本稿は、週刊金曜日 2000年4月28日(313号)に掲載された.
15年目のチェルノブイリ:
死屍累々と横たわる事故処理の「残骸」
小村浩夫

 またチェルノブイリ・カタストロフ(破局)の日が巡ってきた。事故はもう一四年前のことになるが、この事故の深刻さを思い起こす機会がこの三月やっと私に与えられた。研究者やジャーナリスト一行のツアーの一員として、チェルノブイリ原発の三〇キロメートル圏に入り、原発を訪ねることができた。

放射能で汚染された巨大ヘリ、装甲車

 道路際に新しく植樹された背の低い若木が目につくが、行き交う車もほとんどなく人気のまばらなチェルノブイリ周辺の景色はもの寂しい。日陰の水は凍り、春はまだ来ていなかった。いまだに圏内に居住あるいは通勤しながら働いている人たち、実感として感じた石棺の不気味さ、人気のないプリヤピチ(元原発労働者の町)のアパート群や遊園地、住民が去り打ち捨てられた民家の荒廃。

 最も強烈なショックを受けたのが、圏内にある「残骸置き場」だ。原発の南二五キロメートルにある。事故処理に使われ、放射能で汚染され、どこにも持って行けなくなったヘリコプターや車両が一箇所に集められ、所狭しと置かれている。錆びついた巨大なヘリコプター(数十機)、消防車、ブルドーザー、装甲車(というより無限軌道の付いた本格的な戦車)、トラックがまさに死屍累々と横たわる。その数、約二〇〇〇はあるだろう。赤い星をつけたヘリコプターは私達が日頃目にするものにくらべ、ひとまわりもふたまわりも大きい。傘状に垂れ下がったローターも巨大なお化けのような代物で、ほんとに飛べるのだろうかと思ってしまうほどの大きな図体だ。損壊した炉を覆って事故を終息させるため、上空から鉛やほう素、ドロマイト、砂、粘土を投下するのに使われたものだ。全部で約五〇〇〇トンの材料が投下されたのだから、ヘリの巨大さ、機数の多さも当然と思える。装甲車は汚染された表土を除去するブルドーザーとして使われた。日本のものに比べると少し小さめの消防車は、黒鉛火災の消火のため現場で活動し、逝った消防士のことを思い起こさせる。
 
 ゲートを開けてもらい、私達は有刺鉄線で囲っただけの置き場に入った。マイクロバスが残骸のなかをゆっくりと巡っていくにつれ、溜息が出てくる。ほとんどの車両の「エンジンだけ」が 外されているのはどうしたわけだろう。もったいないので他に転用したのか。まさかそんなことはあるまい。一箇所でバスを止め、外へ出てみた。間近で見ておきたいのと、写真を撮るためである。しかし外を歩き回るのは気がひける。土も汚染されているのだから、汚染をバスに持ち込み、置き場の外に持ち出したくはない。何枚か写真を撮り、靴に付着した砂をはたいて早々にバスに帰った。

 こと放射能がからむ限り、大事故に伴う広範な地域の居住制限や立ち入り制限が現実化するのは避けられないから、日本での潜在的な大事故の可能性と国土の狭さを想うと安閑とはしていられない。チェルノブイリでの設定は二重になっていて、まず三〇キロメートル圏、そのなかに一〇キロメートル圏がありそれぞれゲートでチェックを受ける。それ以外にナロージチのように三〇キロメートル圏外でも、汚染のひどかった町はやはり隔離されている。外国人の入域には事前の許可が要る。ウクライナ人ももちろん例外ではなく、私達のバスの運転手はゲート前で民警、兵士に身分証明書を提示していた。

 立ち入り禁止区域の設定はチェルノブイリが初めてではない。一九五七年、南ウラル、スヴェルドルフスク近くのキシュチュムで起きたいわゆる「ウラルの核惨事」でも禁止区域が設定されている。今回会う機会が持てたアルヒーホフ博士(チェルノブイリ国際科学技術センター)は前任地がキシュチュムだったそうだが、彼からもキシュチュムでも事故後禁止区域が設定され、いまも解除されていないことを確かめることができた。

