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ウクライナにおけるチェルノブイリ事故被災者と彼らを取り巻く社会状況

 

ボロディーミル・ティーヒー(環境教育情報センター・ウクライナ)


  1. はじめに

1.1ウクライナの国家形態と政治システム

チェルノブイリ事故が起こった時、ウクライナ(人口5100万人)はソビエト社会主義連邦共和国(USSR、ソ連)に属する15の共和国のうちの1つであり、ロシア(人口1億4400万人)に次いで2番目に大きな共和国であった。ソ連は、唯一絶対の権力であるソ連共産党(CPSU)が支配する大変中央集権的な国家で、共産党は、政府、地方権力、軍、商取引、文化など、社会全体を支配していた。

公式には、各共和国が自治権を持っていることになっていたが、実際には共産党中央委員会と、いわゆる連邦政府がすべての重要な決定をモスクワで決めていた。すべての管理は「命令と支配」として知られるシステムの下にあり、中央、共和国、州、地方にいたるまで、共産党委員会がすべての権力組織を握っていた。企業、団体、村、市役所にも共産党の委員会があり、上部組織の決定を履行するように活動した。

産業、住居、食料などすべての物資の配分は、金銭も含めてモスクワの中央政府が決定した。地方政府や企業は、その地方や企業の利益のためにモスクワで裏工作をするのが慣例であった。国家(当時、国家がすべてであった!)に影響を与える実質的に唯一の方法は、下部の共産党委員会で問題を提起することであった。もちろん、党組織上部が支持したアイデアだけが、実施されるなにがしかの可能性を持つだけであった。

1985年、ソ連の新しい行動的な指導者であったミハイル・ゴルバチョフが「ペレストロイカ」、すなわち社会システム全体の再編に乗り出し、共産党の権威は大幅に弱められた。ペレストロイカの重要な特色の一つは「グラースノスチ」、すなわち個人の意見を公に表明する自由、あるいは情報公開などを進めたことである。グラースノスチはチェルノブイリ事故の実態や被害を明らかにするために活用され、やがて、チェルノブイリを広い政治問題にした。

現実の政治勢力は複数の共和国でグラースノスチを利用した。まず最初にバルト3国が独立闘争を開始し、同じ動きはウクライナ、白ロシア、そして他の共和国でも始まった。こうした運動の綱領の冒頭には、しばしば「緑」のスローガン(原発や汚染企業に対する抗議)が置かれていた。そうしたスローガンは愛国的で政治的に中立なため、独立を直接的に訴えるより安全であった。国家の形態を本当に変えなければならないことを示すために、主要な政治勢力はチェルノブイリ事故の影響、それを巡る秘密性、被災者との内容のある話し合いが欠落していることなどを問題として取り上げた。

ソ連は、引き続いていたアフガニスタン戦争、軍拡競争への厖大な出費、1985年の原油価格の世界的な暴落(原油はソ連の主要な輸出商品の一つであり、外貨収入源であった)によって1980年代に大変厳しい経済問題に直面していた。その上、チェルノブイリ事故の処理と汚染対策は厖大な物資と労働力を必要としたため、経済危機はますます深刻になった。アフガニスタン戦争の傷病者、アゼルバイジャンでの軍事衝突での犠牲者、グルジアからの亡命者、アルメニアのスピターク地震被災者、アラル海周辺の住民がすでに緊急の援助を必要としていたし、その上に、多数の放射線被害者が加わったのである。

1991年8月、モスクワでのクーデターが失敗した後、ウクライナ議会(Verkhovna Rada)はウクライナの主権を宣言した。共産党はその役割を失い、その後1年を待たずにソビエト連邦が崩壊した。ウクライナはチェルノブイリ事故の傷を含め、いい面においても悪い面においても、すべてについて完全な責任を持った独立国家となったのであった。

独立ウクライナの初代の政府も、またその後の政府も、チェルノブイリ事故の影響に対処するために厖大な課題を抱えることになった。それらの課題は、1992年から95年の間に起こった急激なインフレと、様々な要因による国家経済の崩壊によっていっそう深刻になった。国民全体の生活レベルが急速に悪くなってしまったため、事故の被災者を保護する適切な処置がとれなくなった。はたして、問題を整理し、それを正しく解決するための政治的な意志や能力があったのかどうか、判断することは難しいが。

 

1.2 チェルノブイリ災害の被災者

  1. 事故処理作業者、「リクビダートル」

 チェルノブイリ事故を伝えるソ連閣僚会議の第1報は、「チェルノブイリ原子力発電所で事故が起こり、原子炉の一つが損傷を受けた。現在、事故の影響を抑えるための対策をとっている」と伝えた。「対策をとっていた」人々が、被災者のうちの第1の大きなグループである「リクビダートル(注:後始末をする人を示すロシア語)」である。

