<技術と人間・一九九七年四月号>  

チェルノブイリ原発事故による周辺住民の急性放射線障害

         今中哲二


 チェルノブイリ原発事故は昨年四月二六日で、その発生以来一〇年が経過した。IAEA(国際原子力機関)などは昨年四月に「チェルノブイリから一〇年:事故影響の総括」というテーマで国際会議を開いている。七四ヶ国、一八の国際機関から約一〇〇〇人が参加した会議の目的は、この一〇年間いろいろと論議を巻き起こしてきたチェルノブイリ事故影響に関して、各国の行政当局や専門家の間で国際的なコンセンサスを作り上げることにあった。会議の結論(1)を筆者流にまとめると、「事故がもたらした周辺住民への健康影響は(致死率の小さい甲状腺ガンの増加は例外として)認められず、チェルノブイリ事故は史上最悪の原発事故ではあったが、周辺住民への影響は大したことはなかった」ということになる。

 筆者らは、二〇年以上前より日本の原発で大事故が起きると周辺住民にとんでもない被害が予測されると警告してきた。実際に起きた原発大事故例として、チェルノブイリ事故影響の解明はこの一〇年間の筆者らの課題であった。事故影響についての筆者らの見解は、IAEAなどの「楽観的」見解とは全く異なっている。この四月でチェルノブイリ事故から一一年になるが、いまだに多くのことが未解明であるし、むしろ時間の流れの中で、多くの重要な事実が歴史の闇に消えてしまうのではないかと危惧している。

 ここでは、旧ソ連政府をはじめ、IAEAなどがこの一〇年間一貫して否定してきた、チェルノブイリ原発周辺住民における急性の放射線障害の問題について検討してみる。    

周辺住民の強制避難(2)

 一九八六年四月二六日午前一時二四分(モスクワ時間)少し前、旧ソ連ウクライナ共和国チェルノブイリ原子力発電所の四号炉(出力一〇〇万kW)が、原子炉の暴走により爆発炎上した。目撃者によると夜空に花火が打ち上げられたようだった。原子炉とその建屋は瞬時に破壊され大量の放射能放出が始まったが、運転員らには当初なにが起きたのか皆目理解できなかった。事故発生の知らせがモスクワの共産党幹部に入ったのは午前三時とされている。ソ連政府の対応は素早く、シチェルビナ副首相を議長とする事故処理政府委員会を現地に設置することにした。モスクワから専門家の第一陣が飛び立ったのは午前九時で昼過ぎには現地に入り、シチェルビナもその夜までに到着した。政府委員会の最初の仕事の一つは、原発職員が住んでいるプリピャチ市(人口約五万人、原発から三〜六q)の住民を避難させるかどうかであった。いろいろ議論の結果、翌二七日に避難させることになった。二七日午後二時、プリピャチ市住民四万五〇〇〇人の避難が一三〇〇台のバスを使って開始された。市内の放射線状況が刻々と悪化する中、心配されたパニックも起きず、避難は三時間で完了したと言われている。後の報告から、当時のプリピャチ市内の放射線量を図1に示しておく(3)。避難が始まったころから、プリピャチ市内の線量率は毎時五〇〇〜一〇〇〇ミリレントゲン程度にまで上昇している(放射線の単位については文末注参照)。

図1 プリピャチ市内3ヶ所の事故発生後4日間の野外放射線量率

  ・文献3から作成.・時間0が、4月26日午前1時24分にあたる。

  ・避難の開始は、27日午後2時なので、約36時間後になる.

 プリピャチ市以外の周辺住民の避難が決定されたのは、事故から一週間目の五月二日のことであった。プリピャチ市以外で、原発周辺にある大きな町は、南東一二qのチェルノブイリ市(人口約一万四〇〇〇)だけで残りは農村地帯である。まず原発周辺一〇q圏の村落の避難が、五月二日から三日にかけて実施された。さらに四日からは周辺三〇q圏内の残りの村落の避難が行われた。一九八六年八月にソ連政府がIAEAに提出した事故報告書(4)(以下八六年ソ連報告)に基づくと、結局一三万五〇〇〇人の強制避難が行われた。後の報告では、避難した人々の数について、一一万六〇〇〇人(ウクライナ九万一〇〇〇人、ベラルーシ二万五〇〇〇人)という数字もしばしば出てくる。