地震に事故原因求める主張の持つ「危うさ」

 ここ数年、チェルノブイリ事故に「地震原因説」が浮上した。この説が少し知られるようになったのはデンマークのテレビ番組が発端であるが、いまでもくすぶっている。もとは一九九八年にロシア、ウクライナの地震学者達が発表した、「チェルノブイリ原発地域の地震現象」という論文に由来する。
 今回の訪問の際、圏内のオフィスで会見したクルチュニコフ教授(ウクライナ科学アカデミー、石棺の専門家)は地震原因説についての私たちの質問に全否定のだった。事故の時系列を記した印刷物を持ち出し、これを見ればわかるというそぶりで否定しただけだったから、地震説についての具体的な反論も聞いていない。

 地震説を主張する論文の根拠は、爆発の一六秒前に起きた地震が一〇〇-一八〇キロメートル西の三地点で観測されたという事実に尽きる。地震の大きさはマグニチュード一・四の小さなものであるが、震源(震央は原発の東一キロメートル)が近く浅いため、原発敷地の震度の見積もりは日本の震度階での六?七(裂震、激震)に当たるという。また論文では、いろいろなパラメータの仮定のもとに地震加速度を計算している。加えて、チェルノブイリ原発周辺は二つの断層が交差する不安定な地域に属する。そこで原発の基盤で後に残るずれが生じれば炉に異変が生じる可能性は否定できない。つまり地震による揺れとズレのふたつの問題があるわけである。

 地震学者達は原発敷地に地震断層が発生したことを主張しているわけではない。つまりズレは生じたかどうかわからない。また揺れについても、彼等の主張は原発の基礎、構造に影響をあたえるほど強くないが、機器に影響をあたえる可能性があるというものである。ということになれば、揺れが炉にどのような影響をもたらし、どのように暴走事故(反応度事故)に至ったかの原子炉工学的なシナリオが描けなければ地震説肯定とはならないはずだ。

 地震学者の主張は、結局、「耐震構造を持っていなかった事故炉は、(低出力領域で)試験をしているとき地震に襲われ、制御棒の挿入ができなくなり暴走に至った」というものだ。地震学の論文だから無理もないともいえるが、炉工学的な議論が全くないのが致命的で、それなしに暴走事故の原因を地震に帰する憶測は慎重に避けるべきだと思う。地震発生時に原発職員が冷却水取水口で低いうなりを聞き、コンクリート基盤の震動を感じたという報告と地震計の揺れの記録を信用するかぎりでは、事故直前に地震があったという事実は否定できないことだろうが、地震原因説にそのまま結びつけるのは、やはり眉唾ものだろう。地震学者が「原発事故の原因に言及することが間違い」といっているわけではない。言う以上は論理をきちんと、ということを要求するだけである。事故後ソ連政府が国際原子力機関に出した報告書にいう事故原因も、二回起きた爆発を水蒸気爆発と水素爆発としていることからして疑問の多いものであるが、地震説は事故のストーリーを描くことを放棄したもののように思える。

 注意すべきは、地震説がジャーナリステイックで人々に受けることである。確かに原発にとって最大の脅威は地震だが、詰めを欠いた説は信用を落とす。特に地震国日本の原発の危険性を心配する私達が安易に跳びつきやすい危険がある。いずれにしろ、この問題は一回の訪問のなかでの一回のインタビューで終わりとなるような話でもない。

 今回の訪問で出会ったウクライナの当局者は、事故をチェルノブイリ・カタストロフと呼び、もらった種々の資料もこの言葉を使っている。汚染のひどかったナロージチの町で見た記念碑もそうだった。原発の恐さを心底見せつけられたこの事故は「破局」と呼ぶのがふさわしい。原発立地点の住民への影響を考えるからか、日本の原発推進勢力は事故が起きてもそれを「事象」と呼び、大事ではなかったという印象をなるべくあたえるような姑息な動きをいつも行ってきた。事故は事故だ。推進側もウクライナの率直さを見習うべきではないだろうか。