実際、街角のキオスクで売られている新聞の種類が減っていた。また、ロシアとの再統合を強力に押し進めようとしている。私が最終的にミンスクを離れた翌日の三月二四日には、ロシアとの統合条約に反対するBNFのデモがあり、約三万人が参加して警官隊と衝突、多数のけが人が出て三〇人が逮捕された、というテレビニュースをモスクワで見ることになった。日本に戻った後の四月二日には、モスクワのクレムリンでエリツィン大統領とルカシェンコ大統領が、経済面での統合、政治・軍事面での共同歩調をめざす共同体創設条約に調印している。ミンスクの私の友人達は、ベラルーシはイラクなどとは違う、人々はルカシェンコの独裁を許しはしない、といっていたが、ロシアを含め民主改革派にかつての勢いは感じられない。

 チェルノブイリの問題については、放射能汚染地域居住者への援助の切り下げが検討されている。具体的には、これまで援助の基準は居住地区のセシウム一三七による地表汚染レベルであったものを、年間被曝線量値に切り替えようというものである。結果的に援助対象者を数分の一にしてしまう切り捨て策である。ベラルーシ政府は切り替えの意向であるが、最高会議のチェルノブイリ関係議員の抵抗でなんとか法案は通過していないようだ。その一方、チェルノブイリ事故対策特別税として、すべての給与所得者から徴収されていた税金が、これまでの一八%から、一九九四年に一二%、一九九六年に一〇%へと引き下げられている。今年三月の科学アカデミーの報告によると、事故対策費用が国家予算にしめている割合は、一九九一年一六・八%、九二年一二・六%、九三年九・六%、九四年六・九%、九五年七・三%と徐々に低下している。チェルノブイリ事故の被災者救援の面でも、弱者の切り捨てが着々と進行しているということであろうか。

 

トヨタ財団共同研究

 トヨタ財団から助成をもらっている研究課題は「ソ連崩壊後のロシア、ベラルーシ、ウクライナにおけるチェルノブイリ原発事故影響研究体制と研究の実状に関する調査研究」(一九九五年一一月から一年間、二〇〇万円)というもので、正式メンバーは私とベラルーシ科学アカデミー・放射線生物学研究所のマツコの二人である。具体的な内容は、それぞれの国のどこの研究所でどんな研究が行われているのか、という客観的な情報を集める(第一テーマ)とともに、IAEA(国際原子力機関)などの国際的権威から無視されたり見逃されているものの、事故影響に関係する興味深い研究を掘り起こして紹介しよう(第二テーマ)、というものである。チェルノブイリ一〇周年にちなんでこの四月に開かれるIAEAの会議では、「チェルノブイリ事故は原子力開発史上最悪の事故であったが、放射能汚染地域住民にもたらされた健康影響は、子供の甲状腺ガンを除き大したことはなかった」という結論が予測されるので、そうした見解に反論するための材料を少しでも集めておきたい、という私の思惑もあった。

 実は九三年度にもトヨタ財団から助成をもらって、ベラルーシの未公表データを用いて事故直後の放射能汚染を評価し放射能放出量と被曝線量の再評価を試みる、という共同研究を行ったが、結果的にはうまく行かなかった。その原因はいくつかあるが、結局はお互いに研究のやり方や習慣をよく理解していなかったことが最も大きな障害であったと思っている。研究者が自分の意志で創意工夫をしながら、詳細な契約書もなく平等な権利をもって共同研究を進めるという、こちらからすれば当たり前の感覚が向こうになかなか伝わらなかった。こちらが要求する資料は一応出てくるものの、その内容はこちらが考えていたものにはほど遠く、データの素性が良く分からないといったこともあった。口約束があったとしても、細かい契約書になっていなければ後からの言い訳はどのようにでもできるという感覚があるようだ(こうした対応は向こうではソビエト的伝統と呼ぶらしい)。

 今回の共同研究は、そうした経験を踏まえて、個人的な信頼関係をベースにし、今中の判断で小回りが効くようにした。個人的なツテを広げる形で非公式メンバーとして、ウクライナ科学アカデミー・水圏生物学研究所のナスビットとロシア科学アカデミー・エコロジー進化問題研究所のリャプツェフの参加が得られた。今回の私の旅行中に四人のメンバーのミーティングを二回持ち、共同研究の進め方を相談した。第一テーマについては、マツコ、ナスビット、リャプツェフのそれぞれが自分の国での研究状況をまとめることにし、第二テーマについては、それぞれの研究者に特別レポートを依頼することにした。これまでに、ミンスクでは、被災者救援の立場からこれまでチェルノブイリ問題に積極的に取り組んできた物理化学問題研究所のマリコに、「IAEAなどの国際機関による事故影響評価に対する批判的レビュー」、事故直後に子供たちの染色体異常を観察したもののデータが長く秘密扱いとされてきた遺伝学・遺伝細胞学研究所のミハレービッチに、「三〇q圏から避難した子供たちの事故直後の染色体異常観察結果」のレポートを依頼した。モスクワでは、共産党秘密文書を暴露したヤロシンスカヤに、「事故直後の周辺住民の急性放射線障害に関する情報」、事故処理作業者たちの染色体異常を調べてきた一般遺伝学研究所のシェフチェンコに、「チェルノブイリ事故による染色体異常影響研究に関するレビュー」を依頼した。キエフでは、共同メンバーのナスビットの判断で、汚染地域での病気データをまとめている医師にレポートを依頼することになっている。