   八六年ソ連報告

 事故から四ヶ月後の一九八六年八月、ウィーンのIAEA本部でチェルノブイリ事故を検討する専門家会議が開かれた。八六年ソ連報告は、ソ連政府がその会議に提出したものである。それまでの秘密主義に比べ、八六年ソ連報告書は西側専門家を驚かせるほど大部なものであった。事故の原因は運転員の規則違反で、事故処理は順調に進行中、事故はほぼ終息した、というソ連側の報告は、西側専門家に了承された。しかし、会議の裏では、事故原因の追求などで事態を荒立てないという取引がIAEAとソ連側で行われていた(5)

 八六年ソ連報告によると、事故による被曝によって急性の放射線障害が現われたのは二〇三人で、そのうち二八人が三ヶ月以内に死亡した。事故による死者は、破壊された原子炉建屋に閉じ込められた一人、事故当日に火傷で死亡した一人、他の原因による死者一人を加えて合計三一人である。急性放射線障害は全員が原発職員と消防士で、周辺住民の間には一件の急性放射線障害もなかったとされた。この八六年ソ連報告の見解は、ソ連の崩壊後もIAEAなどに受け継がれ現在に及んでいる。

 急性放射線障害という言葉の定義そのものにあいまいなところはあるが、一般には、一シーベルト以上の全身被曝を短時間に受けると、しばらくして、吐き気、おう吐、下痢といった症状が現われるとされている。同時に、骨髄の造血機能が損傷を受けているため、白血球や血小板の数に変化が起きる。急性放射線障害かどうかの診断は、そうした血液像の観察結果を基に行われる。一〜二シーベルトの被曝では大部分の人が回復するが、三シーベルトの全身被曝では約半数の人が数ヶ月以内に死亡すると言われている。

 表1に、八六年ソ連報告で示されている避難住民の外部被曝線量の値を示す。外部被曝とは、空気中や地表面に存在する放射能からのガンマ線により、体の外から受ける被曝である。呼吸や飲食物とともに放射能を体内に取り込み、体の中の放射能から被曝する場合は、体内被曝と呼ぶ。いち早く避難が実施されたプリピャチ市に比べ、避難が遅れた他の村落の被曝線量がかなり大きくなっているのが注目される。とくに三〜一五qの村落での平均被曝線量は〇・四五シーベルトに達している。

表1 86年ソ連報告の平均外部被曝線量

 

村落の数

人口

(人)

平均外部被曝線量

(シーベルト)

プリピャチ市

  45,000 0.033

3-7km

5

7,000 0.54

7-10km

4

9,000 0.46

10-15km

10

8,200 0.35

3-15km合計

19

24,200 0.45

15-20km

16

11,600 0.052

20-25km

20

14,900 0.060

25-30km

16

39,200 0.046

15-30km合計

52

65,700 0.050

3-30km合計

71

90,000 0.16

避難住民合計

  135,000 0.12

 表1の値は平均被曝線量なので、三〜一五qにいた二万四〇〇〇人の個人々々の被曝線量はかなりばらついているはずである。その原因は、汚染そのものに場所的なばらつきがあることと、家の中にいるか外にいるかといった個人の行動パターンがばらついていることによる。通常、こうした場合の被曝線量のばらつき方は対数的分布を示すことが知られている。つまり、平均値の三倍の被曝をした人の割合が全体の五%であれば、平均の三分の一の割合も五%といった分布の仕方である。昨年三月にミンスクで開かれた国際会議の報告の中で、三〇q圏内のある村からの避難住民三三五人を調査し、外部被曝線量の分布が推定されている(6)。その分布に基づくと、平均被曝線量の三倍を被曝を受けた人は、全体の約三%になっている。この三%という割合を、三〜一五qからの避難住民二万四〇〇〇人に適用すると、七二〇人が一・三五シーベルト以上の外部被曝を受けたことになる。つまり、八六年ソ連報告では否定されているものの、報告書の中身は、外部被曝だけによっても、周辺住民において多数の急性放射線障害があり得たことを示唆している。

