< 技術と人間 一九九七年五月号 >

 チェルノブイリ原発事故によるその後の事故影響

         今中哲二

 


「この大災害の被害者数の評価を最大限に減らすために、後日専門家たちの国際的企みが行われるであろう。この企みのためには、あらゆる国のイデオロギー、経済の論争を越えて、暗黙の共犯が行われよう。原則としてどの国からも独立しているはずの保健に関する国際諸機関は、実際には大国の支配のままになっており、見かけの客観性と中立性を装いながら、大国介入の先兵となろう。この事故はたいしたものではなかったと彼らは結論するであろうが、そうなれば、一体今までの大騒ぎは何だったということになる・・・ソ連の責任者は、キチュトム災害(今中注:一九五七年に南ウラルで発生した核廃棄物爆発事故)の時と同じように、完全沈黙を行ない、すべての情報の凍結を謀ることもできた筈であるとして、西側の専門家がソ連の専門家を責めることも後に起こるかも知れない」

 チェルノブイリ原発事故が発生してからまだ一週間もたたない一九八六年五月一日にこの文章を発表したのは、フランスの物理学者ベラ・ベルベオークであった(1)。今年の四月二六日でチェルノブイリ事故の発生より十一年が経ったが、この十一年間の事態は、ベルベオークの言葉通りに推移し、また推移しつつある(2、3)

 昨年四月、世界各国の原子力行政当局や専門家約一〇〇〇人がウィーンに集まり、原子力開発に関する国際的元締めともいうべきIAEA(国際原子力機関)の本部において、「チェルノブイリ事故から一〇年・事故影響の総括」と題する会議が開かれた。会議の結論のうち、事故による健康影響に関する部分をまとめると以下のようになる(4)

・大量の被曝にともなう急性の放射線障害が、事故時に居合わせた原発職員と消火作業にあたった消防士たちに認められた。その数は、当初二三七人と報告されたが、その後のより正確な診断に基づくと一三四人であった。そのうち二八人が放射線障害により死亡した(その他の死者三人を含め、事故による死者は三一人)。原発周辺の一般住民には急性の放射線障害は一件もなかった。急性障害の時期を生き延びた患者のうち、この一〇年間の間に一四人が死亡した。しかし、彼らの死因と被曝との関連は認められていない。

・ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの被災3ヶ国から、一九九五年末までに約八〇〇件の小児甲状腺ガンが報告されている。ガンの増加傾向、地域分布、年令分布を考えると、甲状腺ガンと事故との間に明らかな相関性が認められ、甲状腺ガン増加の原因は放射性ヨウ素による甲状腺被曝と考えられる。しかし、甲状腺ガンで死亡した子供はわずか三名である。

・汚染地域住民において、甲状腺以外のガンや白血病の増加は認められていない。汚染地域住民七一〇万人に、事故による被曝によって将来八五年間に予測されるガン死の数は六六〇〇件である。この数字は、自然発生のガン死数八七万件に比べ極めて小さく、大規模な疫学的追跡調査によっても、その増加を観察するのは困難である。白血病については、四七〇件が予測されるが、これも自然発生の二万五〇〇〇件に隠れてしまい、その増加を確認すること難しい。

・六〇万から八〇万人が事故処理作業に従事し、そのうち、一九八六年から一九八七年にかけて作業を行った二〇万人が比較的被曝線量の大きいハイリスク集団である。しかし、事故処理作業者においても白血病やガンの増加はこれまでには認められていない。

・汚染地域住民や事故処理作業者の間で、ガンやその他の一般的な病気が増えているとする報告はあるが、それらの報告には一貫性がなく、信頼性を欠いている。

・汚染地域住民では、当局への不信、放射線影響に関する知識不足などから大きな精神的ストレスが認められ、それが健康への悪影響をもたらしている。

 つまり、IAEA会議の結論によると、チェルノブイリ事故の長期的な被曝影響として認められるのは、甲状腺ガンの増加だけであり、その他の影響はあったとしても観察できない程度である。結局、「チェルノブイリ事故は史上最悪の原発事故であったが、周辺住民への健康影響は、致死率の小さい甲状腺ガンは例外として、大したことはなかった。最も健康に悪いのは、放射能を怖がることの精神的ストレスである」ということになる。

 IAEA会議の目的は、この一〇年間いろいろと論議を巻き起こしてきたチェルノブイリ事故影響に関して、各国の行政当局や専門家の間で国際的なコンセンサスを作り上げることにあった。一〇周年会議を開くにあたってIAEAは、「会議の主要な目的の一つは、科学的事実と“神話”や“推測”とを峻別すること」と述べている(5)。IAEAなどの専門家が、何をもって「科学的事実」と認定するかは定かでないが、IAEAをはじめとする国際組織が、十一年前にベルベオークが「予言」したとおり、チェルノブイリ事故の災害の実態ができるだけ表に出ないよう努力を重ねてきたことは確かである。

