本稿は「週刊金曜日」2000年4月28日号のための原稿である.
15年目のチェルノブイリ原発:
汚染原因つくる権力者と除染従事強いられる弱者 
荻野 晃也


 
 2000年3月26日、ウクライナ・チェルノブイリ原発(以下、チェル原発)の石棺近くにたたずみながら、私は14年前の放射能検出を思い出していた。

 旧ソ連のチェル原発で86年4月26日に大事故が発生したことを私が知ったのは、事故から3日後の29日早朝であり、その日から私は放射能測定の観測体制に入ったのだった。「9000kmも離れた日本に放射能など来るはずがないではないか」とからかわれながら、空気中のダスト測定を続けていた。日本には常時観測をしている所もあるのだから、止めようかと思わないではなかった。連休ぐらいはのんびりとしたかったからでもある。連休最後の1日ぐらいは休もうかと思っていた矢先の5月4日のことだった。

 それまで放射線検出を示す光がポツポツと思い出すように測定器の画面上に点滅するだけだったのが、まるで大雨にでも遭遇したかのようにザーと流れるような点滅を示したのだ。私は息をのんで画面を凝視つづけた。ヨウ素131が巨大なピークに成長するのを「止まってくれ」と祈るような気持ちで見つめていた。「9000kmも離れている日本なのに」である。そして、地球上のあらゆるものが放射性ヨウ素やセシウムなどで汚染されてしまったのだった。その汚染された日本の野菜がシンガポールでは輸入拒否されて追い返されていると言うのに、この日本ではみんな平気のようなのだ。外国からの輸入食品のみが、汚染が高いとして輸入が拒否されていたのだが、しかしその厚生省の輸入禁止基準値を越えて輸入された月桂樹の葉を店頭で発見したばかりに、私はTV取材まで受けたのだった。その時のあの放射能が、まさに目の前の石棺の中から放たれたのである。

 「今晩は。同志諸君。チェルノブイリ原子力発電施設の事故という信じ難い不幸が起きたことを皆さんにお知らせします」とゴルバチョフ大統領がTVで発言したのは4月28日のことだった。スウェーデンで異常な放射能レベルを観測し、ソ連政府へ問い合わせたことに対する説明でもあった。西欧圏にまで放射能が流れ込んでいては、秘密にすることは出来なかったのであろう。ペレストロイカ・グラスノチ路線を提唱していた大統領としても、この事故がその後どのように体制変化につながるかは予測不能だったことだろう。

 東海村のJCO事故で核分裂したウラン235の重量は僅か1mgだったが、チェル原発内にはウラン235数トン分の核分裂による放射能が蓄積していたはずだ。ともに臨界事故なのだが、チェル事故の爆発力の方がけた違いにすざましく、炉心を覆っていた約1000トンのコンクリート円盤がひっくり返り、屋根も破壊され、米国の人工衛星からも真っ赤になった炉心が観測されていた。崩壊した炉心からは、希ガス放射能はほぼ100%、放射性ヨウ素は50%前後、放射性セシウムが30%程度、プルトニウムまでもが大量に放出されたのだ。

 5月2日から30km圏内の住民避難が行われ、約千人の軍人(この様な事故処理従事者は「リクビダートル」と呼ばれている)による測定結果をもとに、10日の空間線量率が2mR/hr(20μGrey/hr)になる範囲として30kmが選ばれたそうだ。ルテニウム、プルトニウムといった高沸点の金属性放射能が放出されていることから考えても、崩壊炉心の温度は高温であり、コンクリートとも反応しながら溶けて流れ出し(後で存在が確認され「象の足」と呼ばれている)、チャイナ・シンドローム状況だったのだ。まさに「小さな核戦争」(ゴルバチョフ)であり、「事故から数ケ月間は戦争のようだった」(参謀総長・アフロメーネス元帥)のである。 

 チェル事故の汚染規模がどの程度だったかを表1に示した。1-5Ci/km2(70年間の平均で考えて年間数mSvの被曝量に相当する汚染)以上の汚染面積19万km2は日本全体の約50%に相当する(表1注2)。ベラルーシなど3ケ国の657万人がその汚染区域に生活していたのだ。事故直後に30km圏内から強制避難させられたのは13万5千人であったが、汚染が広がっていることから、90年までにさらに避難住民が増加している。ソ連の避難基準が緩すぎるとして、ベラルーシやウクライナでは住民の反対運動が激しくなり、ソ連・共産党(赤)に対抗して「環境保護(緑)」運動が政治体制をも変えるほどの力を持ってきたのだった。「ペレストロイカ + グラスノチ + チェル事故 + 緑運動」がソ連崩壊の重要な要因になったのである。

