本稿は「技術と人間」2000年5月号に掲載された.
14年目のチェルノブイリ
高橋 昇


 
 チェルノブイリへ

 三月二十七日朝、いよいよチェルノブイリにむけて出発だ。九時十五分まえにキエフのプラナスラバホテル前からマイクロバスにのる。一行九名。同行してくれるビクターさんと運転手をふくめて一一名がのると、ビツシリ一杯。霧雨が舞うどんよりした空模様。受け入れ側の事情はほとんどわからない。宿舎は大学の寮程度だろうとか、ことによると食事も自前の調達が必要かもしれない、などと話しあっていた。

 キエフ市内をぬけるとカンバ林にかこまれた道になる。それが途切れると小さな集落があり、そこ私ぬけるとまた林と広野のくり返しが続く。二時間ほどでディチャートキイの検問所につく。広い数車線の自動車道路、警備隊詰所、遮断機、警告の看板などがある。一九八六年に生まれた“国境”である。ここからがいわゆる汚染地域、“ゾーン”。汚染地域への南の入口のひとつである。すこし早めについたのにすでにゾーン側の車がきていた。濃いブルーのいかつい形のワゴン車である。

 出迎えてくれたのは、ウクライナ非常事態省のなかでチェルノブイリ事故に関する対外折衝を担当しているチェルノブイリインターフォ−ムのリーマさん。ちぢれた金髪の女性。気さくそうな人柄を感じさせる。ここからはこのリーマさんが案内役である。 ディチヤートキイ検問所をでた車はしばらくして右へ進路をとる。北西から真北へむかう路をゆく。約二〇分、無人の広野を走るとチェルノブイリ市の看板が立っている。まちのあちこちに平屋建てや二階建ての小さな建物が林のなかに点在している。人影はみえないが、人の気配は感じられる。チェルノブイリという町は、事故以前は農村集落型のささやかな地区の中心というだけで、原発とは何の関係もないまちだったという。市というより村といったおもむきである。

<チェルノブイリ市へ入る>

 宿舎はその一角にあった。細長い二階建ての質素な建物、むくむくの毛の黒い犬がむかえてくれた。入口にロシヤ語と英語の右扱が二つ並べてかけてある。
 「The State Enterprise CHORNOBYL Science & Technical Center for International Researh」
 チェルノブイリがかかえているもろもろの問題を研究する外国の研究者たち用につくられた建物である。研究組織はCHESCIRといい一九九八年の七月に発足した。ここがその事務所であり三〇キロゾーンの対外折衝の窓口"Chernobylinterform"の事務所でもある。研究のためにチェルノブイリにくる外国人のための宿舎をかねている。


<汚染地区を案内してくれた青いバス>

 なかに入って驚いた。外見は質素だが、なかはかなり豪華。私と尾崎さん(大阪大学の核融合の研究者)に割あてられた二階の部屋は、なんと四部屋、手前がトイレ、つぎが炊事場、つぎが応接間そしてそのつぎが寝室。大学の寮どころではない。きけば、チェルノブイリ事故のあと一九八六年の秋に事故処理のための国家委員会用に建てられたものだという。ソ連の高官の宿舎なら当然かもしれないが、旧ソ連のノーメンクラツーラ(旧ソ連の党・国家の高級官僚)といわれる人たちの特権の一部を垣間見たような気がした。ちょっとテレビのスイッチを入れてみた。咋日のロシヤの大統領選挙についてのウクライナのひとびとへのアンケート結果を報道している。プーチンを是とするものが約半分、非とするものが二〇%、外国のことだから関係はない、とするものが同じく二五%くらい。いろいろな意味で興味ふかい結果だと思った。

