本稿は「原子力資料情報室通信」No.323(2001年4月)に掲載された.

 

チェルノブイリ原発事故15周年を迎えて

今中哲二
 

 原発大事故が日本で起きたらとんでもない事態になると私たち原子力安全研究グループが警鐘をならしはじめたのは、今から四半世紀以上も前のことであった。当初は机の上の安全論争が中心であったが、1979年3月の米国スリーマイル島事故は、大事故が実際に起こりうることを事実で示した。といっても、スリーマイル島事故は、原発で起こりうる最悪の事態と比較すれば、幸運にもきわめて小規模な被害で収まった。1986年4月に発生したチェルノブイリ事故では、瞬時に原子炉とその建屋が破壊され、膨大な放射能が直接環境に放出されるという、まさに原発で生じうる最悪の事態となった。

「この大災害の被害者数の評価を最大限に減らすために、後日専門家たちの国際的企みが行われるであろう。この企みのためには、あらゆる国のイデオロギー、経済の論争を越えて、暗黙の共犯が行われよう。原則としてどの国からも独立しているはずの保健に関する国際諸機関は、実際には大国の支配のままになっており、見かけの客観性と中立性を装いながら、大国介入の先兵となろう。この事故はたいしたものではなかったと彼らは結論するであろうが、そうなれば、いったい今までの大騒ぎは何だったということになる・・・ソ連の責任者は、キチュトム災害の時と同じように、完全沈黙を行ない、すべての情報の凍結を謀ることもできた筈であるとして、西側の専門家がソ連の専門家を責めることも後に起こるかも知れない」

チェルノブイリ事故が発生してから1週間もたたない1986年5月1日にこの文章を発表したのは、フランスの物理学者ベラ・ベルベオークであった。この15年間、各国行政当局や国際原子力機関(IAEA)などが結託した“国際原子力共同体”は、ベルベオークの言葉通り、ことあるごとに「チェルノブイリ事故は原発開発史上最悪の事故であったが、周辺の人々にもたらした健康被害はたいしたことはなかった」という報告を繰り返してきた。

原子力共同体の見解

 1986年8月にソ連政府がIAEAに提出した事故報告書は、事故のあと始末は順調に進んでおり、破壊された4号炉は「石棺」に封じ込められ、汚染地域の除染活動もはじめられている、他の原子炉はじきに運転を再開するだろう、と述べている。その報告は、ウィーンで開かれた会議で西側専門家により承認された。その一方、ソ連国内ではチェルノブイリ事故に関する情報は極秘扱いとされ、国外へはもちろん、汚染地住民にさえ汚染の実態は知らされなかった。

 そうした状況に変化が起きたのはペレストロイカ末期の1989年頃からである。チェルノブイリから200?300kmも離れた所にまで飛び地のように高濃度の汚染地域が広がっていることが明らかになった(表1)。政府の責任を追及し汚染対策を求める運動は、ソ連国内の民主化運動と相まって、社会的・政治的問題となっていった。苦境にたたされたソ連政府は、西側に助けを求めることにした。IAEAに対し、現地に調査団を派遣して、事故の影響を調査し汚染対策について勧告してくれるよう依頼したのである。IAEAは西側専門家を集めて国際チェルノブイリプロジェクトを組織し、1年間の調査を行いその報告会が1991年5月に開かれた。結論は、周辺住民への健康影響は認められず、ソ連政府の汚染対策は厳しすぎるくらいであり、現状で十分であるというものだった。

表1 被災3ヵ国のセシウム137汚染面積(単位:平方km)

国名
セシウム137の汚染レベル(キュリー/平方km
5
15
15  40
40以上
1以上合計
ロシア
48,800
5,720
2,100
300
56,920
ベラルーシ
29,900
10,200
4,200
2,200
46,500
ウクライナ
37,200
3,200
900
600
41,900
合計
115,900
19,120
7,200
3,100
145,320
各国のチェルノブイリ被災者救済法に基づくと
   ・ 40Ci/km2以上:強制避難ゾーン
   ・ 15〜40Ci/km2:義務的移住ゾーン,
   ・5〜15Ci/km2:希望すれば移住が認められるゾーン,
   ・1〜5Ci/km2:放射能監視が必要なゾーン.
(今中哲二編「チェルノブイリ事故による放射能災害」、技術と人間、1998)

 

 1992年9月ベラルーシの研究者らが、科学雑誌Natureに、ベラルーシで子供の甲状腺ガンが急増しているという論文を発表した。西側専門家からすぐさま、増加は見せかけのもので事故の影響ではない、という反論が寄せられた。しかし、データが増えるとともに、甲状腺ガン増加の原因がチェルノブイリ事故であることは否定しようのないものとなった。チェルノブイリ10周年にあたる1996年の会議でようやくIAEAも、小児甲状腺ガン増加の原因は事故のときに放出された放射性ヨウ素による被曝であると認めるに至った。しかし、小児甲状腺ガン以外の健康影響は、事故処理作業者への影響を含めていっさい認められない、と結論している。

 チェルノブイリ事故で最も大きな被曝を受けたのは、約80万人といわれる事故処理作業者の集団であり、最近彼らの間で白血病やガンさらには循環器系などの疾患が増加しているというデータが発表されている(Ivanovら、Health Physics、1998、2000など)。今年6月にキエフでWHO(世界保健機構)主催の国際会議が予定されており、そこでどのような結論がまとめられるか注目される。「科学的には十分に証明されていない」という言い方が“科学的権威”の常套句であることに留意しておきたい。

周辺住民に1件の急性障害もなかった?