 住民の被曝以外に、リクビダートルの被曝も重要な問題である。国の威信を懸けて、事故処理を急いだと言う面もあり、多数の軍人がリクビダートルとして動員された。ヘリコプターや多数の装甲車などが捨てられた現場を見て回りながら、これに乗車していたはずの数多くのリクビダートルのことが心配になるのだった。表1には90年までに国家登録された数のみを示したが、今なお続く事故処理を考えると60?80万人以上に達しているともいわれている。原発周辺の枯れてしまった松林(赤い森)や汚染の強い表土は大きな穴に埋められたとのことだが、送電線下にはまだ汚染土が畝のようになって残っていた。彼らリグビダートルはいまなお風が吹けばホット・パーティクルを、山火事になれば木葉に付着した放射能の煙を吸い込む。誰かがやらねばならないとしても、劣悪な経済状態下での、リクビダートル問題は今なお深刻な問題であろうことは容易に想像できる。

 「影響を常に過小評価する」ことで知られる「国際原子力機関(IAEA)」は、予想どうり86年は勿論のこと91年の報告書でも、「住民への被曝影響は考えれない」と発表している。しかし、92年に「世界保健機関(WHO)」が、「小児甲状腺ガンの多発を認める」報告書を発表したことから、事故10年後の96年になってようやく「IAEA」は「甲状腺ガンの増加のみ」を認めはしたが、それでも「史上最悪の原発事故であったが、周辺住民への影響は大したことはなかった」といい続けている。そして、リクビダートルに多発しているガン・自殺・内分泌系疾患・精神障害などを、心理的ストレスでしかないと切り捨てているのである。

 IAEA批判をアチコチで聞いて帰国した私は、4月11日の朝日新聞の大きな広告記事に驚いたのだった。「茨城原子力協議会」の広告で、「国際原子力機関の事故予備調査報告書から見たJCO臨界事故」という見出しだった。そして「国際原子力機関とは」として「チェルノブイリ事故においても、現地に3名の専門家を派遣し、事故状況の調査とソ連側からのデータ収集を実施。国際的な対応を迫られた同事故に関し、大きな役割を果たしました」と紹介していたからである。これでは全く逆の評価ではないか。

 京大の今中哲二さんをリーダーとする今回の「チェル原発ツアー」で、私は小型のGM測定器を持参し同行していた岩手大の颯田さんと測定して歩いた。チェル原発の玄関ホール前の広場で、0.5μSv/hrだった空間線量率が、バスに乗って石棺に近づくにつれて急上昇するのに私はハラハラした。工事中とのことで石棺から約200m程度の所で短時間下車したのだが、測定器は25μSv/hrの高い値を示した。今回の測定値を表・2に示したが、プリチャピ市の遊園地の汚染が高い値なのには大変驚いた。また除染されている所を歩いたからかもしれないが、ナロジチ村の汚染値が低いのが意外であった。

 この遊園地で私は国際研究機関チェシルの研究部門責任者であるアルキポプ教授と白樺の木を3cmほど切りとった。年輪中の放射能を測定したかったからである。日本へ持ち帰って測定すると、微弱ではあるが白樺の樹皮外面からβ線とα線とが検出された。少し斜めに生えていた白樺の木を切ったのだが、その樹皮の上側の部分がバックグラウンド・レベルよりも3倍ほどの汚染を示していた。水洗いして持ち帰った白樺からはα線は検出されなかったことを考えると、白樺のザラザラの樹皮表面にホット・パーティクルが付着していることは明らかだ。チェル原発周辺はプルトニウムやアメリシウムなどのα線放出放射能で汚染しているとは予想していたが、まさかこんなに簡単に測定出来るとは思いもしなかった。

 夕食の後、9時すぎから通訳のヴィクトールさんの案内でカフェへ連れて行ってもらった。街灯の無い暗いチェルノブイリ市の夜道を、小さなペン・ライトの明かり一つを頼りに歩くのだった。カフェは、大屋根のある体育館ほどの大きさのバス車庫の中の、壁際の階段を上がった2階にあった。下を見晴らせる手すりのあるロビーがカフェになっていて、若い人たちの多いのに驚いたのだった。