 本誌先月号では、IAEAによれば神話のひとつであろう、周辺住民における急性の放射線障害の問題について詳しく報告した。今月はその他の“神話”や“推測”をいくつか紹介しながら、チェルノブイリ事故影響の問題をより幅広く検討する。筆者としては、そうした“神話”や“推測”にこそ重要な事実の断片が反映されており、そこに科学的アプローチを試みることが私たちの課題だと考えている。

運転員・消防士の後障害

 IAEA会議では、急性障害の時期を切り抜けた人々のうち、その後の一〇年間に一四人が死亡したが、被曝との関連は認められない、と報告されている。しかし、その死因の内訳は明らかにされてない。急性障害と認定された一三四人から、死亡した二八人を引くと、急性障害生存者の数は一〇六人となる。表1は、その死亡率を、その他のリクビダートル(事故処理作業者を示すロシア語)や日本人男子平均と比べてみたものである。リクビダートル五〇〇人調査とは、後に述べるチェルノブイリ被災者国家登録の追跡方法の有効性をチェックするため、EC・CIS共同研究プロジェクトの中で行われた特別調査である(6)。一三%という急性障害生存者の死亡率がリクビダートルや日本人男性に比べかなり大きな値であることは一目瞭然であろう。一方、急性障害生存者の健康状態を調べている報告によると、骨髄機能の低下や循環器系の指標の悪化といった慢性的な病気傾向が認められている(7、8)。IAEA会議の結論とは違って、急性障害生存者の死因は事故時の被曝と関係している、と考える方がむしろ常識的な判断であろう。

表1 急性障害生存者の事故後10年間の死亡率

 

チェルノブイリ

急性障害生存者

リクビダートル

500人調査

日本人

平均

   

ベラルーシ

ロシア

(35-45才男)

母集団

106 人

494 人

474 人

死亡者数

14 人

5 人

17 人

死亡率

13 %

1.0 %

3.6 %

約2 %

・急性障害者は約10年間のデータ.

・リクビダートルは約7年間のデータ(6).各500人のうち、ベラルーシ、ロシアともに行方不明が4人.ベラルーシの2人、ロシアの22人が国外移住.

・ベラルーシの5人の死因は、心筋梗塞、脳溢血、頭蓋骨折、背骨骨折、ホジキン病.

・ロシアの17人の死因は、自殺4件、ガン2件(胃と咽頭)、内蔵出血死2件、脳挫傷2件、大腸結節腫、一酸化炭素中毒、自動車事故、虚血性心疾患、心不全、死因不明2件.

・日本人男子は1986年の人口動態統計に基づく10年間の死亡率.

 放射線影響に関するこれまでの既成概念に基づくと、急性障害からは三〜六ヶ月で回復して(健康体に戻り)、その後に現われるのは、ガン・白血病といった晩発的影響ということになっている。チェルノブイリ急性障害生存者のデータは、急性障害期以降の慢性的な健康状態の悪化、つまり「被曝にともなう慢性的影響」を示唆しており、放射線影響に関するこれまでの既成概念に変更を迫るものである。

 ちなみに、被曝影響に関する知見を得る上で、これまで最も大きな役割を果たしてきたデータは、日本の放射線影響研究所(旧ABCC)が行ってきた、広島・長崎の被爆生存者約十一万人を対象とする追跡調査である。しかし、この調査集団において、戸籍に基づく死亡調査の開始時点は一九五〇年一〇月であり、大規模な健康診断による調査が始まったのは一九五八年からに過ぎない。つまり、原爆投下から、死亡調査で五年間、健康調査では一三年間のブランクが存在している。広島・長崎市民の体験からは、「原爆ぶらぶら病」といった慢性的影響が知られているが、こうした後遺症は、科学的な調査からはすっぽり抜け落ちてきたことを指摘しておきたい。

チェルノブイリ被災者登録

 チェルノブイリに限らず、放射線被曝にともなう人間集団への長期的な健康影響を明らかにする最も有力な手段は、疫学的追跡調査である。旧ソ連政府は、事故の翌年から被災者の全ソ登録に着手し、一九九二年のソ連崩壊時には、事故処理作業者や汚染地住民など約六六万人の登録が完了していた。ソ連崩壊にともない、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ各国がそれぞれ独自にチェルノブイリ国家登録を運営することになった。表2に各国の国家登録の概要を示す。追跡調査から有効な知見を引き出すためには、「被曝線量」と「健康指標」という二つの量を明らかにする必要がある。しかし、数十万人もの集団を対象に、個々人の被曝線量を推定し、定期的に検診を実施するという作業が並大抵のことでないことは容易に想像がつく。

