ベラルーシ国内ニュース

1999年4月〜1999年6月


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1999年4月

99/4/1
3月31日、ポズニャクとチーヒルの両氏が反対派大統領選挙候補として登録された。人民戦線のポズニャク氏は13万7325人、元首相のチーヒル氏は12万249人の署名を集め、登録に必要な10万人を越えた。投票は5月6日から16日にかけて行なわれる。しかし、ポズニャク氏は1996年より亡命中で、チーヒル氏は拘留中。

99/4/7
ベラルーシルーブルの値打ちが6日間で11.5%下落。4月5日の政府公式レートは1ドル23.8万ベラルーシルーブルであるが、路上マーケットでは36万ルーブルに達した。

99/4/9
5月16日の反対派大統領選挙の候補者であるチーヒル前首相に対し、窃盗と職権濫用の罪で、禁固3ヶ月の判決が出された。1994年にルカシェンコ大統領から首相に指名される以前に頭取をしていた銀行で、100万ドルの着服をしたというもの。一方、KGB監獄に10カ月いたのち自宅軟禁の状態にあった前国立銀行総裁タマーラ・ビンニカワ女史が行方不明になった。

99/4/12
ベラルーシのグロードゥナ市当局が野菜の配給制を導入した。公営商店では、一人当りの購入量は、ジャガイモ5sまで、キャベツ、ビート、ニンジンは2sまでに制限される。

99/4/20
ミンスクで4月19日、1ダースのゲイとレスビアン活動家によるデモがあった。当局が、彼らの組織「ベラルーシ・セクシャルマイノリティ連盟」の登録を拒否したことに抗議したもの。

99/4/26
チェルノブイリ事故13周年にちなんで4月25日、約7000人の政府反対派がデモ行進し、ルカシェンコ大統領の政策に抗議した。デモ参加者は、ロシア、ユーゴとの連邦に反対するとともに、反対派大統領選挙候補者であるチーヒル氏を釈放するよう要求した。

99/4/26
社会政治経済独立研究所の調査によると、ルカシェンコ大統領を支持しない人々の割合が、1994年の選挙以来はじめて、支持する人々を上回った。3月に実施された調査では、回答者のうち21.8%が支持者で、26.1%が不支持であった。また、現行憲法の2001年ではなく、1994年憲法に定められた1999年に大統領選挙を希望する割合は54%であった。

99/4/30
反対派大統領選挙委員会は4月29日、来る大統領選挙の実施方法を発表した。当局が投票所の使用を認めないため、地方選挙委員会の代表が投票者を訪ねて投票を実施する。投票日は、5月6日〜16日。
 
 

1999年5月

99/5/3
ミンスク市と労働組合が組織したメーデーのデモに約5000人が参加し、NATOのユーゴ空爆に抗議した。一方、約300人の反対派が官製デモと対立し、19名が逮捕された。

99/5/3
反対派選挙管理委員会のハンチャー委員長は、29日に発表された選挙手続きが妥当であることを述べた。5月6〜16日に、2300の地方選挙委員会から、14000人のスタッフが有権者を訪問し、50%の投票率(350万人)を越えると選挙が成立する。候補者は、チーヒル氏とポズニャク氏の2人であるが、ポズニャク氏は投票は5月16日のみにすべきと主張している。

99/5/6
ベラルーシ反対派は5月6日から、10日間の大統領選挙投票に入った。この選挙は、1996年に実施され多くの西欧諸国が承認していない国民投票によって解散させられた旧最高会議が実施するものである。候補者はベラルーシ人民戦線のリーダーで亡命中のポズニャクと、現在拘留中の前首相チーヒルの2人である。1994年の旧憲法に基づくと、ルカシェンコ大統領の任期は1999年7月20日までである。

99/5/10
反対派中央選管のハンチャー委員長は5月9日、大統領選挙の投票が順調に進んでいると発表。6日から8日の間の投票は76万人(約10%)。

99/5/12
ベラルーシの法務大臣が、反対派大統領選挙に関連して、13の政党・組織に登録停止の警告を発表。今年1月の大統領令によってすべての国内組織は6月1日までに再登録するよう義務づけられている。警告を受けた組織には、ベラルーシ・ヘルシンキ委員会、人権委員会、ベラルーシ人民戦線などである。

99/5/12
反対派中央選管によると、5月11日までの投票者数は約180万人(有権者の23%)に達した。

99/5/14
ベラルーシ人民戦線議長で反対派大統領選挙候補者のポズニャクが候補者から辞退する、と13日の声明で発表された。ポズニャクは以前より、投票を10日繰り上げて開始したことは違反であり、ルカシェンコの国民投票と同じ過ちである、と中央選管を批判していた。BNFの多くのメンバーが地域選管での活動を停止した。中央選管のハンチャー委員長は、ポズニャクの決定はルカシェンコへのなによりのプレゼントだ、とコメントした。投票は継続される。

99/5/14
ベラルーシ大統領補佐官のサゾナウ氏は5月13日、ロシアの政治・経済危機により、ロシアとの統合はますます非現実的になり「dead end」になったと述べた。プリマコフ首相の解任により、統合の話は、2000年のロシア大統領選挙の後まで進展はない、との見解。