 その薄暗い建物に入ってきたとき、私は1人の男が窓に向かって何か仕事をしているのに気付いていた。いったんカフェに席を取ったが、何をしているのか気になって下へ降りてみた。薄暗い中でその男は一生懸命に窓枠を拭いているのだった。足元のバケツは石鹸で白く泡だっていた。何度も何度も窓の下枠を拭いては、ジッと見る。その動作を繰り返しているのだった。窓枠の上や横は拭こうともせず下枠だけを拭いている。65才ぐらいのフクフクとした童顔の大柄な老人であった。私も横に並んで、窓枠をジッと眺めてからソットなぜて見た。見事なほどにツルツルしていて、窓枠が丸くすらなっていた。同じ動作を何年も延々と繰り返えしているのであろう。

 私は「ごくろうさん」という意味を込めて握手して戻ろうとしたのだが、その老人はバケツを指さして「汚れている」という素振りを見せた。そこで、私は老人の手から雑巾をソッと取って、窓枠を何度か拭き「ビューティフル」と言ってから雑巾を返し、カフェへ戻ったのだった。老人がニコッと微笑んだ様だったので私は満足だったが、やはり気が滅入ってしまい、ビールを飲みながら老人の方ばかりを見ていた。その内に、2人の軍人が老人と話し始めていた。15分ほどして軍人が帰って行ったので、私はまた老人の所へ降りてみた。その窓は車庫に面した老人の居室らしく、中の部屋には明かりがともっていた。明るくした上で拭き掃除を続けることにしたようだった。もう私たちが来てからでも1時間以上は経過していた。11時近くになって、私たちも引き上げることにした。老人の前には、今度は腕組をした若い女性が立っていて、何か説得しているようだった。私はそのまま通り過ぎて帰ろうとしたのだが、やはり気になって握手して帰ることにした。今度ははっきりと微笑んで握手してくれた。農民のような堅い大きな手の掌だった。死ぬまでその動作を繰り返していることだろうと思うと、真暗の道を歩きながら悲しい気持ちで一杯になったのだった。

 汚染させるのは簡単だが、除染は大変な作業である。汚染の原因は往々にして権力者の意向の反映なのだが、除染の仕事に従事するのは常に弱い立場の人間なのであり、そして切り捨てられるのである。この老人もある意味では間違いなくリクビダートルの1人なのだ。ホコリになって付着する汚染を除染する作業は、まさに「賽の河原の石積み」のようなものなのである。

 翌日午後、私たちはナロジチ村へ車を走らせた。「奇形の牛の誕生」などといった30km以遠で発生している「高汚染と異常多発」とを衝撃的なニュースとして世界中に知らせたのがこのナロジチ村だったのだ。それを報じた「モスクワ・ニュース」の英語版を経済学部の図書館で見つけて読んだときの驚きを私は今なお鮮明に覚えている。1989年のことだった。

 チェル原発から80kmも離れたナロジチ村に入るにも許可が必要であった。高汚染地域だからである。その村で助役のバレリーさんが案内してくれたのが、汚染で消滅した集落(地区)の慰霊碑だった。86年には四つ、90年には15の集落が消えたことを2つの石碑は示していた。太い樫の木には十字架が懸かり、横には5つの鐘が並んでいた。集落の消えたことの痛みをバレリーさんは静かに語ってくれた。3万人の人口が1万3千人に減り、その多くは年金生活者だという。金持ちは早々と逃げ、汚染と共存するのはやはり弱者ばかりなのだ。村役場近くの舗装道路上で測定していると、バレリーさんがのぞきに来た。「BGレベル」というと、バレリーさんの顔に「そうだろう」と言わぬばかりの微笑みが浮かんだ。そしてこれを書いている今になって始めて、チェル原発ツアーで見た笑顔はあの老人とバレリーさんとの2人だけだったことに気付いたのだった。何と暗いツアーだったことだろう。

 延々と続く無人の道を車で走りながら、私はカラス以外の生き物の姿を追い求めていた。まだ寒いからだろうが、朽ち果てた家の回りを歩いても虫一匹見ないからである。そして一頭の鹿を見たときはなぜかしらホッとしたのだった。「汚染地帯に住むのではなく、自然放射能の中で生きているにすぎないと考えよう」と書かれていたのを読んだことがある。そうでなければ精神的に持たないのだそうだ。確かに考えてみれば、原発を建設し事故を起こし大地を汚染させたのも、自然の中での一つの営みなのかも知れない。だがチェル事故から学ぶべき最大の教訓が「早くこのような技術は捨て去ること」なのではないか。