   共産党秘密議事録とルパンディン報告

 事故当時のソ連において最も大きな権力をもっていたソ連共産党である。その中枢である共産党中央委員会政治局に、事故対策の基本方針や情報管理の調整を行うために、事故直後に特別対策グループが設置された。ソ連崩壊後の一九九二年四月、その特別対策グループの秘密議事録が暴露された(7)。その議事録によると、チェルノブイリ周辺住民に多くの急性放射線障害があったことが、共産党中央へ報告されていた。たとえば、五月六日の議事録には、「病院収容者は三四五四人に達する。うち入院治療中は二六〇九人で幼児四七一人を含む。確かなデータによると放射線障害は三六七人でうち子供一九人。三四人が重症。モスクワ第六病院では、一七九人が入院治療中で幼児二人が含まれる」(くわしくは本号別稿、ヤロシンスカヤ「チェルノブイリ事故後数週間・数ヶ月間における住民の放射線障害と一〇年後の健康」参照)。議事録に示されている重症者や死亡者の数は、運転員や消防士の数にほぼ対応しているので、その数字には住民以外も含まれているが、子供や幼児が含まれていることを考えれば、病院収容者の多くの部分が周辺住民であったことは間違いない。

 ロシア科学アカデミー社会学研究所のルパンディンは、チェルノブイリ原発に隣接するベラルーシ・ゴメリ州のホイニキ地区において、医師の面接や病院のカルテ調査を独自に行い、周辺住民に急性の放射線障害があったという調査結果を、一九九二年一〇月ミンスクの週間新聞に発表している(8)。少々長くなるが、その報告から引用してみよう。

 一九八六年五月一日午前二時、ホイニキ地区中央病院を、ボルシチェフカ村(三〇q圏)の住民、アレクセイ・クリヴェノク(二〇才、「五月一日」コルホーズの労働者)が訪れた。彼は、全身衰弱、上腹部の痛み、口の渇き、おう吐、頭痛を訴えた。症状は、四月二八日吐き気と頭痛で始まり、三八〜三九度の発熱があり、一晩に三〜六回おう吐があった。四月三〇日、医療担当者の指示に従い、放射能汚染に対する解毒剤を服用した。病人は衰弱し、動作も鈍っていた。ホイニキ中央病院に現れたときにも一回おう吐し、三日間便秘していた。尿中タンパクは、四・五グラム/リットルで、白血球数は、三六〇〇に低下していた。五月三日、ゴメリ州病院へ移された。患者の診療にあたった医師、M・V・コスによると、「患者はプリピャチ川の岸辺で二日間、日光浴と釣りをしていた。来院した際、肝臓あたりの放射線量は五から一〇ミリレントゲン/時で、甲状腺のところは一五ミリレントゲン/時にも達した。衣服は強く汚染されていた」。ホイニキ中央病院の副医師長V・I・コビィルコは、四月二九日ボルシチェフカ村で当人を診察している。そのとき、彼はすでに動作が鈍り、言葉も話すのも苦しそうだった。頭痛を訴え、何度もおう吐した。五月一日、コビィルコは病院で再び彼を診察することになった。急性放射線障害という診断は、だれにも疑いようのないものであった。患者のその後の運命は明らかでない。

 五月二日午前二時、同じくボルシチェフカ村から、レオニード・ルキヤネンコ(四七才、搾乳夫)が来院した。発病したのは五月一日で、吐き気、おう吐、全身衰弱、上腹部の痛み、心臓の痛みが現れた。

 五月三日には、モローチキ村から、オリガ・クズィメンコ(四七才)が来院した。発病したのは、四月二八日で、吐き気、おう吐、急速な全身衰弱と下痢をともなった。病院でもおう吐した。吐き気、唾液の分泌、上腹部の痛み、下痢を訴えた。甲状腺の放射線量は、三〇〇〇マイクロレントゲン/時で、衣服や彼女の体からは二〇〇マイクロレントゲン/時であった。白血球数は三五〇〇。

 五月六日、ポゴンノエ村(人口一五〇三人)から、二・七才の幼児、マリーナ・ニコラエンコがやってきた。この子の村も、汚染地帯にあった。唾液分泌の過剰と唇のむくみが観察された。口の中の粘膜、頬、唇にはおびただしい発疹が認められた。体温は三七・八度で、食べ物を受けつけなかった。五月六日、この子は州病院に移された。