表2 各国のチェルノブイリ被災者国家登録の概要

 

ウクライナ

(SRU登録)

ロシア

(RNMDR登録)

ベラルーシ

(National登録)

総登録者数(人)

(集計時点)

474,095

(96.1.1)

435,276

(95.9.1)

204,982

(95.1.1)

<内訳>      
A: リクビダートル

184,672

152,325

53,192

B: 避難・移住民

62,711

12,889

約1万*

C: 汚染地域住民

189,518

251,246

約9万*

D: A-Cから生まれた子供

37,194

18,816

・ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、それぞれ文献9、10、11に基づく.

・ベラルーシの*は、今中の個人情報で補足.

 ここではまず、被災者集団のうち比較的まとまったデータが報告されている、リクビダートルの調査結果を見てみよう。調査対象集団の概要を表3に示す。被曝線量については、ウクライナで約四割、ベラルーシでは四分の三の人々で線量記録が得られていない。良く知られているように、事故直後には放射線測定器が不十分で、多くの作業が測定器なしで行われた。また、二五レントゲンという被曝限度値が定められていたものの、それを越える被曝がしばしばあったようだ。表4は、ウクライナのリクビダートルについての線量記録の分布である。記録された線量の分布からは、一九八六―八七年の作業者の線量が、それ以降の作業者よりかなり大きかったことが窺える。リクビダートルが受けた被曝線量の再評価に取り組んでいるウクライナ当局の報告によると、一九八六―八七年のリクビダートルのうち二五〇ミリシーベルトを越えたものが一五%で、その半分が五〇〇ミリシーベルトを越えていると述べている(9)。この数字に基づいて、一九八六―八七年の作業者のうち五〇〇ミリシーベルト以上を受けた割合を七・五%とすると、線量記録での分布の約四〇倍となり、約一万人にも達することになる。

表3 各国家登録でのリクビダートル集団

 

ウクライナ

ロシア

ベラルーシ

基本調査集団

174,812 人

143,032 人

45,674 人

線量記録あり

59 %

80 %

26 %

平均線量記録

160 ミリシーベルト

107 ミリシーベルト

57 ミリシーベルト

・基本調査集団とは、登録された人々のうち作業の時期や場所が明らかで追跡調査の対象になっている人々.

・ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、それぞれ文献12、10、13に基づく.

表4 ウクライナのリクビダートルの線量記録分布(12)

 

総人数

外部被曝線量範囲(ミリシーベルト)

 

(割合)

記録なし

<50

50-99

100-249

250-500

>500

86-87年の作業者

135,800人

100 %

65,300

48.1 %

8,000

5.9 %

20,900

15.4 %

34,100

25.1 %

7,300

5.4 %

270

0.20 %

88-90年の作業者

39,000人

100 %

6,600

17.0 %

26,200

67.2 %

5,500

14.2 %

510

1.3 %

90

0.23 %

0

0 %

 先に表1に示したリクビダートル五〇〇人調査は、ベラルーシとロシアの国家登録の追跡方法の有効性を調べるため、登録されている事故処理作業者五〇〇名を無作為に抽出し、彼らの現況把握が可能かどうかを特別に調査したものである(6)。五〇〇人中の行方不明者は、ベラルーシ、ロシアとも四人であった。ともに九九・二%の把握率となり、一見極めて優秀な成績である。しかし、この把握率は、国家登録の通常の枠を越えて、パスポート管理局への問い合わせなど対象者追跡のために特別な努力を払った結果である。国家登録の一環として実施されている定期検診に基づいて現況が把握されたのは、ロシア五九・八%、ベラルーシ二七・六%である。このデータを逆に考えると、登録されているリクビダートルのうち定期的に検診を受けているのは、ロシアで六割、ベラルーシで三割と考えることができよう。

 以上のように、各国の国家登録は、被曝線量と現況調査方法ともに問題を抱えている。しかし、人間集団を対象とする調査である以上、それなりの限界をともなうのは疫学的追跡調査の宿命である。肝心なことは、その限界を承知の上で、調査結果からできるだけ有効な知見を引き出すことである。その意味で、各国の国家登録はチェルノブイリ事故影響を考えるにあたって貴重なデータを提供し始めている。

 表5は、ロシアのリクビダートルの罹病率を一般集団と比較した一九九三年のデータである。「当然」のことながら、リクビダートルの罹病率は一般集団よりかなり大きい。ここで「当然」とつけたのは、リクビダートルは一般の人に比べ検診を受ける機会が多く、その結果罹病率も「見かけ上」大きくなると考えられるからである。また、年令構成が違うことも比較を困難にしている。つまり、表5は、リクビダートルの健康状況の一般傾向を示してはいるものの、事故影響について結論的なことを述べるのは困難なデータと言えよう。表からはとりあえず、リクビダートルに多そうな病気として、内分泌系、精神系、循環器系、消化器系の疾患が認められる。