 チェル原発の正式名称は「レーニン記念チェルノブイリ原子力発電所」であり、玄関前の広場の中央には、何かを語りかけているかのようなレーニンの胸像があったことを思い出す。そして、そのレーニンの語りかけているのは、彼の言葉「革命は電化である」なのだろうか、それとも「真実は執拗なり」なのだろうかと今になって思うのである。 
 参考文献:今中哲二編「チェルノブイリ事故による放射能災害(技術と人間)」など。

(注):この文章は、「週間金曜日」用に書いた原稿の元原稿ですが、この機会に全文を 一部訂正して掲載することにしました。(おわび)文中の老人のことを「狂った老人」 と書こうと思ったのですが、そのように紹介する気持ちになれず、読者の方々に「推察 して頂けるはず」と思って書いたのです。ところが、小生の筆力不足で多くの方々に誤 解を与えたことを知って恐縮しています。この場所をかりておわびいたします。



 
 

表1 チェルノブイリ事故の汚染規模  (参考:今中哲二編「チェルノブイリ事故の放射能災害」)

 
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        セシウム137による汚染レベル(Ci/km2)と汚染面積(km2)       1Ci/km2以上 リクビダートルの
 国名 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−の地域住民数 国家登録数(1990)
      1〜5(Ci/km2) 5〜15(Ci/km2) 15〜40(Ci/km2) >40(Ci/km2) 合計(国土の割合)  
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ロシア   48,800(km2)  5.720(km2)   2,100(km2)  300(km2)  56,920(0.3%) 232.3万人    112,952人
                                                   (1991)
 
ベラルーシ  29,900    10,200      4,200     2,200      46,500(22%)  184.0万人    17,657人
                                                    (1995)
 
ウクライナ  37,200     3,200       900      600      41,900(7%)   240.4万人    148,598人
                                                    (1995)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       (注1)                        (注2)               (注3)
合計   161,160(km2)  19,120(km2)   7,200(km2) 3,100(km2) 190,580(km2)  656.7万人    316,553人
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   1〜 5Ci/km2 : 放射能管理が必要なゾーン    5〜15Ci/km2 : 希望すれば移住が認められるゾーン
  15〜40Ci/km2 : 強制(義務的)移住ゾーン    > 40 Ci/km2 : 強制避難ゾーン
(注1)スウェーデン、フィンランド、オーストリアなどの 45260(km2)分も含まれている。
(注2)日本の全面積の 50.4% に相当する。
(注3)リクビダートル(後片付け従事者)の数には20〜80万人の間の色々な説があるが、ここではベリアコフ報告(98)   を引用。合計にはバルト諸国からの 37,346人 が含ま
れている。1996年には表中の三ヶ国だけで 363,518人に増加。
  

表2  チェルノブイリ原発周辺の汚染状況(2000年3月26,27日)                          (測定者:颯田・荻野)
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  測定場所        平均値(μSv/hr)     最大値(μSv/hr)
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チェルノブイリ原発        玄関入口前広場   0.5 (地上1m)
   石棺から約500m   5  (バス車内)
   石棺から約200m   25  (地上1m)
   線路上の橋(東約2km?)              2  (地表面)
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プリチャピ市
   市の入り口付近                    6  (バス車内)
   遊園地(舗装広場)   1  (地上1m)      2  (地上1m)
                  5  (地表面)       8  (地表面)
                                10  (地表面)
   遊園地(舗装小道)                  20  (地表面)
   遊園地(草地)                   〜3  (地表面)
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チェルノブイリ市宿舎       0.2 (2階居室)
ラッソハ村核廃棄物置場    0.2 (バス車内)   0.4 (バス車内)
コロコッド村(東南約10km)   0.4 (地上1m)    0.5 (地上1m)
ナロジチ村役場(舗装道路)   0.2 (地上1m)
     公園(黒い土)                   0.4 (地表面)   
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(注)測定器はセシウム137で校正されたGM型(Thermo-Electron社製Monitor1TM
  バックグラウンドは 0.1μSv/hrだが、この測定器では 0.1〜0.2μSv/hr程度を表示。