 五月六日、ヴィソーカヤ村からヤーニナ・バグレイ(四三才、ストレリチェボ・ソフホーズの搾乳婦)がやってきた。彼女は、五月二日から六日まで、一〇q圏(チェムコフ村やウラースィ村の近辺)で搾乳に従事し、毎日一二時間その辺りにいた。五月六日、頭痛、めまい、吐き気がし、鼻出血があった。顔の皮膚や手の先が充血し、白血球数は三〇〇〇であった。

 我々が地区中央病院の記録保管室で探しあてた症例は全部で、第U度の急性放射線障害七例、第I度の急性放射線障害例七五例であった。(中略)  三〇q圏住民避難の指導にあたった医師コビィルコは以下のように述べている。「五月四日から七日にかけて、五二〇〇人が避難した。私のみたところでは、一〇〇人を下らない人々が、急性放射線障害のあらゆる兆候を呈していた。白血球数の三〇〇〇以下への低下は、避難した人の三〇〜三五%に認められた。三人に一人に、初期の反応(第I度の急性放射線障害の兆候)が観察された」

 ルパンディンが報告の中で述べているように、「周辺住民には一件の急性放射線障害もなかった」という主張を否定するためには、住民の急性障害を一件でも立証できれば十分である。共産党秘密議事録とルパンディン報告とを考え合わせれば、周辺住民の間に少なくとも数一〇〇件の急性放射線障害があったと考えるのが常識的判断であろう。

 事故処理作業に従事したウクライナの物理学者チェルナウセンコによれば、被曝治療の権威であるモスクワ第六病院からの医師が避難住民を訪れ、以前に行われた急性放射線障害という診断を次々と取り消しているとのことである(9)。共産党秘密文書を暴露したヤロシンスカヤが言うところの”ソビエト流合理的解決法“、たとえば、「体温の正常値を、三六・六度ではなく、上限三八度に、そして特別な場合には三九度までとする」といった方法により、住民の放射線障害が一件もなかった、とすることも可能になるであろう。

   被曝線量の切り下げ論文

 周辺住民の間で急性放射線障害を否定するもう一つの方法は、急性障害を呈するほどの被曝を受けた可能性がなかったことを示すことである。ウクライナにおいて事故直後から被曝線量評価の責任者となっているリフタリョフらは、一九九四年にそうした被曝評価結果を発表している(10)。表2にリフタリョフらの調査対象と平均被外部曝線量を示す。八六年ソ連報告の値に比べ、プリピャチ市で約三分の一、プリピャチ市以外の避難民で約九分の一に減っている。グループA(プリピャチ市一般住民)で、〇・〇五シーベルトを越えたのは一〇〇人(〇・七五%)で、最大値は〇・一一四シーベルトである。またグループB(三〇q圏一般住民)で、〇・〇五、〇・一、〇・二五シーベルトを越えたのは、それぞれ一三七二人(八%)、六四四人(三・七%)、五人で、最も大きな被曝線量は〇・三八三シーベルトとなっっている。

  表2 リフタリョフ論文の調査対象と平均外部被曝線量

グループ

住所

区分

線量推定

の有無

人数

平均被曝線量

(シーベルト)

プリピャチ市

一般住民

13,383 0.0115

30km圏

一般住民

17,203 0.0182

プリピャチ市と

30km圏

事故処理作業者と

一般住民の一部

4,199

プリピャチ市

事故処理作業者

908

30km圏

事故処理作業者

105

 ・グループАを合わせた平均の被曝線量は、0.015シーベルト.

 ・グループЕの平均被曝線量は示されていない.グループの最大個人被曝線量は0.70

  シーベルトで、プリピャチ市に10日間滞在した人であったと述べている.