表5 ロシアのリクビダートルの罹病率(10)

    (1993年、10万人当り)

 

ロシア全人口

リクビダートル

 

B/A

腫瘍

    788

   747

  0.9

悪性腫瘍*

    140

   233

  1.6

内分泌系疾患

    327

  6,036

 18.4

血液・造血系疾患

     94

   339

  3.6

精神疾患

    599

  5,743

  9.6

循環器系疾患

 1,472

 6,306

  4.3

消化器系疾患

  2,635

 9,739

  3.7

全ての疾患合計

 50,785

75,606

  1.5

*:悪性腫瘍については年令分布の補正を実施した値.

 表6は、リクビダートルを線量記録別にグループ分けし内部比較したデータである。こちらのデータについては、検診機会の違い、年令構成の違いといった問題は当面無視できるであろう。また、線量記録の確かさについては、問題はあるものの、グループを相対的に比較するにあたってはそれなりの目安としては使えると考えられる。高線量グループで有意な増加が認められているのは、内分泌系、血液・造血系および循環器系の疾患である。先に述べたように、急性障害生存者においても、血液・造血系や循環器系について慢性的な悪化傾向が認められており、リクビダートルにおける病気の増加と急性障害生存者における慢性的影響とは、「被曝にともなう慢性的影響」として連続したものとして考えるべきことが示唆される。

表6 ロシアのリクビダートルの線量記録別罹病率(10)

     (1993年、10万人当り)

 

線量記録範囲(ミリシーベルト)

 

0−50

50−200

200以上

腫瘍

    690     648     747

悪性腫瘍

    217     232     225

内分泌系疾患

   5,270    6,120*    6,075*

血液・造血系疾患

    213     354*     450*

精神疾患

   5,178    5,490    5,472

循環器系疾患

   5,287    6,090*    6,648**

消化器系疾患

   9,106    9,743    9,515

全ての疾患合計

  69,831   75,346*   75,785*

*:0.1%の統計的有意水準で、0-50グループに比べ罹病率が大きい.

**:1%の統計的有意水準で、50-200グループに比べ罹病率が大きい.

 リクビダートルの白血病については、ウクライナで一九八七〜九二年の間に八六件の白血病が確認されている。表7は、その白血病発生率を、一九八六年の作業者と一九八七年以降の作業者で比べたものである。表4の線量記録分布が示しているように、一九八六年の作業者の被曝線量は、それ以降に比べかなり大きかったと考えられる。表7では、その一九八六年の作業者の方に大きな白血病発生率が認められる。ベラルーシのリクビダートルについても、一九九三〜九四年の二年間のデータでは、一般の人々に比べて白血病が増加し(一〇万人当り二三・三件対一〇・七件)、また作業に三〇日以上従事した人たちと三〇日以内を比べると、三〇日以上の方が大きい(一〇万人当り四三・二件対一五・八件)というデータが報告されている(14)

表7 ウクライナのリクビダートルにおける白血病発生率(12)

年度

発生率(10万人当り)

 

1986年の作業者

1987年の作業者

1987

13.33 ± 4.71

-

1988

6.42 ± 3.21

6.32 ± 4.47

1989

14.06 ± 4.69

4.41 ± 3.12

1990

14.50 ± 4.59

5.32 ± 3.07

1991

18.13 ± 4.84

7.74 ± 3.46

1992

12.59 ± 3.98

12.02 ± 4.25

Total

13.35 ± 1.80

7.04 ± 1.57

 リクビダートルのデータで最も驚かされるのは、図1に示したように、何らかの慢性的疾病により労働不能と認定される人の割合が急激に増加していることである。リクビダートルの平均年令は事故時に三〇―三五才程度であり、年令とともに慢性病が増えるのは当然であるが、図1の増加は到底それで説明できるものではない。ロシアのデータでは、作業時期との相関も明らかで、被曝線量と関連していることも窺われる。いずれにせよ、図のような増加を被曝影響として説明するためには、被曝にともなう慢性的病気の増加という考え方を導入する必要がある。一方、従来の知見にこだわる人々からは、「労働不能」と認定されることで得られる年金や特典が増加の原因であるといった“推測”が出てくるかも知れない。

図1 ロシアとウクライナのリクビダートルにおいて労働不能と認定された人の割合(15、12)

