本稿の大部分は、「軍縮問題資料」1997年12月号に掲載されたものである。

チェルノブイリ原発事故から11年

                       今中哲二


 チェルノブイリ原発は、ウクライナの北辺、ベラルーシとの国境沿いに位置している。黒海へそそぐドニエプル河の支流、プリピャチ河の岸辺に1号炉が建設されたのは一九七七年で、4号炉(出力一〇〇万kW)は一九八三年一二月に運転を開始した。チェルノブイリの原発は、ソ連が独自に開発した、RBMK型と呼ばれる原発である。RBMK型原発は、もともと原爆用のプルトニウムを作るために開発された原子炉から発展したもので、世界最初の原子力発電所であるオブニンスク原発(五〇〇〇kW、一九五四)も同様のタイプであった。RBMKとは、ロシア語の「チャンネル式大出力原子炉」の略であるが、その構造からは、黒鉛減速・軽水沸騰冷却・チャンネル管型原子炉と言える。その特徴としては、運転しながらの燃料交換が可能なこと、大出力化が容易なこと、大重量機器が不要なので内陸立地が容易なことなどが上げられる。事故当時のソ連では合計一五基のRBMK型原発が運転中であった。

事故の発生

事故が発生したのは、一九八六年四月二六日未明のことであった。前日より、保守点検のため、運転開始以来はじめての原子炉停止作業が4号炉で進められていた。この運転停止に合わせて、ある電源テストが予定されていた。非常用ポンプの電源として、タービンの慣性回転を利用する電源のテストであった。二六日午前一時二三分、テストが終了し、運転員が原子炉停止のため、制御棒一斉挿入のボタンを押したところ、逆に出力が急上昇し、爆発に至った。目撃者によると、夜空に花火のような火柱が上がったとのことである。

爆発により高温の原子炉構造物が飛散し建屋周辺で火災が発生した。爆発五分後には原発消防隊が現場に駆けつけたと言われている。猛列な放射線の中での彼らの活躍により、建屋の火災は数時間後には鎮火した。しかし、原子炉本体では、黒鉛の火災が続き、結局、約一〇日間にわたって大量の放射能放出が続くことになる。

後に明らかになることだが、RBMK炉は、極端な条件下で制御棒を一斉に挿入すると、原子炉出力が逆に上昇してしまうという設計欠陥をもっていた。また、炉心部の気泡が増えると出力が上昇するという特性をもっており、この二つの弱点があいまって暴走に至ったと考えられている。

爆発にともなう最初の放射能雲は西から北西方向に流され、ベラルーシ南部を通過しバルト海の方向に向かった。四月二七日には、約一〇〇〇km離れたスウェーデンの原発敷地で異常な放射能が検出された。スウェーデン政府の問い合わせを受け、ソ連が事故の発生を公表したのは四月二八日であった。

事故処理と住民避難

事故の第一報がモスクワに入ったのは、二六日午前三時であった。ソ連政府の対応は迅速であった。その日の午後には、モスクワの専門家が現地に到着し、シチェルビナ副首相を議長とする事故処理対策政府委員会が原発に隣接するプリピャチ市に設置された。また、核戦争に備えた装備を持つ陸軍化学部隊に動員命令が下った。

二六日夜の政府委員会では、原子炉の火災を如何にして消すか、周辺住民の避難をどうするか、が議題となった。住民の避難については、侃々諤々の議論があったが、シチェルビナの決断により、翌二七日にプリピャチ市住民を避難させることになった。

四月二七日午後二時、一三〇〇台のバスでプリピャチ市民の避難が始まった。当局が心配していたパニックは起らず、約三時間でプリピャチ市はほぼ無人の町となった。避難民たちは、五〇〜六〇km離れた地区まで運ばれた。三日ほどの避難と聞かされていたが、一一年を過ぎた今もプリピャチはゴーストタウンのままである。プリピャチ市以外の三〇km圏の周辺住民の避難が決定されたのは、五月二日であった。その大部分は農村地帯であり、何万、何十万という家畜が住民と一緒に避難した。多くの人々は、第二次大戦でのドイツ軍侵攻の時の避難を思い出したという。

燃え続ける原子炉火災を消すためには、ヘリコプターから砂・鉛などを投下し、炉心を塞いでしまうという方針が決定された。四月二七日から五月一日にかけて、原子炉上空一〇〇〜二〇〇mから合計五〇〇〇トン以上の資材が投下された。しかし、後の調査では、これらの資材の多くは炉心部に届かず、その多くは周囲に散乱し、結局炉心を封じ込めるのには失敗していたことが明らかになっている。火災鎮火の理由はいまだに不明であるが、炉心の黒鉛が燃え尽きて放射能放出も収まったようである。