 昼食までのあいだ、CHESIRの責任者アルヒーロフ氏と会う。温厚な感じのアルヒーロフさんは生物学者。一九八六年の事故直後からチェルノブイリ事故の結果もたらされた科学上の諸問題の研究にたづさわってきた。はじめてこの地域で農作物の汚染状況をしらべ、汚染地図をつくりあげたひとでもある。いまもゾーン内の土壌中での放射性降下物質の移動の可能性をしらべて新しいマップをつくり、野菜、肉、牛乳などへの影響が将来どうなるかを研究しているという。彼は私たちのチエルノブイリ原発、ブリピヤチ市への見学に同行してくれるという。今中さんはゾーン内への核燃料物質の降下が、南の方に偏っているのは何故なのかを質問した。答えは事故当初は、風が北から南に吹いていたからだ、だったが、これは私の思いこみとはちょっとくい違う。チェルノブイリ北方の白ロシヤの被害が大きかったことから、私は風は南から北の方向にむかっていた、と思いこんでいたからだが、一九八九年にイズラエリ国家気象委員会議長が書いた論文によると、事故から七〜十日ほどの間は、風はあらゆる方向に吹いていたとされているから、アルヒーロフさんの言う通りなのだろう。荻野さんがブリピヤチ市で、木の年輪の放射線量をしらべたいので、木を切ってもよいか、と許可を求めたら、それも許可してくれた。まずは昼食をご馳走になる、前菜、ボルシテ、牛肉ロール巻、ペリメニ(ロシヤ餃子)と盛りだくさん。とても食べ切れない。


<アルヒーホフ氏>

 二時に原発で担当者がまっているとかで、食後の休みもなくふたたび青い車にのる。揺られること三〇分。チェルノブイリ原子力発電所に到着した。

  レーニン記念チェルノブイリ原子力発電所

 正門の手前右側には広大な冷却用の水をたたえた池が湖のようにひろがっている。門前にはレーニンの胸像。ここの正式名称は、「レーニン記念チエルノブイリ原子力発電所」なのである。荻野さんのGMカウンターは〇・五マイクロシーベルト。

 この原子力発電所は、事故直前には一〇〇万キロワット級のRBMK型の原発四基が稼働、二基が建設中だった。旧ソ連では、一九五四年に世界初のモスクワ郊外のオブニンスクで原子力発電(五〇〇キロワットに成功したのち、一九五八年にウラルのトロイツクで最初の原子力発電所が本格的に稼働をはじめた。一〇万キロワットの規模をもつシペリヤ原子力発電所である。この発電所はそのごも毎年一基のわりで六三年まで増設をつづけ、六基の炉が動いているが六三年まではソ連の原発はここだけだった。主目的も軍事用プルトニウムの生産だった。

<チェルノブイリ発電所まえのレーニン像>

 いわゆる「平和利用」の原子力発電は、一九六四年にはじまる。チェルノブイリ原発の原型である濃縮ウラン・黒煙型のベロヤルスタ原発(ウラル・スペルドロフスク州、一〇万キロワツト)が、この年送電を開始している。しかし原発の規模を一挙に拡大し、増設につぐ増設が開始されるのは一九七四年からである。タイプは一〇〇万キロワットのチャンネル型黒鉛減速軽水冷却炉沸騰水型(RBMK−1000)。

 まず一九七三年末に一号機がレニングラード原発で運転をはじめ八一年までに四基が稼働。これと並行して一九七一年からチエルノブイリ原発の建設がはじまり一九七八年に一号炉、七九年に二号炉、八二年に三号炉、そして八五年には四号炉が相次いで運転をはじめ、さらに二年後をめざしての五号炉の建設がすすんでいた。合計四〇〇万キロワットの大発電所の出現である。そして八大年、運転を開始したばかりの四号炉が、原子炉の爆発という世界を震撼させた大事故をひきおこしたのである。

 事故の原因については、政治的思惑などが加わって原発の責任者たちが裁判をうけるというようなこともあったが、実はRBMK型炉の設計に問題があったことが明らかになっている。この原子炉は、原子炉停止のために制御棒をさしこむと、一時的にではあるが逆に炉内反応を加速するような設計になつていたことが判明した。大事故の原因は、操作上の人為的なミスではなく、設計上のミスだつたのである。

 案内された管理棟内には、チエルノブイリ原発の全体を示した模型の奥にメチヤメチャに破壊された凹号炉の情況を示す模型が展示してあった。その模型を前に現状の説明をうける。
 事故のあと一、二号炉は俸止したが、いまだに三号炉は出力400万kW(熱出力?)の発電をつづけている。そのために現在6000人の技術者、労働者が交替制で働いていて、この人びとは原発の東北東五〇キロにあるドニエプル河の対岸に建設されたスラブティチ市から通っているという。(6000人という労働者数は、事故の前とたいしてちがわない。原発が汚染地域内であるため、交替の頻度が高いためであろうか)。依然として原発への依存度は雇用面でも大きいのだと強調したのち、つぎのように続けた。