1986年のソ連報告書によると、原発職員や消防士たち約200名に大量の被曝による急性放射線障害が現れたものの、周辺の住民には1件の急性障害もなかったとされている。その後の原子力共同体の報告書は、現在にいたるまで基本的にその見解を踏襲している。放射線防護の専門誌Health Physicsに1994年、避難住民の被曝量に関するウクライナの研究者の論文が掲載された。事故翌日の4月27日に避難したプリピャチ市住民の平均被曝量は0.0115シーベルトで、5月3日から避難をはじめたその他の避難民の平均被曝量は0.0182シーベルトであったと報告されている。急性障害は通常1シーベルト以上の被曝を受けた場合に現われると考えられており、住民の間に1件の急性障害もなかったという原子力共同体の見解は、“科学的評価”によって裏付けられた。

一方、ソ連崩壊直後の1992年4月、旧ソ連最高会議員だったヤロシンスカヤは、チェルノブイリ事故当時のソ連共産党秘密議事録を暴露し、当時の最高権力機関に、事故直後に1万人を越える人々が病院に収容されたり子供を含む住民に急性障害が認められると報告されていたことを明らかにしている。(秘密議事録の訳はhttp://www-j.rri.kyoto-u.ac. jp/NSRG/に順次掲載中)。

図1は、昨年暮れに私が入手した資料から作成した汚染地図で、事故から1カ月余り後の1986年6月1日におけるチェルノブイリ原発周辺の放射線量を示している。私の計算では、1カ月前の5月1日の放射線量は6月1日の値の約10倍となる。図1では、原発北方のウソフ村やクラスノエ村は毎時200ミリレントゲンの線にかかっており、5月1日には毎時2レントゲン前後の放射線量があったことになる。Health Physics論文によるとウソフ村の平均被曝量は0.118シーベルトである。その値は、図1に基づくと、ウソフ村住民が5月1日に野外に5時間あまりも立っていれば浴びてしまう量である。ウソフ村やクラスノエ村をはじめ、1週間以上も放置されていた周辺住民の間にかなりの数の急性障害があったと私は確信している。

テキスト ボックス:

テキスト ボックス: 図1 1986年6月1日の周辺放射線量率. 単位:ミリレントゲン/時.  Kuzbovらの汚染地図(1991)に基づく.

 

“科学的手法”が事実を明らかにする有効な手段であることは確かであるが、時として事実を明らかにしない方便にも使えることを強調しておきたい。

村や町がなくなり地域が消滅した

 以前の私は、チェルノブイリ事故の被害を明らかにする作業とは、事故によってどれくらいの放射能が放出され、人々がどのように被曝しどのような健康被害がもたらされるかを明らかにすることだ、と考えていた。しかしながら、何度かチェルノブイリ現地に行き、見たり聞いたり読んだりするうちに、そうした放射能による直接的な被害は、事故が人々にもたらしたもののほんの一部にすぎない、と考えるようになった。
 チェルノブイリ事故がもたらした被害としてまず第1に指摘したいことは、表1に示したように、福井県、京都府、大阪府を合わせた面積に相当する1万平方kmにも及ぶ広大な土地に人々が住めなくなったことである。事故直後に原発周辺30km圏から約12万人の強制避難が行なわれ、その後明らかになった高汚染地域からも20万以上の人々が移住を余儀なくされた。約500もの村や町がなくなり、40万近くの人々が住み慣れた土地から離れて生活することとなった。地域社会が丸ごと消滅してしまったのである。
チェルノブイリ事故という原子力災害のなによりの特徴は、広大な範囲の地域社会がまるごと消滅してしまったことである。事故の被害を明らかにする第1歩は、故郷をなくしたり汚染地で暮らさざるをえない人々にもたらされた不条理な厄災について考えることである。どれくらい被曝しどのような健康影響がもたらされるかといった“科学的評価”によって被害の全体を解明することができるなどと思いこんでしまうと、原子力災害というものの捉え方を誤ってしまうであろう。

テキスト ボックス:  写真.発電所からプリピャチ市へ通じる陸橋から石棺を望む.事故の日、橋の上に見物人が集まったと言われている(2000年3月28日、高橋昇氏撮影).