六月になり、壊れた原子炉と建屋を丸ごとコンクリートで囲ってしまう「石棺」の工事が始まった。ソ連各地から大量の作業員が動員され、昼夜を分かたぬ突貫工事が行われた。

一九八六年八月ウィーンのIAEA(国際原子力機関)本部で、チェルノブイリ事故に関する専門家会議が開かれ、ソ連政府が事故報告書を提出した。その報告書は、それまでのソ連の秘密主義に比べると、西側専門家が驚くほど大部なものであった。その報告書によると、事故の原因は運転員の数々の規則違反、事故直後に周辺三〇km圏から一三万五〇〇〇人の住民が避難、事故時の運転員や消防士など三一名が事故により死亡したが周辺住民での放射線傷害は皆無、除染作業は順調に進行中、石棺の建設がもうじき終了し、事態はほぼ収束しつつある、というものであった。

西側専門家は、ソ連報告を了承した。その会議の裏では、原子炉の設計欠陥の問題を取り上げないことでIAEAとソ連側の取り引きが行われていた。西側からすれば、チェルノブイリ原発は西側の原発と構造が異なり、またソ連の安全管理が杜撰であった、つまりチェルノブイリ事故はソ連固有の問題であったとしておきたかった。ソ連側としては、運転員に責任を押しつけることで、事故の原因はチェルノブイリ固有の問題であった、としておきたかったのであろう。

当時の私たちは、大陸規模での放射能汚染パターンの解析に取り組んでいたが、このIAEA会議以来、ソ連国内での放射能汚染に関する情報はばったりと出てこなくなった。

石棺は一一月に完成した。チェルノブイリ事故処理と復旧作業は、ソ連の威信がかかった総動員作戦であった。一九九一年八月のクーデターの際に自殺した、アフロメーネフ元帥(事故当時の参謀総長)は、事故から数ヶ月間は戦争のようだった、といっている。

民主化運動の高まりと新たな汚染の判明

ベルリンの壁が崩壊したのは、一九八九年一〇月のことであった。ソ連国内では、ゴルバチョフの提唱するペレストロイカは彼の目指すところの成果を上げていなかったが、共産党独裁のタガはソ連各地でゆるみつつあった。ウクライナやベラルーシではルフ(運動を意味するウクライナ語)やベラルーシ人民戦線といった民族派の政治団体が結成され、放射能汚染対策を求める住民の運動と連携を始めた。汚染地域からは、家畜の異常出産が増えたり、子供の病気が増加している、といった報道がしばしば流れるようになった。汚染地域住民は地方当局に、地方当局は共和国政府に、共和国政府は連邦政府に汚染対策を要求しはじめた。長期的な観点から最も問題となる放射能汚染はセシウム一三七によるものである。セシウム一三七は揮発性が大きいため事故時に放出されやすく、また半減期が三〇年と長いので、長期にわたって汚染地域で被曝をもたらす。一九八九年二月ベラルーシで、チェルノブイリ周辺での詳細な汚染地図が初めて公表された。その地図によると、チェルノブイリ周辺はもちろん、二〇〇〜三〇〇km離れた所にも飛び地のようにセシウム一三七の高汚染地域が広がっていた。

ベラルーシやウクライナと、モスクワ中央との間で、汚染対策の基準をめぐって対立が深まっていた。科学者の間の論争から、共和国政府と連邦政府との対立となった。一九八九年七月、ベラルーシ共和国議会は、汚染地域から新たに一一万人を移住させる決定を行った。連邦政府の対策では、一平方km当り四〇キュリー以上の汚染地域から九〇〇〇人の住民を移住させるはずであったが、ベラルーシ共和国は一五キュリー以上を移住の基準としたのであった。

表にチェルノブイリ事故による被災三ヶ国の汚染面積と住民の数を示しておく。一平方km当り一キュリー以上の汚染面積の合計一四・五万平方kmとは、日本で言えば本州の面積の約六〇%に相当する。移住の対象となる一平方km当り一五キュリー以上の汚染面積一万平方kmは、福井県(四二〇〇平方km)、京都府(四六〇〇)、大阪府(一九〇〇)を合わせた面積とほぼ同じである。

表1 セシウム-137汚染面積(単位:万平方km)

 

セシウム-137汚染レベル(キュリー/平方km)

 

15

515

1540

40以上

1以上合計

ロシア

4.88

0.572

0.21

0.03

5.692

ベラルーシ

2.99

1.02

0.42

0.22

4.650

ウクライナ

3.72

0.32

0.09

0.06

4.190

3カ国合計

11.59

1.912

0.72

0.31

14.532

表2 汚染地域の住民数(1990年、単位:万人)

 

セシウム-137汚染レベル(キュリー/平方km)

 

15

515

1540

40以上

1以上合計

ロシア

188.9

21.8

11.0

0.5

222.2

ベラルーシ

173.4

26.7

9.5

0.9

210.5

ウクライナ

133.5

20.4

3.0

1.9

158.5

3カ国合計

495.8

68.9

23.5

3.3

591.5

 