 

 リフタリョフらは、ウクライナで国家登録されている避難住民約六万人のうち約三万六〇〇〇人にアンケート調査を行い、事故発生から避難するまでの個人の行動を、プリピャチ市については一時間ごとに、それ以外は一日ごとに調査している。その行動調査と、プリピャチ市内や各村落での放射線量値とを基に個人の外部被曝線量を見積もっている。リフタリョフ論文によると、事故直後から、プリピャチ市内では三一ヶ所で平均三・五時間に一回、それ以外の三〇q圏村落九一ヶ所でも定期的に放射線量のモニタリングが行われた(論文では、プリピャチ市内九ヶ所での放射線量率データが示されているが、それ以外の村落については具体的なデータは示されていない)。表3はリフタリョフらによるいくつかの村落についての平均外部被曝線量である。

表3 リフタリョフらによる30km圏村落での平均外部被曝線量

村落名

人口

避難

実施日

調査人数

被曝線量

(ミリシーベルト)

ゴロンチャン(Goronchan)

183

5月4日

108

130

ポスドーボ(Posudovo)

a

5月4日

29

122

ウソフ(Usov)

159

5月3日

89

118

トルスティレス(Tolsty Les)

626

5月3日

412

113

プリピャチ(Prip'at)

49,360

4月27日

13,383

11.5

チェルノブイリ(Chernobyl)

13,700

5月5日

4,761

6.0

コロゴド(Korogod)

934

5月4日

601

3.4

イリンツィ(Illintsy)

1,059

5月4日

436

2.3

グリンカ(Glinka)

212

5月4日

207

1.4

a:ベラルーシからの情報なし.

 避難住民三万人の個人々々の被曝線量を調べた結果、その最大値は約〇・四シーベルトであったというリフタリョフらの評価結果は、そのまま受け取ると、避難住民の間で一シーベルトに達するほどの外部被曝線量があった可能性はほとんどなかった、ということになる。

 リフタリョフ論文の問題点をいくつか指摘しておこう。

・表2のグループCについての評価が抜けている。このグループは、原発敷地や、最も汚染が強く松が枯れてしまった”ニンジン色の森“のような特殊な地点を訪れた人々とされている。四二〇〇人のこのグループはその他のグループよりかなり大きかったものと思われる。

・比較的汚染の低いところの住民が多い。後に示すように、三〇q圏全体では、ウクライナよりベラルーシの汚染の方が大きかった。ベラルーシ領の調査人数は二三三人に過ぎず、グループBの平均被曝線量は、避難民全体を代表しているとは言い難い。

・八六年ソ連報告に比べ小さな被曝線量になったことについては、以前の評価は「保守的であった」と述べているだけである。被曝線量推定に用いられた放射線量データは同じデータのはずであるが、違いの理由についての具体的な説明はない。

・内部被曝の評価がない。リフタリョフ論文はもともと外部被曝線量評価の論文であるが、急性障害の有無を議論するためには、呼吸や飲食物の摂取にともなう内部被曝の評価が不可欠である。

   三〇q圏内汚染の最近のデータ

 昨年三月ミンスクで開かれたEC・CIS主催の国際会議で、図2に示すような、一九八六年五月一日における周辺三〇q圏での各村落の放射線量率データが発表された(6)。リフタリョフ論文で用いられているデータの一部と思われる。五月一日時点での最高値は、原発北方五qのクラースノエの毎時三・三〇六ミリグレイである。原発北北西の四つのイタリック体数字(ラディン、モローチキ、ボルシチェフカ、ウラースィ)は、前述のルパンディン報告の中の記述からとった、四月二七日〜二九日の放射線量率である。どちらのデータも測定方法の詳細などは分からないが、放射線モニタリングの常識から考えて、図中のデータは各村落内の何点かの測定の平均値であろう。数字をそのまま受け取ると、四月二七〜二九日は、五月一日に比べ二〜五倍の放射線量率であったことになる。

図2 1986年5月1日における30km圏の野外放射線量率

   (単位:マイクログレイ/時)

  ・文献6から作成.・村落名は、別の地図から今中が読みとったもの.

  ・元データの表示単位はミリレントゲン/時であったのを、マイクログレイ

   単位に換算した値と思われる(1ミリレントゲン=8.7マイクログレイ).

  ・4つのイタリック体の値は、ルパンディン報告に基づく、4月27〜29日の値.