 一九九四年の先進七ケ国首脳会議(G7)で、チェルノプイリ三号炉の停止問題が議題になり、安全上の問題があるからすみやかに停止されるべきだ、と決議されたが、これはきわめて政治的だ。ロシヤにもチェルノブイリの原子炉と同じ型のものが、レニングラード原発に四基、クルスクに三基、スモレンスクに二基そのほかイグナリナにも一基が一〇年以上稼働しつづけているのに、チェルノブイリの原発だけを停止しろというのは納得できない、という。そして、とにかく廃棄物の処理や四号炉の石棺の補強などには膨大な金が必要で、これはウクライナ政府が負担するにはあまりに高すぎる金額だ。どうしても国際的な援助がいるのだと強調していた。

 三月二十九日(この取材から二日後)、ウクライナ政府は、チェルノブイリ原発を今年中に全面的に閉鎖すると発表した。しかし年間国家予算の六%をしめるといわれる事故の後遺症から逃れるわけにはゆくまい。経済的な重荷はこれからも重くのしかかる。現地では、三号炉をとめると、三〇〇〇人の失業者がでるといっていたが、ウクライナ政府は失業対策もさることながら、代替エネルギーについてもチェルノブイリ原発の情報担当者がいっていたようにドイツのシーメンス、フランスのフラマトムなどの企業との協議をはじめることになるだろう。場合によっては、昨年もそうだったように、閉鎖が再延期される可能性も否定できない。

 管理棟を出て四号炉にむかう。事故直後からこの炉には放射性物質の放出を最小限にするために五〇〇〇トンの砂、ホウ素、石灰石、鉛などが投下され、炉心溶融を防ぐために、炉の下にトンネルを掘ってコンクリートの防護物をつくり窒素を使った冷却システムで炉底を冷却するという応急の措置をした。それから半年あまりをかけて、三〇万トンのペトンと六〇〇〇トンの金属建材を使って高さ四〇メートルの巨大な原子炉の墓−石棺が完成した。しかしいまだに、連鎖反応がおこる危険をはらんだ核燃料物質が管理不能な状態で、ひかえ目にみても二〇〇トンは存在しており、内部の放射線量は二〇万キュリーをこえるとされている。石棺は現地ではシェルターとよばれ、ウクライナの原子力規制委員会が中心になってロシヤのクルチヤトフ研究所、ペラルーシ科学アカデミーの学者とともにその安全管理を担当している。

 この日も、工事中のようで、私たちは、二〇〇メートルほど離れたところまでしか近よれなかった。しかしさすがに放射線値は高い。荻野さんのGMカウンターは二五マイクロシーベルト/hr (今中さんの測定値は八マイクロシーベルト)を記録した。自然放射線レベルの二五〇倍。四〇時間以上その場にいれば、一般人の年間被曝限度をこえてしまうという高い線量である。石棺を写真におさめて早々にたいさんして、いまは無人のまちと化した原発労働者のまちブリピヤチヘとむかう。

<チェルノブイリ原発4号炉のシェルター>

  プリリャチ市の今昔

 ブリピヤチ市は原発から北西約四キロ。近づくにつれて放射線測定値はあがり、荻野さんの測定では車内でも最大六マイクロシーベルト/hrを記録した。事故当時、人口五万人を数えたこのまちは、チェルノブイリ原発の建設がはじまる前の年一九七〇年の二月に最初の井戸が掘られたというから、原発とほほ同時に建設がはじまった。事故のまえのまちの様子を写真集「プリピヤチ」 (キエフ 「ミステットヴオ出版社刊)はこう書いている。
 「この若々しい町に住む人びとの平均年齢は二六歳である。毎年この町では一〇〇〇人以上の新生児が生まれている。乳母車のパレードが見られるのはブリピヤチだけのことだろう。夕方になるとママとパパが子どもたちを連れて散歩に出かけるのだ。プリピヤチは未来にむかって着実に歩みを進めている。・・・・・・近い将来、エネルギー職業学校、二つめの中学校、ピオネール宮殿、青少年クラプ、商業センター、屋内市場、ホテル、パス・鉄道駅、口腔病専門病院、映画館、百貨店、スーパーマーケットが作られることになつている。町の入口を遊園地式の公園が飾ることになる。・・・・ 住民は八万人に増える。・・・・・」(ユーリー・シチェルバク 「チェルノブイリからの証言」より重引)

