本稿は、「原子力資料情報室通信」No.261(1996年2月)に掲載された。 

チェルノブイリ原発事故による小児甲状腺ガン

                     今中哲二

 


 チェルノブイリ周辺の放射能汚染地域で子供の甲状腺ガンが増えているという話を私がはじめて聞いたのは、1990年の夏に同僚の瀬尾と一緒に現地調査へ出かけたときだった。ウクライナ・キエフの小児産婦人科研究所の医師が、汚染地域でそれまでに5件の小児甲状腺ガンが発生したと教えてくれた。WHOの専門家は事故との関係を認めていないが、彼は事故による被曝が原因と考えているとのことだった。

国際チェルノブイリプロジェクト

 ソ連国内の汚染地域のようすが少しずつでも私たちに明らかになりはじめたのは、事故発生から3年たった、1989年の春頃からである。ゴルバチョフ政権下でペレストロイカ路線が行き詰まり、共産党の権威が崩壊するとともに、情報公開や汚染対策を求める運動が各地で広がり始めた。ソビエト連邦を構成するベラルーシやウクライナといった各共和国も汚染対策の強化を連邦政府に求め出した。そうした下からの突き上げに手を焼いたソ連政府は、IAEAに助けを求めることにした。

 ソ連政府の要請を受けたIAEAは、事故による放射線影響と汚染対策の妥当性を調査するため、1990年春から国際チェルノブイリプロジェクトにとりかかった。1991年5月ウィーンで開かれたその報告会の結論は、「汚染地域住民の間にチェルノブイリ事故による放射線影響は認められない。汚染対策はもっと甘くてもよいが、社会状況を考えると現状でやむを得ないであろう」というものだった。報告会で、ベラルーシやウクライナの代表は、汚染地域の住民ではいろいろな病気が増加しており、子供の甲状腺ガンも増加していると主張し、報告書の結論を修正するよう抗議したが、結局は無視されてしまった。

 IAEAによると、汚染地域住民にとって最も悪いのは「放射能恐怖症」による精神的ストレスであり、それをあおっているマスコミや一部の学者がけしからん、ということであった。

小児甲状腺ガンの急増

 1992年9月、ベラルーシでの小児甲状腺ガンの急増を報告するカザコフらの論文がイギリスの科学雑誌ネイチャーに発表された。カザコフ論文とならんで、甲状腺ガンが放射線影響であることを支持するWHOの学者の論文も掲載された。それまでベラルーシやウクライナの学者の主張を無視してきたIAEAなどの国際権威筋も、ネイチャーの論文が出るに及んで無視を決め込むことが出来なくなり反論を始めた。反論の要点は次のようなものである。

1.甲状腺ガンの診断は確かか。

2.甲状腺検診の普及と診断技術の進歩による見かけの増加ではないか。

3.甲状腺の被曝量とガン発生率の相関が示されていない。

4.発生数だけでは議論できない、母集団が固定された疫学的研究が必要である。

5.被曝影響と考えるには潜伏期が短すぎる。

 こうした反論はいずれも、汚染地域で小児甲状腺ガンの増加が観察されていること自体は認めた上で、その原因について放射線被曝以外の可能性を指摘するものである。つまりは、甲状腺ガンの増加そのものを否定する反論というより、データに対する疑問、イチャモンに過ぎない。

甲状腺ガンは被曝影響

 カザコフ論文は世界の原子力関係者にセンセーションを起こしたが、その後のデータとともに、甲状腺ガンを被曝影響とすることに対する反論は次第に弱くなって行った。上記1については、WHOや日本などの専門医によって確認されており、すでに疑問の余地はない。2については、検診普及と技術進歩の効果を定量的に評価するのは困難であるが、同じ汚染地域の子供でも、事故後に生まれた、放射性ヨウ素による甲状腺被曝を受けていない子供において甲状腺ガンがほとんど観察されてないことを指摘しておく。3については、ベラルーシでは汚染の大きいゴメリ州での甲状腺ガンが最も大きく、ウクライナのデータにおいても、同様の傾向が示されている。4については、旧ソ連諸国の医療体制はピラミッド型になっており、ベラルーシについて言えば、甲状腺ガンの子供はすべてミンスクの甲状腺ガンセンターで治療を受ける仕組みになっている。観察されたガンの数に対しては、州全体の子供、国全体の子供を母集団と考えてよい。5は、専門的には最も興味深い点である。広島・長崎での被爆者追跡データなどを基にこれまで、放射線被曝によるガン発生には、白血病は別として、10年余りの潜伏期間があると考えられてきた。チェルノブイリの小児甲状腺ガンは、事故後4年目から急増を示しており、これまでの知見よりかなり短い。この点については、被曝集団が数100万人と大きいため、ガン増加の立ち上がりが早く観察されやすいこと、風土的にヨウ素不足地帯であり、ガン誘発の感受性が大きい集団である可能性などが指摘されている。

 いずれにせよ、チェルノブイリ周辺での甲状腺ガン増加の第1の原因が、事故にともなう放射線被曝であることは疑いようのない段階に至っている。1995年11月にジュネーブで開かれたWHOの会議では図のようなデータが報告され、これまではっきりしなかったロシアの汚染地域(ブリャンスクとカルーガの2州)においても甲状腺ガンの増加が確認されている。

 

 これまでチェルノブイリ救援団体とともにベラルーシの子供たちの甲状腺ガン治療を行ってきた信州大学医学部の菅谷先生が、治療に専念するため、この2月からミンスクに移られた。私などとは係わり方は違うものの、けれんみのない人柄の氏の活躍を期待するとともに、私なりの立場で精一杯のことを志すことでもって、氏へのエールとして行きたい。

     チェルノブイリ事故被災3ヶ国における小児甲状腺ガン発生数

      Health Consequences of the Chernobyl Accident, Summary Report(WHO 1995)より作成