汚染地域の人々への健康影響

 一九九一年五月、ウィーンのIAEA本部において、旧ソ連政府の依頼を受けて一年間チェルノブイリ事故影響の調査を行った「国際チェルノブイリプロジェクト」の報告会が開かれた。報告会で、ベラルーシやウクライナの代表は、汚染地域で子供の甲状腺ガンをはじめとして深刻な事故影響が現われていると主張したが、彼らの主張は“神話”や“推測”に過ぎないとして無視された(16)。しかし、その後のデータとともに、IAEAの専門家たちも、甲状腺ガンの増加が“科学的事実”として否定できないことを認めざるを得なくなった。図2は、被災3ヶ国における子供の甲状腺ガン増加の様子を示したものである。甲状腺ガンの増加は、もちろん大人においても認められており、ベラルーシのデータを図3に示しておく。甲状腺ガン増加の数そのものは、子供よりむしろ大人の方が多い。事故時の子供たちがこれから大人になるにつれ、小児甲状腺ガンの数は減って行くであろうが、チェルノブイリ汚染地域における住民全体での甲状腺ガンの増加は、少なくとも今後数一〇年間は続くであろうと考えられている。ベラルーシ科学アカデミー・化学物理問題研究所のマリコは、チェルノブイリ事故による甲状腺ガンの総数について独自の評価を行い、被災3ヶ国合計で約三万八〇〇〇件に達するであろうと予測している(20)

 図2 被災3ヶ国における子供の甲状腺ガン発生数(17、18)

   ロシア2州とは、ブリャンスク州とカルーガ州.

   子供の年令はウクライナは0-19才.ベラルーシとロシアは0-14才.

図3 ベラルーシにおける大人の甲状腺ガン発生数(19)

 ベラルーシの国家登録には、約三万四〇〇〇人の子供たちが含まれている。事故直後に原発周辺から避難した子供たちと汚染地域に居住し続けている子供たちなどである。表8に示すように、国家登録された子供たちの健康状態は、ベラルーシ全体に比べて大幅な悪化が認められている。表5のリクビダートルのデータでも指摘したように、比較対照集団の適切性の問題があるので、罹病率の違いが事故の影響を示しているとは、表8のデータからは結論できない。しかし、データをながめると、内分泌系、血液系、循環器系といった、リクビダートルの場合と共通した疾患で、罹病率の増加が認められる。

表8 ベラルーシ国家登録の子供の罹病率(21)

     (1992年、1000人当り)

病気の種類

登録された子供

ベラルーシ全体

A/B

腫瘍全体

4.08

1.75

2.3

 うち 悪性腫瘍

1.84

0.35

5.3

  甲状腺ガン

0.82

0.05

16
内分泌・免疫系疾患

133.78

33.66

4.0

血液系疾患

56.46

12.00

4.7

循環器系疾患

39.58

12.92

3.1

耳咽喉系疾患

95.89

19.47

4.9

消化器系疾患

162.91

125.84

1.3

精神系疾患

27.64

24.49

1.1

 一方、WHO(世界保健機構)は、チェルノブイリ健康影響調査国際プログラム(IPHECA)において、ベラルーシの汚染地域と非汚染地域での子供たちの健康調査を実施している。実施に先だって、診断方法や記録フォーマットといった作業プロトコル(手順)が共通化された、疫学的には洗練された調査である。その調査結果から、子供たちの健康指標の分布を図4に示す。健康と認められる子供の割合は、ビテプスク州の非汚染地域では五六%であるのに比べ、ゴメリ州とモギリョフ州の汚染地域では、それぞれ一七%と一二%であり、非汚染地域に比べ汚染地域の子供たちの健康状態が極めて悪いことを示している。汚染地域の子供たちで増加している病気は、内分泌系、消化器系、神経・感覚器系、といった疾患である。子供たちの健康悪化の原因としてまず考えられるのは、放射能汚染にともなう被曝影響であるが、今の段階で被曝影響と断定するには「見せかけ要因」に関する情報が不足している。つまり、子供たちの健康状態には、食料事情を含めた生活条件や経済状態の変化とか、また、IAEAなどが指摘するように、精神的ストレスといった要因も関係するであろう。しかし、事故影響に関する別の視点、つまり、生活条件の悪化や精神的ストレスもひっくるめて事故の影響であると考える視点からは、図4に認められる子供たちの健康状態の全般的悪化は、チェルノブイリ事故の影響そのものを示していると言えよう。

図4 ベラルーシにおける子供の健康度調査(22)

   健康度指標:第1度は、すべての指標にてらし健康上問題ない子供.

   第2度は、機能上の問題が認められ、慢性病にかかり易い子供.

   第3度〜第5度は、慢性病が認められる子供.