 遊園地はたしかにあった。一四年間とまったままの観覧車の黄色いゴンドラ。地上にころがったままのポート、赤茶色のメリーゴーランドの支柱、事故後に成長したとおもわれる細い白樺の木のむこうにみえる九階建てと五階建てのアパート群はまったくの無人。いまここにいるのは、われわれ九人とり−マさん、アルヒーロフさんとビクトルさんの十二人だけ。寂蓼感がふきぬけてゆく。


<無人の黄色いゴンドラ>

 荻野さんの放射能測定器はアスファルトの地表面で五マイクロシーベルト/hr(最高値八マイクロシーベルト/hr)、地上一メートルのところで一マイクロシーベルト/k(最大で二マイクロシーベルト/hr)だったが、局部的に最高値で一〇〜二〇マイクロシーベルト/hrを示すところもあった。これは石棺の前の数値に近い。とてもひとが住むどころの話ではない。放射性降下物の恐ろしきをまざまざと感じさせる。


<無人のプリピャチ市の公園>

 荻野さんはここで白樺を切り、年輪をしらべるための試料採取をおこなった。アルヒーロフフさんピクトルさんも手伝って直径一五センチほどの白樺の試料を手に入れた。これを使って、C14の検出ができるのではないかという期待からだそうだ。

 ブリピヤチからの帰途、原発が一望のもとに眺められる鉄橋のうえから、ボレーシエとよばれるウクライナの大地を眺める。発電所へむかって二本の鉄路、スラブチチ市方向へ数本の鉄道が走っている。完全に錆びついてはいないところをみると、ときには利用されているのかもしれない。しかし森と沼がおりなす美しい自然とうたわれた森林湖沼地帯の趣はない。いくらかの面影は残しながらも原発のある地帯へ近づくほど赤ちゃけた原っぱが目立つ。大事故の爪跡はここにも影をおとしていた。


<白樺の試料採取>

  答えられない質問

 この日のよる、ビクトルさんがまちのバーにゆこう、と言いだした。夜の九時にちかい。あたりは真っ暗だ。この村にバーがあるのか、と思いながらみんなのあとについてゆく。足もとを懐中電灯で照らしてもらいながら、歩くこと一〇分ほどでガランとした体育館風の建物の前にでた。そこはパスの停留所があったところだという。なかに入る。左手奥の二階への階段をあがると三、四脚のテーブルがある。先客で一杯である。飲み物はビール、おつまみはポテトチップ。一番階段よりの席をあけてくれたのでそこへ陣取る。

 ひとが住めないはずのチエルノブイリのまちの飲み屋。一体どんな人たちなんだろうと思いながらあたりを見廻わす。どうやらチェルノブイリ原発で働いている労働者たちのようだ。いまチエルノブイリ村の人口は三〇〇〇人、ただし定住しているわけではなく交替できているのだという。女の人がふたり近づいてきた。どこからきたのか。日本人かと尋ねてくる。ダーと答える。仕事は何?ときく。発電所で洗濯係をして働いている母と娘だと言い、発電所をとめるという噂があるが、止めないでほしい、仕事がなくなつてしまう、という。答えに窮する。旧ソ連もウクライナも原発を事故のあとすぐに止めるべきだったと確信していても、生活がかかった母娘の訴えには、答えがでてこない。


<チェルノブイリのバー:立っている2人の女性は原発労働者>

 今度の旅では一般のひとに凍することはすくなかったが、僅かに会った人たちから発せられる質問には、答えられない、言葉に窮するものが多かった。原発の操業を止めないで、失業してしまうの、ここに生活していて大丈夫か。黙って首をふるしか私には方法はなかった。

 三月二十八日、チエルノブイリに本拠をおくウクライナ科学アカデミーの学際科学技術センター「シェルター」にむかう。二階建ての質素なオフィスのなかで所長に会う。おそろしく立派なプラスチック製の名利に辟易しながら、手書きの名刺をわたす。クリユチニコフ氏といい、機械工学関係の専門家のようだ。この研究所では、とくに放射線化学分野での汚染地域の研究のために四〇〇人が働いているという。