 

 図2を基に、いくつかの村落での被曝線量を考えてみよう。幸い、図2のウソフ村については、リフタリョフらの論文でも被曝線量値が示されている(表3)ので、まずウソフ村に注目してみる。単純なモデルで、ウソフ村住民の被曝線量を見積もってみた。五月一日のウソフ村での放射線量率は毎時〇・〇〇三グレイである。ウソフ村は五月三日に避難しているので、被曝期間は四月二七日一二時から五月三日一二時までの丸六日間とする。ルパンディン報告のデータを参考に、最初の三日間は五月一日の三倍の毎時〇・〇〇九グレイで、それからは毎時〇・〇〇三グレイであったと仮定する。表4に示すように、筆者の評価は〇・四四シーベルトでリフタリョフらの値の四倍となった。筆者の値は、八六年ソ連報告での三〜一五qでの平均値〇・四五シーベルトにほぼ一致する。この値は平均線量であるから、平均の三倍の被曝を受けた人の割合を三%とするなら、住民数一五九人のウソフ村では五人程度が一・三シーベルト以上の外部被曝を受けた可能性があることになる。表4からは、その他クラースノエ村やクリューキ村などでも一シーベルト以上の外部被曝があり得たことになる。

表4 30km圏村落での平均外部被曝線量の比較

村落名

5月1日

の線量率

避難実施日

被曝線量評価値

(ミリシーベルト)

 
 

(ミリグレイ/)

 

今中(A)

リフタリョフ(B)

A/B

ウソフ(Usov)

3.045

5月3日

439 118

3.7

クラースノエ(Krasnoe)

3.306

(5月3日)

476  

クリューキ(Kryuki)

1.914

(5月5日)

322  

クラージン(Klazhin)

1.044

(5月5日)

176  

ボルシチェフカ(Borshchevka)

0.870

(5月5日)

146  

チェルノブイリ(Chernobyl)

0.174

5月5日

29.2 6.0

4.9

コロゴド(Korogod)

0.061

5月4日

9.5 3.4

2.8

イリンツィ(Illintsy)

0.035

5月4日

5.5 2.3

2.4

グリンカ(Glinka)

0.035

5月4日

5.5 1.4

3.9

注1.線量率は図2の値で、野外の空間線量率.

注2.()の避難実施日は今中の推測.

注3.外部被曝にともなうグレイからシーベルトへの換算は、1グレイ=0.82シーベルトとした.

注4.建物遮蔽や屋内滞在時間を考慮した逓減係数は、リフタリョフ論文を参考に0.61とした.

注5.たとえばウソフ村は、3.045×(1×24×33×24×3)×0.61×0.82439ミリシーベルト.

 ルパンディンが急性放射線障害の症例を報告しているボルシチェフカ村についての筆者の評価は平均〇・一五シーベルトである。この平均被曝線量値からは、報告に出てくるような急性放射線障害は考え難い。ボルシチェフカ村の症例は、表2の特殊行動グループ、つまり、特に汚染の強い地域に滞在したグループCに分類されるものであろう。

 筆者の評価では、建物遮蔽係数、戸外にいた時間、グレイ・シーベルト換算係数といったパラメータは、リフタリョフ論文の値を参考にしている。彼らの評価方法との最大の違いは、こちらは五月一日の放射線量率分布しか持ち合わせていないことであるが、表4に見られるような、四倍もの違いの理由は不明である。リフタリョフらの手元には、五月一日以外の毎日について、図2のようなデータがあるはずである。それらの図が生データとともに公表されるまでは、筆者としてはリフタリョフ論文の結論をそのまま受け入れることはできない。

 昨年春には三〇q圏内の汚染に関する興味深いデータがもうひとつ報告されている。図3は、ウクライナのチェルノブイリ省から発表された、一九八六年五月一〇日時点での三〇q圏内のセシウム一三七の汚染地図である(11)。一平方q当り一〇〇〇キュリー以上というとんでもないセシウム一三七汚染が、原発敷地周辺と北西クリューキ村近辺に広がっていることに驚かされる。また、最高濃度の汚染地域は、原発があるウクライナ側よりも、むしろベラルーシ側に広がっている。ちなみに筆者は一九九三年六月、最高濃度地域であるクリューキ村近くの平原で放射線測定を行った。当時の放射線量率は毎時四四マイクロシーベルトであった。そこの土壌はサンプリングしなかったが、他の地点のサンプルから得られた土壌汚染密度と空間線量率の関係からそこの汚染密度を推定すると、一平方q当り一二〇〇キュリーとなり、図3の汚染レベルに一致する。

図3 1986年5月10日時点での30km圏のセシウム137汚染

  ・文献11から作成.