99/5/17
5月16日に終了した反対派大統領選挙の中央選挙管理委員会によると、400万余りの投票があり投票率は53%であった。最終結果は5月19日に判明する。2人の候補者のひとり、ポズニャクが候補から辞退したことは、反対派分裂のはじまりと見られている。

99/5/18
EU各国の外相は5月18日、ベラルーシ政府に対し、拘留中のチーヒル前首相を釈放するよう要求した。チーヒル氏はルカシェンコ大統領により1994年首相に任命されたが、1996年の憲法改正国民投票の際、違法行為と大統領権限強化に抗議して辞任した。

99/5/20
5月19日、反対派中央選管委員長のハンチャー氏は、大統領選挙投票率は53%で、選挙成立に必要な数に達したが、選管は選挙無効を決定した、と発表した。その理由は、投票期間中の"irregularities"、当局の妨害、パズニャクの候補辞退という不法行為、である。中央選管は3ヶ月以内に再選挙を行なう。

99/5/25
ミンスクで5月24日、チーヒル前首相とその他の反対派政治犯の釈放を求めて約1000人がデモを行なった。チーヒル氏は反対派大統領候補に登録されて以来拘留されている。バゼルカ検事総長によると、チーヒル氏は、銀行頭取時代にカナダの会社などに不正融資を行なったとされている。

99/5/27
国家新聞委員会は、Naviny紙に対しこの1年で2回目の警告を通達した。その結果、当局は新聞の発禁を命じることができることになった。委員会によると、Naviny紙は2週間前に警官への反感をあおる記事を掲載した。1回目の警告は、2月に反対派大統領選挙について報じた際に出された。

99/5/31
ミンスクの地下鉄ニャミガ駅の地下通路で5月31日、将棋倒しにより少なくとも54人が死亡し100人以上が負傷した。ビールフェスティバルの群衆が大雨を避けるために殺到したもの。
 
 



1999年6月

99/6/3
ミンスク地方裁判所は6月2日、ユリア夫人から出ていたチーヒル前首相の保釈要求を、逃亡のおそれがあるとのことで却下した。チーヒル氏は1994年の銀行頭取時代の不正融資疑惑で3月末から拘留されている。

99/6/7
ミンスク訪問中のステパーシン・ロシア首相は、4日ルカシェンコ大統領との会談で、連邦結成について、「言葉から行動に移す時期だ」と述べた。ルカシェンコ大統領は、ステパーシン内閣の姿勢を歓迎し、「はじめからやりなおす必要がなくて結構だ」とコメント。
99/6/10
ヨーロッパ委員会は6月7日ベラルーシに対し、国際監視団のもとで自由選挙を実施するよう要請した。また、チーヒル前首相の釈放も要請。これに対しルカシェンコ大統領は、内政不干渉が西側諸国との友好の基本であると述べた。

99/6/14
ルカシェンコ大統領は11日、ベラルーシ・ロシア連邦に大統領職ができた場合には立候補する意志のあることを述べた。6月はじめに合意された連邦条約草案には大統領職は設置されていない。

99/6/14
ベラルーシ最高裁は11日、3人のモギリョフ州住民(Yancheuski、Haurylau、Radzikouski)に対し、モギリョフ市大統領府役人Mikalutskiの殺人、大統領へのテロ準備の罪で有罪判決を下した。Yanchenkoは11年、Haurylauは5年の刑。Raddzikouskiは4年の判決だったが、恩赦で即日釈放された。ルカシェンコ大統領は、1997年10月6日の爆弾殺人事件は、西側諸国の陰謀が関係していると語った。

99/6/17
6月10-13日に実施されたミンスクの世論調査によると、物価上昇のため食料・基本物資が買えなくなると心配している人が44%、犯罪の犠牲になるのを恐れている人が30%、NATOがベラルーシに介入しユーゴスラビアのようになるのを心配している人が26%であった。

99/6/24
6月23日、旧最高会議の議員38人がミンスクのレストランで議会を開催したころと、「爆弾がしかけられた」とする特殊警察によって追い出さ、議員らは路上で会議を続行。旧議会が有効とする1994年憲法に基づくと、ルカシェンコ大統領の任期は7月20日で終了。

99/6/24
統計分析大臣によると、ブルーカラーとホワイトカラーの5月の平均賃金は1850万ベラルーシルーブル(42ドル)で、4月の33ドルから上昇した。その理由は、最低賃金が先月2倍になったため。1年前の平均月給は72ドルだった。

99/6/28
1994年にルカシェンコ大統領が就任して以来、600のベラルーシ語による学校が閉鎖され、現在学校でベラルーシ語で学んでいる子供は11%にすぎない。

99/6/29
コルブト大蔵大臣は国民議会の演説で、給料や医療費の支払いが財政不足のため不可能と述べた。国立銀行総裁Prakapovichによると、外国からの借款不足のため、50兆ベラルーシルーブル(約2億ドル)を1999年前半に発行と述べた。

99/6/30
ロシアからの石油供給が減少し、ベラルーシでのガソリン不足が深刻化。ベラルーシの石油専売会社であるBelnaftakhim社は、ロシアに対する8000万ドルの負債を支払いできない。一方、Belnaftakhimは農業への燃料供給を義務づけられているが、その代金を受け取れないでいる。また、価格が比較的に低いこともガソリン不足の一因であるが、政府はインフレを恐れて低価格政策を続けている。