 同行の小村さん(静岡大学の教授)が、“シェルターは十四年たってだいぷ問題がでてさているのではないか”と尋ねると “石棺は一九九二年に第一次の大修理をおこない、九四年に第二次の修理をおこなつた。第四次の修理までの計画はあるのだが、なにぶんウクライナには金がない。国際的な支柱が必要だ”と昨日チェルノブイリ原発の担当者から聞いたのと同じことを繰り返した。地震が大惨事の原因だという説があるがとたたみかけると、答えもせずにつと席を立ち人数分の本を抱えて戻ってきた。「The SHELTERS」 -Current Safety Analysis and situation development forecast- これに全部書いてある、という。バラバラとめくると、図表なども色つきの豪華版だが、すぐ読めるわけもない。ただ四号炉のなかの放射性物質が発する熱を除去するために、直径一・二メートルのパイプをとりつけたことを誇らしげに話していたことだけが印象に残っている。

  惨事を伝える廃棄物の捨て場

 シェルター研究所から汚染地域へ。まずど肝をぬかれたのは、日本ではまったく報じられたことのない、チェルノブイリ原発の第惨事のあと始末のために使った放射能で汚染されたヘリコプター、軍用車輌、消防車、避難に使われたバスなどの捨て暢。チェルノプイリ市の南西一八キロにある廃付ラソーハ付のちかく。広大な敷地に捨てられた一〇機ほどの赤い星のマークのついた大型ヘリコプターをはじめ避難に使われた大型バス、高官を運んだであろう乗用車、装甲車や戦車を改造したブルトーサーは事故処理に活躍したのだろう。広さは東京ドームの数百倍、見渡す限りの巨大廃棄物の大群に、思わず息を飲んだ。

<死屍累々−横たわる事故処理の残骸>

 私は『チュルノブイリからの証言』のなかの炉上飛行について語っている航空隊員の話を反すうしていた。はじめはМИ8型ヘリを使って袋につめた砂やホウ素を投下しては帰投しまた投下にとび立つ、のくり返し。ついで袋の中味だけを落とす方法を考え、ヘリもМИ26型が導入され、原子炉の真上からの爆撃をくり返しおこなつた苦心談だが、彼らもまたリクビタートルとして放射能障害に苦しんでいるはずである。戦闘車輌にのって、四号炉からとび散った黒鉛や燃料の破片を片付けた人たち、そして赤い消防車にのっていた消防士たちは、はげしい汚染にさらされて命を奪われた人たちも多い。ここにあるのは、その残骸である。放射線値は〇・二〜〇・四マイクロシーベルト/hr。同行の毎日新聞の大島さんはこの光景を俯瞰で撮りたいと正門入口ちかくの幅三〇センチほどの鉄梯子に目をつけた。高さは約三〇メートル。たしかに俯瞰写真はとれるだろうが、危険だ。それに鉄梯子は地上二メートルぐらいからはじまっていて、そこに手をかけるのがやっと。すると、入口警備の兵隊さんが木の梯子をもってきて、これを使えという。こうして大島さんは地上三〇メートルからのこの巨大なごみ捨場を撮るのに成功した。写真は予想どおり毎日新聞のトップを飾った(四月十二日大阪版)。


<捨てられた汚染ヘリコプターの群:ラソーハ村>

 この巨大廃棄物の捨て場は、チェルノブイリ事故の巨大さ、悲惨さを示す記念碑的存在だといえるだろう。広大なウクライナの大地だから、かろうじてこんな形で処理できているにしても、狭い日本ではとうてい考えられないスケールの大きさだ。

 午後は一路西に進路をとって三〇キロ圏内をぬけ、ナロジチ村へむかう。途中カラゴードという廃村で下車。うち捨てられた家の軒下で尾崎さんの放射線測定をのぞきこむ。ベータ線への反応はあるが、アルファ線は検出されなかった。荻野さんの測定値は地上一メートルで〇・四〜〇・五マイクロシーベルト/hr。それにしても人がまったくいない村のなんと索漠たることか。しばらくゆくと、同じ光景ながら、なんとなく暖かい空気を漂わせている村を通過した。にわとりが餌をついばむ姿がみえる。