 IAEAなどが“神話”や“推測”として無視したり見逃したりしているデータは、この他にも多々あるが、ここでは後二つほど示しておく。ベラルーシでは、事故前の一九七〇年代から共和国規模でのガン登録制度が実施されている。表9は、そのガン登録に基づく、ゴメリ州とモギリョフ州汚染地域での事故前後九年間ずつのガン発生率である。ゴメリ州では汚染レベルとともにガン発生率の増加が認められるが、モギリョフ州での増加ははっきりしない。表10は、ベラルーシの人工流産胎児における先天的障害に関するデータで、汚染地域において先天性障害の増加が認められている。この調査プログラムも、チェルノブイリ事故以前の一九八〇年から共和国規模で実施されていたものであり、示されているデータの信頼性は大きいものである。

表9 ベラルーシの汚染地域におけるガン発生率:事故前と事故後(11)

     (年間10万人当り)

1平方km当り

ゴメリ州の汚染地域

モギリョフ州の汚染地域

のセシウム137

汚染レベル

事故前

1977-1985年

事故後

1986ー1994年

事故前

1977ー1985年

事故後

1986ー1994年

15キュリー以上

194.6±8.6 304.1±16.5*,! 221.0± 8.6 303.9± 5.1*

5-15キュリー

176.9±9.0 248.4±12.5* 241.8±15.4 334.6±12.2*

5キュリー以下

181.0±6.7 238.0±26.8 248.8±14.5 306.2±18.0*

・*印は事故前に比べて有意な増加.!印は5キュリー以下に比べて有意な増加を示す.

 

表10 ベラルーシの人工流産胎児に観察された先天性障害(11)

 

ミンスク市

汚染地域10地区

 

1980-85年

86年後半-94年

86年後半-94年

観察件数

10,168

17,477

2,595

先天性障害の頻度(%)

5.6±0.3

4.7±0.2

7.4±0.8*

*:ミンスク市に比べ統計的に有意に増加.

 

放射線影響に関する新たな考え方

 IAEAなどの専門家が、本稿でのべた来たようなデータを“神話”や“推測”として一蹴する根拠の一つは、「周辺住民やリクビダートルにおいて白血病の増加が認められていない」ということである。広島・長崎データをはじめ、多くの疫学データで白血病の増加が観察されており、まず白血病が増える、というのが被曝影響に関する常識になっているからである。リクビダートルの間での白血病の増加がすでに報告されていることは本稿で紹介した。汚染地住民の白血病については、筆者の探した限りでは、たしかに事故影響を明確に示しているようなデータは見あたらない。しかし、表11に示すように、汚染地住民の白血病が事故前に比べ増えていることも確かである。ただ、比較対照地域においても、汚染地域に負けず劣らずの増加が認めれており、被曝の影響がその他の増加原因の影響の中に埋もれてしまっている可能性が大きい。チェルノブイリの事故影響においては、まず甲状腺ガンの増加が確認されたことは象徴的である。つまり、被曝の様式、被曝した集団が違っていれば、影響の現れ方も異なってくるということを物語っている。事故影響としての白血病の増加が周辺住民においてこれからも観察されない可能性はあるが、そのことが、本稿で紹介したデータの意義を否定するものではないであろう。

表11 ロシア・ブリャンスク州における白血病等の造血器系疾患発生率(22)

             10万人当り年間発生率、()内は期間の件数

 

1979-85年

1986-90年

1991-93年

急性リンパ性白血病:      

汚染地域6地区

0.56±0.17(11)

1.55±0.34(21)

1.33±0.42(10)

ブリャンスク市

0.48±0.12(14)

1.59±0.26(37)

1.86±0.36(27)

その他の地区

0.70±0.11(38)

1.14±0.18(42)

2.56±0.34(56)

白血病等合計:      

汚染地域6地区

10.54±0.73(209)

12.79±0.97(173)

15.43±1.43(116)

ブリャンスク市

12.79±0.65(387)

18.73±0.90(437)

18.22±1.12(265)

その他の地区

11.24±0.46(610)

13.17±0.60(485)

19.23±0.94(421)

 IAEAなどが依拠するもう一つの根拠は、「被曝にともなう慢性的影響といった考え方は放射線影響の教科書には含まれていない」ということである。しかし、むしろ教科書の方が改められるべきことを、チェルノブイリ事故影響そのものが示している。これまで紹介してきたようなチェルノブイリ事故の健康影響を説明する方法は、「被曝にともなう慢性的障害」という概念を取り入れるか、精神的ストレスがすべての病気の原因であるとしてしまうかのどちらかであろう。