 うまく共同作業が進めば、本誌でもその成果を報告したい。

 

三つの国際会議

 三月一八〜二二日にミンスクで開かれたEU・CIS三ヶ国主催のチェルノブイリ事故影響会議には、トヨタ財団の採択が決まる前から参加申し込みをしていた。昨年末に、ベラルーシ科学アカデミーが二月の末にシンポジウムをやることした、と言ってきたのでどうしたものかと考えていると、三月一二〜一五日にウクライナ・チェルノブイリ省も国際会議をするという情報が入ってきたので、それなら三つとも参加して、ついでにトヨタ共同研究のアレンジもして来ようとなった次第である。

 

ベラルーシ科学アカデミー主催「チェルノブイリ事故から一〇年・問題の科学的側面」(二月二八〜二九日、ミンスク):ソ連時代の末期から、ベラルーシ科学アカデミーはチェルノブイリ事故による周辺住民の健康被害を主張し、事故の影響は大したことないとするソ連中央やIAEAなどの学者と対立してきた。その先頭で頑張ってきたのが、共同研究相手のマツコの上司で、放射線生物学研究所所長のコノプリャである。ただここ数年は、WHOやEUなどによるCIS学者の囲い込み路線もあって、以前の勢いが感じられなくなっている。そのベラルーシ科学アカデミーが国際会議をするというので、様子をみておこう、というのが私の参加動機である。国際会議と銘打ってはいたものの、二〇〇人ほどの参加者はほとんどベラルーシのようだった。ロシア科学アカデミーやウクライナ科学アカデミーにも共催を呼びかけたが無視されたようだ。

 通訳なしでロシア語での一方的な発表にはほとんどついて行けなかったが、会議の雰囲気はある程度くみ取れた。IAEAなどによる三つの国際会議(九五年一一月WHO主催、九六年三月EU・CIS三ヶ国共催、四月IAEAなど共催)にベラルーシ科学アカデミーとして対抗する姿勢を示しておくとともに、科学アカデミー内部を固めておきたい、というのがコノプリャらの思惑であろう。個別の発表で記憶に残ったのは、事故処理作業者の間で白血病が増えているというベラルーシ医療技術センターのオケアーノフの話、汚染地域で認められている新生児先天性障害の線量・効果関係が上に凸になるという遺伝疾病研究所のラジュークの話であった。

 

ウクライナ・チェルノブイリ省主催「第5回国際科学技術コンファレンス・チェルノブイリ96」(三月一二〜一五日、グリーンケープ):グリーンケープというのは、事故処理作業者のため、事故直後にチェルノブイリ原発から五〇qほど南東にキエフ貯水湖に面して作られた、ベースキャンプのような町である。現在二〇〇〇人ほどが暮らしている。一年おきぐらいにチェルノブイリ事故の国際会議が開かれ、今年はその5回目である。原発周辺の立ち入り禁止区域を管理している「プリピャチ」と呼ばれる科学企業合同体が会議を取り仕切っていた。会議参加者は三〇〇人程度で、ロシアから四〇人、ベラルーシから六人、米国五人、その他スウェーデン、フランス、イタリア、ハンガリーといったところ。日本からは私の他に、原研からの参加が二人あった。全体会議と五つの分科会が開かれ、分科会によっては喧々囂々の議論がやられていた。私も、チェルノブイリから日本まで飛んできた放射能の発表をした。結構反響があり、何人かがデータを欲しいと寄ってきた。発表予定者が現われなかったり、プログラムがいつのまにか変更になったりで、おおらかな会議運営であったが、私としては結構面白かった。ウクライナ・チェルノブイリ省が一〇周年にあたって発行した冊子に、原発周辺三〇q圏内での詳細なセシウム一三七汚染地図が載っていた。原発北東約二〇qにあるクリューキ村周辺の汚染は、一平方q当り一〇〇〇キュリーを越えている。このデータと事故直後の短半減期放射能の組成比を基に、これから、事故直後避難住民に対する被曝線量の再評価を試みるつもりでいる。

 