  ・元の地図では汚染レベルは12段階に色分けしてあるが、6段階に省略した.

  ・5月10日の測定データではなく、後のセシウム137測定データからの推定.

 事故直後の放射能汚染には、半減期の短いものから長いものまでさまざまな放射能が含まれている。図2のような放射線量率は、さまざまな放射能からのガンマ線の寄与が合わさったものである。そこで、土壌の放射能汚染の組成比が分かれば、セシウム一三七汚染値を基準にして他の放射能の汚染レベルを推定でき、地表汚染からの放射線量率を計算できる。細かいことは省略するが、事故直後のチェルノブイリ周辺での組成比の報告(12)を基に、クリューキ村でのセシウム一三七汚染を一平方q当り一二〇〇キュリーとして五月一日一二時での放射線量率を計算してみると、毎時六四三〇マイクログレイとなった。一方、図2のクリューキ村の値は毎時一九一四マイクログレイなので、筆者の計算値は約三倍である。不一致の原因は、同じ三〇q圏内でも汚染放射能の組成比がかなり違っていた可能性とか、図3のセシウム汚染が五月一〇日までのどの時点で形成されたか、といったことに関係していよう。さらに、クリューキ村では、四月二七日一二時に全汚染が生じ、五月五日一二時に住民が避難したというモデルでその間の被曝線量を積分計算してみると、〇・六七シーベルトという平均外部被曝線量になった。四月二七日に一度に全汚染が生じたというのは明らかに極端な仮定なので、この値は大きめの評価であろう。被曝線量を推定するためには、今の段階では図2の方が役に立つが、三〇q圏内の汚染の強さや広がりを考える上では図3も貴重なデータである。

 外部被曝に加えて内部被曝を考えると、被曝線量はさらに大きくなるが、避難住民の内部被曝については、放射性ヨウ素の取り込みによる甲状腺被曝以外ほとんどデータがないことと、一シーベルトを越える被曝の可能性は外部被曝だけからも示すことができたので、ここでは内部被曝の評価には立ち入らない。

 いずれにせよ、図2と図3はいずれも、合理的な推論に基づくと、外部被曝線量だけでも周辺住民において急性の放射線障害があった可能性を示唆している。

   急性放射線障害という言葉の意味

 急性放射線障害の診断には血液像の変化が用いられるが、どの程度白血球が減少すると急性障害と認められる、といった判断は医者の裁量にまかされることになる。ソ連当局も認めている原発職員や消防士の急性障害の場合、八六年一一月の発表では二三七名であったが、モスクワ第六病院によるその後の”正確な診断“の結果、その数は一三四名に減っている。

 これまで、急性放射線障害は一シーベルト以上の全身被曝による、という前提で議論をしてきたが、一シーベルト以下であれば、全く急性の症状が起きないということではない。ICRP(国際放射線防護委員会)では、造血機能低下のしきい値として〇・五シーベルトという値を採用している(13)。急性放射線障害ということばを、医者による血液像変化に基づく確定診断から、”被曝にともなう何らかの臨床的な症状“にまで広げるとするならば、チェルノブイリの事故影響は全く違って見えることになろう。

 チェルノブイリ事故による周辺住民の被曝の特徴のひとつは、放射性ヨウ素の取り込みにより、大変な甲状腺被曝があったことである。ベラルーシの報告によると、避難住民のうち一〇シーベルトの甲状腺被曝を越えたのは、六ヶ月からは二才以下の幼児の二〇%、二才から七才の子供で一一%とされている(14)。またウクライナからは、子供の甲状腺被曝の最大値として約五〇シーベルトという値も報告されている(15)。ヨウ素一三一を投与して甲状腺機能昂進症を治療するときの甲状腺被曝線量が四〇シーベルト程度であることを考えると、チェルノブイリ周辺で多くの子供の甲状腺機能が影響を受け、なんらかの臨床的な症状が現れた可能性を否定できない。

 一九八八年五月にキエフで開かれた会議で、当時のソ連保健省第一次官セルゲーエフは、事故直後に約六〇万人の住民の検診を行い、予防措置として、子供一万二六〇〇人を含む三万七五〇〇人を病院に収容したが、住民の急性障害は一件もなかった、と報告している(16)。このセルゲーエフの報告を、筆者なりに解釈すると、三万七五〇〇人に被曝による症状が疑われ病院に収容したが、ソビエト流合理的解決法により、住民の急性放射線障害は一件も認められなかった、ということになる。