 一方、ロシアの放射線生物学者ブルラコーワは、放射線影響の現れ方について極めて興味深い説を提唱している(23)。彼女の説によると、低線量域と高線量域の被曝では、効果が現れるメカニズムが全く違っており、放射線被曝にともなう「線量―効果」の関係を図示すると、低線量(数一〇ミリシーベルト)でピークを示した後に、いったん減少して、それから再び効果が増加する(詳しくは山本定明氏の本号別稿参照)。つまり、低線量被曝の影響は、中間的な線量での被曝影響より、むしろずっと大きくなると主張している。ブルラコーワの考え方は、汚染地域の子供たちの健康悪化を被曝影響として説明する場合の重要な理論になりうるものであろう。

 

 以上、チェルノブイリ事故について、事故影響研究の現状と論点についてまとめてみた。本稿で述べてきたように、リクビダートルや汚染地域住民の健康状態が悪化しつつあることは明らかであるが、多くのデータがまだ不十分な側面をもっており、チェルノブイリ事故影響の解明に向けて、いっそうの調査の進展が期待される。疫学データを相手にすると、何かと煮え切らない議論になりがちであるが、チェルノブイリ事故影響を考える上での本稿が参考になれば幸いである。

 一方、ベラルーシやウクライナの政府にとって、チェルノブイリの問題は、引き続く経済困難の中で、次第にお荷物になりつつあり、被災者への補償や特典の切り下げなどが行われているようだ。事故影響の解明に努力してきた現地の研究者たちをめぐる状況も、政治的にも経済的にも次第に困難になりつつある。その上、ベルベオークが十一年前に予言しているように、チェルノブイリ事故の災害規模をできるだけ小さくみせかけようという国際的努力がこれまで続けられてきたし、これからも続けられようとしていることを改めて指摘しておきたい。

 科学的アプローチがあろうとなかろうと、事実は事実として存在するが、記録がなければ、いずれ事実そのものがなかったことと同じになってしまう。筆者として、チェルノブイリの問題にしつこく係わらざるを得ない所以である。

 付記:本稿は、一九九六年度トヨタ財団助成研究「ロシア、ベラルーシ、ウクライナにおけるチェルノブイリ原発事故影響研究と被災者救援活動の現状に関する調査研究」の一環としてまとめたものである。

                  (いまなかてつじ・京都大学原子炉実験所)

 


 

(1) ベラ・ベルベオーク、ロジェ・ベルベオーク(桜井醇児訳)、「チェルノブイリの惨事」、緑風出版、一九九四年

(2) 今中哲二、「その後のチェルノブイリ」、技術と人間、一九九五年四月号

(3) 今中哲二、「チェルノブイリ事故10年」、世界、一九九六年六月号

(4) "Summary of the Conference Results", Joint Secretariat of the EC/IAEA/WHO Conference, 8-12 April 1996

(5) IAEA News Brief No. 1/1995

(6) "Epidemiological investigations including dose assessment and dose reconstruction", ECP-7 report of EC/CIS international scientific collaboration, EUR 16537 EN (1996)

(7) D. Belyi et.al., "Cardiovascular System and Physical Working Capacity in Patients Who Had Acute Radiation Syndromes as the Result of Chernobyl Accident", Proceedings of the EC/CIS conference, EUR 16544 EN, p.663-6 (1996)

(8) V. Klimenko et.al., "The Hematopoietic System of the Acute Radiation Syndrome Reconvalescents in Post-Accidental Period", ibid., p.637-9 (1996)

(9) Chernobyl Ministry of Ukraine, "Ten Years after the Chernobyl Accident: National Report", 1996 (in Russian)

(10) V. Ivanov, "Health status and follow-up of liquidators in Russia", EUR 16544 EN p.861-70 (1996)

(11) Belarussian Ministry of Emergency and Chernobyl, "Ecological, Medical-Biological and Social-Economical Consequences of the Catastrophe at the Chernobyl NPP in Belarus", 1996

(12) V. Buzunov et.al., "Chernobyl NPP Accident Consequences Cleaning Up Participants in Ukraine Health Status Epidemiological Study Main Results", EUR 16544 EN, p.871-8 (1996)

(13) A.E. Okeanov et.al., "Health status and follow-up data of the liquidators in Belarus", ibid., 0.851-9 (1996)

(14) A.E. Okeanov and S.M. Polyakov, "Oncology Morbidity Risk among Liquidators", Extended Synopses of the International Conference: One Decade after Chernobyl, CN-63/44, Vienna, April 8-12 1996 (in Russian)

(15) V.K. Ivanov and A.F. Tsyb, "A Radiation and Epidemiological Analysis of the Aftereffects of the Chernobyl Accident As Based on the Data of the Russian State Medical Dosimetric Registry", Consequences of the Chernobyl Catastrophe: Human Health, Center for Russian Environmental Policy, Moscow, p.10-22 (1996)

(16) 今中哲二訳、「IAEA報告への反論」、技術と人間、一九九二年九月号

(17) D.M. Grodzinsky, "General Situation in Ukraine of the Radiological Consequences of the Chernobyl Accident", 1996年度トヨタ財団助成研究報告(準備中).