 国際チェルノブイリプロジェクトとソ連の崩壊

汚染対策の最終責任は連邦政府にあったが、チェルノブイリ事故対策の負担は、それでなくともガタがきていたソ連経済にボディーブローのように効いていたと思われる。汚染対策をめぐる国内の対立で手詰まりに陥った保守派のソ連首相ルイシコフは、一九八九年一〇月、西側専門家に救いを求めることにした。IAEAに、事故による放射線影響の調査と汚染対策の勧告を依頼したのである。一九九〇年春より、西側各国から二〇〇人の専門家が参加し、国際チェルノブイリプロジェクトが始まった。一年をかけて調査が実施され、一九九一年五月、ウィーンのIAEAで報告会が開かれた。プロジェクトの結論はルイシコフの期待通りのものだった。つまり、汚染地域住民において被曝影響と考えられる健康悪化は認められない、放射能を恐れる精神的ストレスが最も悪い、ソ連政府の事故対策は十分すぎるぐらいでもっと甘くしてもよい、というものであった。報告会の席上、ベラルーシやウクライナの代表は、甲状腺ガンをはじめとする汚染地域での病気の増加、免疫機能の低下などを主張し、結論の変更を求めたが、結局無視されてしまった。

一九九一年末のソ連の崩壊は、チェルノブイリ事故対策の様相を一変させることになる。事故の責任を第一に負うべきソ連政府が、広大な放射能汚染を残したまま消えてしまった。事故対策の責任は、当然ながら、独立国家となった各共和国政府が負うことになる。

被災三ヶ国では、事故被災者を救済する法令が制定され、いずれの国においても、セシウム一三七の汚染が一平方km当り四〇キュリー以上は非居住区域、一五〜四〇キュリーは優先的移住区域、五〜一五キュリーは移住権利区域、一〜五キュリーは放射能監視区域とされた。汚染地住民や事故処理作業者に対する社会的保障や特典の制度が整えられ、その財源として、ウクライナでは給料の一九%、ベラルーシでは一八%を勤労者から徴収する特別税がもうけられた。独立当初、ウクライナやベラルーシでのチェルノブイリ対策費は国家予算の約二割に達した。しかし、ソ連崩壊後の経済危機の深刻化とともに、チェルノブイリ事故対策は次第に各国の重荷になりつつあり、救済策の見直しや切り下げの動きが起きている。

甲状腺ガンの急増と10周年会議

一九九二年九月、ベラルーシの汚染地域で小児甲状腺ガンが急増しているという論文が英国のネイチャー誌に掲載された。IAEAなどの専門家は、診断技術が進歩し検診機会が増えればガンが多く見つかるのは当たり前だ、という論理で事故の影響であることを否定しようと試みた。しかし、ウクライナやロシアからも同様の増加が報告されはじめ、データが増えるにつれて、甲状腺ガンの増加が事故による被曝影響であることは否定しがたくなった。

一九九六年四月、IAEAは「チェルノブイリから一〇年・事故影響の総括」というテーマで、事故発生以来三度目の国際会議を開いた。七四ヶ国が参加したこの会議の目的は、いろいろと議論を巻き起こしている事故影響について、各国の行政当局や専門家の間で国際的なコンセンサスを再構築することであった。会議の結論をまとめると、「周辺住民への健康影響は(致死率の小さい甲状腺ガンは例外として)認められない。ガンやその他の一般的な病気が汚染地域住民や事故処理作業者で増えているという報告はあるが、それらの報告は一貫性がなく信頼性を欠いている。チェルノブイリ事故は史上最悪の原発事故であったが、周辺住民への影響は大したことはなかった」というものである。

チェルノブイリ事故の発生以来、IAEAは一貫して事故影響の実態が表に出ないよう努力を続けている。最後に、事故が発生してからまだ原子炉火災が続いているさなかの、一九八六年五月一日に発表された、フランスの物理学者ベルベオークの文章を引用しておく。この一一年余りの事態は、ベルベオークの言葉通りに推移し、また推移しつつある。

「この大災害の被害者数の評価を最大限に減らすために、後日専門家たちの国際的企みが行われるであろう。この企みのためには、あらゆる国のイデオロギー、経済の論争を越えて、暗黙の共犯が行われよう。原則としてどの国からも独立しているはずの保健に関する国際諸機関は、実際には大国の支配のままになっており、見かけの客観性と中立性を装いながら、大国介入の先兵となろう。この事故はたいしたものではなかったと彼らは結論するであろうが、そうなれば、一体今までの大騒ぎは何だったということになる・・・ソ連の責任者は、キチュトム災害(今中注・一九五七年に南ウラルで発生した核廃棄物爆発事故)の時と同じように、完全沈黙を行ない、すべての情報の凍結を謀ることもできた筈であるとして、西側の専門家がソ連の専門家を責めることも後に起こるかも知れない」

      (いまなか てつじ・京都大学原子炉実験所)

参考資料