<カラゴード村の廃屋>

 汚染地域内であるにもかかわらず、ここに住みついているサマショーロと呼ばれる人たちがいるイリーヌイという集落であることをあとで知った。そしてまもなく西の検問所リブローバヘ到着。ここで二日問われわれにつき添って案内役をつとめてくれたリーマさんともお別れだ。

 これからの旅にそなえて、検問所のトイレを借りる。車に帰ってきた渡辺さんが言う。モージナ・ジーチっていわれて返答に窮したという。モージナ・ジーチ、住むことができるだろうか、という意味である。検問所の兵隊さんに、こういう問いかけをされるとは・・・。人びとは、多かれすくなかれ、みんな、そう思っているにちがいない。リーマさんも。

 ナロージチ村は、原発から西へ八〇キロ。車は無人の森や林をぬけてひた走る。いままでよりも翠が濃く、雪どけ水が樹々の根もとにたまってゆれている。検問所をぬけてさたばかりなのに、また検問所がある。そのたびに運転手さんは身分証明の提示のために走ってゆく。

 途中、森や林の焼け跡が目につ〈。森林火災への注意をよびかける看板。大島さんがウクライナ政府の高宮から聞いたところでは、山火事は年に数回はおこり、昨年は四〇〇haが燃えたという。そのたびに消防士は健康が懸念されるレベルの被曝をうける。大地や植物に付着していたセシウム137などの放射性降下物が巻さあげられ、消防士たちがそれを吸い込んでしまうために一〇ミリシーベルト(一般人制限値の一〇焙)程度の内部被曝をしてしまうのだそうだ。

  ナロージチ村の傷跡

 ナロージチ村は原発から八〇キロも離れているのに、事敗当日、きわめて高い三レントゲン/hrという線量率を記録したとされているまちで、そこの博物館にある、その記録をこの目でたしかめたい、というのが今中さんの強い希望だった。森をぬけてウクライナの沃野にでると間もなくナロージチ村。夕方近くになりかなり寒い。村の役場の助役ワレリーさんが案内してくれた。役場の前の二階建の建物の二階が、その“博物館”なのだそうだが、鍵をもっている担当者がいない。自宅までさがしに行ってくれたが留守。その記録はたしかに博物館にあるから、あとでコピーを送ってもらうということで決着。 役場前の放射能汚染で消滅した地区の記念碑である。八六年に四つ、九〇年に一五の集落が消えたという。いま村の人口は三〇〇〇人、事故前の半分にへった。ナロージチ郡全体ではいま一万三〇〇〇人、事故前は三万人だったとワレリーさんは言う。しかもその六割が年金生活者、若い人たちの仕事はない。とり残されているのは老人たちということか。ただここの放射線レベルは、荻野さんの測定によれば、自然放射線レベルだったそうで、三〇キロ圏内よりはたしかに低い。しかし、被曝の影響はこれからも続くにちがいない。

 帰ってから十数人のごく私的な会合で写真をみせながらチェルノプイリ、一四年目のすがたを話した。事故から二年目にここを訪ねたことのあるジャーナリストが、″あのころとちつとも変わっていませんねェ”と言う。

 一四年の歳月が流れても、放射能災害の爪あとは、消えるどころか、忘れさせてなるものか、と言わんばかりに執拗に、当時の姿をとどめている。危険区域の三〇キロゾーンもそのままだし、無人の村もすて去られたままだ。しかもその周囲数百キロにわたる地域内では、放射能の影響で当時うまれてもいなかった子どもたちにまで、いまわしい甲状腺ガンや白血病が襲いかかり、つぎつぎに幼い命を奪い、一四年たった今も、ますます猛威をふるっている。

 日本は被曝の先進国だというが、ヒロシマ、ナガサキとは被曝の形態はまったくちがう。ヒロシマ、ナガサキも、原爆がおとされた当時は、数年間は草も生えず人も住めないといわれた。しかし幸いそうはならなかった。放射性降下物がチェルノブイリほどは、多量に、かつ広範囲にばらまかれることがなかったからだ。あらゆるところに沈着している放射性降下物の恐ろしさをまざまざと実感させられた旅だった。

                   (本誌編集者)
<プリピアチ−チェルノブイリ間の橋上にて>