(18) WHO, "Health Consequences of the Chernobyl Accident" Summary report of the IPHECA Program (1995)95年については、ベラルーシはミンスク在住菅谷医師からの私信(ちなみに96年は84件)、ロシアは内山正史「原安協主催チェルノブイル原子力発電所事故後影響調査に関する成果報告会予稿集(一九九七年二月).

(19) E.P. Demidchik et.al., "Thyroid cancer in children in Belarus", EUR 16544 EN, p.677-82 (1996)

(20) M.V. Malko, "Assessment of the Chernobyl Radiological Consequences", 1995年度トヨタ財団助成研究報告(1996

(21) A. Okeanov et.al., "Health Status of Children Included into Belarussian State Registry of the Irradiated in the Result of Chernobyl Accident", Proceedings of Belarus-Japan Symposium, October 3-5 1994 p.345-50

(22) WHO, "Medical Consequences of the Chernobyl Accident", Scientific Report of the IPHECA, 1995 (in Russian)

(23) EBB. Burlakova et.al., "Mechanism of Biological Action of Low-Dose Irradiation", Consequences of the Chernobyl Catastrophe: Human Health, p.117-46 (1996)



今中哲二 「チェルノブイリ原発事故によるその後の事故影響」

(技術と人間1997年5月号)の訂正

 

 上記論文の校了後、IAEA会議のフォーマルなproceedings (ONE DECADE AFTER CHERNOBYL: Summing up the Consequences of the Accident, Proceedings of an International Conference, Vienna, 8-12 April 1996, IAEA STI/PUB/1001) を入手致しました。そのデータに基づき、急性障害生存者のその後の死亡に関する表1を、以下のように訂正致します。急性障害生存者の10年間の死亡率は若干小さくなりますが、全体の論旨には変更の必要はないものと考えています。

<訂正前>

表1 急性障害生存者の事故後10年間の死亡率

 

 

チェルノブイリ

急性障害生存者

 

リクビダートル

500人調査

日本人

平均

ベラルーシ

ロシア

(35-45才男)

母集団

106 人

494 人

474 人

死亡者数

14 人

5 人

17 人

死亡率

13 %

1.0 %

3.6 %

約2 %

・急性障害者は約10年間のデータ.

・リクビダートルは約7年間のデータ(6).各500人のうち、ベラルーシ、ロシアともに行方不明が4人.ベラルーシの2人、ロシアの22人が国外移住.

・ベラルーシの5人の死因は、心筋梗塞、脳溢血、頭蓋骨折、背骨骨折、ホジキン病.

・ロシアの17人の死因は、自殺4件、ガン2件(胃と咽頭)、内蔵出血死2件、脳挫傷2件、大腸結節腫、一酸化炭素中毒、自動車事故、虚血性心疾患、心不全、死因不明2件.

・日本人男子は1986年の人口動態統計に基づく10年間の死亡率.

<訂正後>

表1 急性障害生存者の事故後10年間の死亡率

 

チェルノブイリ

急性障害生存者

リクビダートル

500人調査

日本人

平均

 

グループ1

グループ2

ベラルーシ

ロシア

(35-45才男)

母集団

106 人

103 人

494 人

474 人

死亡者数

9 人

5 人

5 人

17 人

死亡率

8.5 %

4.9 %

1.0 %

3.6 %

約2 %

・急性障害者は約10年間のデータ.グループ1は、急性障害が確定した人々.グループ2は、当初急性障害とされた237人に入っていたが、その後除外された人々.

・急性障害生存者の死因は、グループ1では、冠動脈心疾患3件、脊髄形成異常2件、肺の壊疸、肺結核、肝硬変、脂肪塞栓症.グループ2では、自動車事故、造血不全、脳炎、大腿肉腫、冠動脈心疾患.

・リクビダートルは約7年間のデータ(6).各500人のうち、ベラルーシ、ロシアともに行方不明が4人.ベラルーシの2人、ロシアの22人が国外移住.

・ベラルーシの5人の死因は、心筋梗塞、脳溢血、頭蓋骨折、背骨骨折、ホジキン病.

・ロシアの17人の死因は、自殺4件、ガン2件(胃と咽頭)、内蔵出血死2件、脳挫傷2件、大腸結節腫、一酸化炭素中毒、自動車事故、虚血性心疾患、心不全、死因不明2件.

・日本人男子は1986年の人口動態統計に基づく10年間の死亡率.

1997.5.12 今中哲二