   筆者が、チェルノブイリ周辺住民において多くの急性放射線障害があった、と確信を抱くようになったのは、事故から六年を経た一九九二年に、共産党秘密文書とルパンディン報告が出てからのことである。それから機会あるごとにこの問題を指摘してきたつもりである。しかし、日本の研究者はもちろんのこと、現地の研究者にも、「周辺住民には一件の放射線障害もなかった」という”神話“が浸透しているように思える。

 筆者は現在、ヤロシンスカヤを含め、ロシア・ベラルーシ・ウクライナの研究者とともに、トヨタ財団から研究助成を受けてチェルノブイリ事故影響に関する共同研究を行っている。周辺住民における急性放射線障害の問題もそのテーマのひとつであり、事故直後の状況に関する情報やデータの入手を試みている。新たな事実や手がかりが見つかればあらためて紹介したい。

                    (いまなかてつじ、京都大学原子炉実験所)

 


放射線の単位:レントゲン/時という単位は、空気中を飛び交っている放射線の量(照射線量率)を表すのに使われる。ちなみに自然放射線レベルは、一〇マイクロレントゲン/時程度である。グレイという単位は、放射線を受けた物質が吸収したエネルギー量を示す単位(吸収線量)で、一レントゲン/時の照射線量率のときの空気の吸収線量率は、〇・〇〇八七グレイ/時である。空気の吸収線量率が一グレイ/時の場所に人がいるとき、その人が受ける吸収線量率は、組成が違うことと人体そのものでの遮蔽効果があるため、空気の吸収線量率とは少々異なる。本稿では、(一空気中グレイ)=(〇・八二人体中グレイ)とした。シーベルトという単位は、同じグレイ数の被曝を受けても、放射線の種類によって効果が違うことを補正するために導入された被曝線量であるが、本稿の範囲では、一人体グレイ=一シーベルトと考えて差し支えない。なお、旧単位の被曝線量との関係は、一グレイ=一〇〇ラド、一シーベルト=一〇〇レムである。

文献

1."Summary of the Conference Results", Joint Secritariat of the EC/IAEA/WHO   International Conference, 8-12 April 1996.

2.今中哲二、「放射能汚染と被災者たち(1)〜(4)」、技術と人間、  1992年5〜8月号.

3.L.A. Il'in and O.A. Pavlovski, IAEA-CN-48 Vol.3 pp.149-66, 1988.

4.USSR State Committee on the Utilization of Atomic Power, Aug. 1986.

5.七沢潔、「原子力事故を問う」、岩波新書、1996年.

6.I.K. Bailiff and V. Stepanenko, "Retrospective Dosimetry and Dose Reconstruction",  ECP-10, European Commission, EUR 16540, 1996.

7.ヤロシンスカヤ、「暴かれたチェルノブイリ秘密議事録」、技術と人間、  1992年9月号.

8.ルパンディン、「隠れた犠牲者たち」、技術と人間、1993年4月号.

9.V.M. Chernousenko, "Chernobyl: Insight from the Inside", Springer-Verlag, 1991.

10.I.A. Likhtarev et.al., Health Physics 66(6) pp.643-52, 1994.

11. Чернобiльiнтерiнформ, БЮЛЕТЕНЬ ЕКОЛОГIЧНОГО СТАНУ ЗОНИ ВIДЧУЖЕННЯ, 1996 No.1.

12. Ю.А. Израэль и др., Метеорология и Гидрология, 1987 No.2.

13. 国際放射線防護委員会の1990年勧告、日本アイソトープ協会、1991年.

14. Е.Ф. Конопля и И.В. Ролевич, "Экологические, медико-биологические и социально-экономические последствия катастрофы на ЧАЭС в Беларуси", 1996.

15. В.С. Репин, "Радиационно-гигиеническое значение источиниов и доз облучения населения 30-km зоны после аварии на ЧАЭС", Институт Медицины Труда АМН Украины, 1996.

16. G.V. Segreev, "Medical and Sanitary Measures Taken to Deal with the Consequences    of the Chernobyl Accident", IAEA-TEC-DOC-516, 1988.