EU・CIS三ヶ国主催「チェルノブイリ事故による放射線影響国際会議」(三月一八二二日、ミンスク):IAEAなどによるホップ・ステップ・ジャンプの三つの国際会議のステップにあたる会議である。IAEAは一九九〇年、旧ソ連政府の要請を受けて汚染地域の健康影響を調査する国際チェルノブイリプロジェクトを実施し、一九九一年五月に事故影響は認められないという報告を発表している。その報告に対しベラルーシやウクライナの代表が猛反発し、またその後、子供の甲状腺ガン増加の報告が次々に発表され、IAEAの権威はガタ落ちになってしまったという経緯がある。この会議は、ソ連崩壊後の一九九二年からEUが約五〇億円の資金を出して、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの研究者を取り込む形で進めてきた一六のチェルノブイリ事故影響研究プロジェクトの報告会である。約五〇〇人の参加があり、日本からは一〇人ほどであった。さすがEUというか、会議の運営はスマートで、一二〇〇ページに及ぶプロシーディングスのほか、各プロジェクトのレポートが準備され、私の荷物はいっぺんに重くなってしまった。甲状腺ガン増加の主な原因が放射線被曝であることはすでにほぼ一致した見解になっており、疫学専門家の発表は、チェルノブイリ事故の被災者追跡調査をキチンと実施することによって、放射線リスクに関する新たな知見が得られるだろう、というものだった。はっきりした増加が報告されていない汚染地域住民の白血病については、甲状腺ガンが現在のように増加すると五年前には予見できなかったのであるから、白血病についても謙虚に考えるべきだという意見が印象に残った。

 実は一年前に、この会議のポスター発表募集が送られてきたので私も申し込みをしていたところ、何故かリジェクトされてしまった。ミンスクの知り合いも発表させてくれないと言っていたし、原研の人たちも同じくリジェクトされていた。どうやら、EU・CIS共同プロジェクトにテーマを限定して、会議実行委員会の気に入らない発表はさせない、ということにしたようだ。ミンスク遺伝疾病研のラジュークは、新生児への事故影響を示すポスターを貼っていたが、なぜか彼のポスター発表は、プログラムリストやプロシーディングスには載っていなかった。

 

おわりに

 チェルノブイリ事故被災者の救援政策を充実させるにはまず国の経済を回復させる必要がある。そして、経済を回復するにはチェルノブイリ事故対策を切りつめる必要がある、というジレンマの中で、徐々に事故被災者が切り捨てられつつあるのがベラルーシの実状であろう。ソ連崩壊後のCIS諸国の経済改革を支援しているEU諸国や世界銀行なども、被災各国において被災者対策の経済負担が大きくなることを望んではいないであろう。IAEAなど原子力に関わる国際機関は、この一〇年間、チェルノブイリ事故の事実隠しに荷担してきた。彼らがチェルノブイリ事故対策において、最も苦々しく思っているのは、チェルノブイリ事故による広範な汚染が明るみに出た一九八九年以降、ベラルーシなどの各共和国が、旧ソ連政府の意向に逆らって独自に新たな移住政策を採用したことであろう。その結果、移住対象面積一万平方q、自分の家に住めなくなった人々約四〇万人という茫然とするような数字が、否定できない事実として原発事故のすさまじさを物語ることになる。原発の抱えている基本的な危険性が原子炉の中に蓄積される放射能にある以上、原発災害の規模は、ソ連型原発であろうと日本型原発であろうと同じである。原子力産業は生き残るため、「原子力開発史上最悪であるチェルノブイリ事故においても周辺住民に与えた被曝影響は大したことなかった。移住政策は過剰な対策であり、精神的ストレスを含め余計な負担をもたらしただけだった」という神話を作り上げようとしている。

 科学が事実を解明する有効な手段の一つであることは確かであるが、場合によっては、事実を明らかにしないための方便にも利用できるということを、公害問題をはじめ多くの経験が私たちに示してきた。チェルノブイリ事故においても、事故直後の周辺住民の間での急性放射線障害など、多くの事実がなかったことにされる危惧を私は感じている。チェルノブイリ事故一〇年の節目に、さまざまな立場から世界中で無数のイベントが開かれ、なだれのようなマスコミの報道がなされている。私たちの共同研究やこの原稿も、そうした無数の動きの一つと思っているが、チェルノブイリ事故を考えるにあたって何かの参考になったとすれば幸いである。

       (いまなかてつじ・京都大学原子炉実験所)

参考資料

1.今中哲二「白ロシアでの放射能汚染調査」、本誌、  一九九一年一二月号

2.今中哲二「放射能汚染と被災者たち(1)〜(4)」、  本誌、一九九二年五〜八月号

3.瀬尾 健「チェルノブイリ旅日記」、風媒社、一九  九二年七月

4.今中哲二「最近のベラルーシ事情」、本誌、一九九  三年八・九月合併号

5.今中哲二「続・最近のベラルーシ事情」、本誌、一  九九四年一・二月合併号

6.今中哲二「最近のベラルーシ事情(3)」、本誌、  一九九四年八・九月合併号

7.今中哲二「その後のチェルノブイリ」、本誌、一九  九五年四月号

8.今中哲二「チェルノブイリ事故一〇年」、世界、一  九九六年六月号