4号炉の爆発により、まず第1に被害を受けたのはチェルノブイリ原発の運転員と消防隊であった。彼らのうちの多くが死に、数百人が病気になった。大災害をそれ以上に拡大させないためには緊急な処置が必要であり、数千に及ぶ専門家や労働者が作業にあたった。たとえば、原子炉建屋の基礎を冷却し補強するために、ドネツク地方の炭坑労働者が、破壊された原子炉の下にトンネルを掘った。彼らのうちの数百人は現在さまざまな病気に苦しんでいる。また、火を消し、放射能を閉じこめるために、5000トンに及ぶ鉛、ボロン、砂がヘリコプターから燃えさかる原子炉の炉心に投下された。この作業に従事したパイロットやその他の人々もまた被曝した。

巨大な建造物である「石棺」は1986年の5月から12月にかけて建てられた。40万立方mを超えるコンクリート、7000トンの鉄鋼が用いられ、数万人の建設労働者、技術者、運転手が派遣され、強烈な放射線のもと、残骸となった4号炉のごく近くで作業にあたった。

チェルノブイリ原発では、4号炉と同じ基礎の上に3号炉が立っており、たくさんの重要な機器を共用していた。しかし、3号炉の運転再開が決められたため、必要な壁を建設したり、数千に及ぶ配管や電気配線を引き直すため、数千人の労働者が余分な被曝を受けた。

もちろん、4号炉とその周辺で働いたこれらの人々は、食料や宿舎や交通手段を必要とした。軍隊と警察の連隊が、30kmゾーン境界の監視にあたった。彼らのうちの大部分は何が起きているのかほとんど知らなかったし、彼らの被曝量が非常に高いこともしばしばであった。

事故後数年間は、建物、道路、機械や装置の放射能を除染することが必要であった。そして、このことによりまた数百人の運転手、放射線測定技師、洗浄作業労働者が被曝した。放射能の除染作業の中で数十の村の家が破壊されて埋められた。そして、発電所近くの、いわゆる「赤い森」(数百ヘクタール)が切り倒され、特別に掘られた巨大な溝に埋められた。

人には食料と基本的なサービスが必要である。その当時、チェルノブイリ原発から30km圏内には、召集された数万人の人々が生活しており、兵たん上の問題がトップレベル、すなわちモスクワで決定された。自動車整備用に建設された広大な区域には、いっぺんに1000人も入れるような、チェルノブイリ最大の食堂も作られた。

 事故当初は「命令と支配」のシステムが依然として強く残っており、国(ソ連)全体が、多かれ少なかれ軍隊のように作業にあたった。巨大な建物を造るために、15の共和国すべてから労働者が集められ、多くは自ら応募した志願者であった(彼らには、健康被害が起きた場合の財政的補償がもっとも高かった)。自発的志願者以外はソ連軍に徴兵された人々で、軍人として30kmゾーン内で必要な作業に従事した。

 労働者はソビエト帝国全体から狩り集められ、そして結局また全土へと散っていった。チェルノブイリでいったい何人の「リクビダートル」が作業に従事したのか、正確な数字は誰も知らない。いくつかの見積もりでは約60万人とされており、最近のデータによれば、ウクライナには約18万人のリクビダートルがいる。もちろん、リクビダートルが受けた被曝量については、はるかに情報が少ない。

 

B.住民

 2番目の被災者グループは住民であり、ここでは、ウクライナの状況を述べる。何よりもまず、原発付近の町や村に住んでいた人々である。そして、戸外で休んでいたかあるいは働いていた人々は直ちに被害を受けた。彼らのうちの一部は急性放射線障害、放射線火傷にさえなったし、すべての人が甲状腺に莫大なよう素被曝を受けた。しかし、そんなことは始まりにすぎなかった。結局、彼らは、家、財産、仕事、生まれ育った土地を失うことになった。

 事故の2日目に、5万人のプリピャチ市民が避難させられた。その後数ヶ月あるいは数年たってから、さらに多くの人々が彼らの家から強制的に引き離された。住民たちは新しく建設された村に移住させられ、また多くの人は、親類や友人のところに避難しウクライナ全土に散っていった。彼らは避難民として周囲の冷たい視線のもとで生活することになった。思いやりのない人々の中には、彼らをらい病患者のように見る人たちもいた。

 汚染地からの避難は長い年月にわたって続いた。ウクライナ閣僚会議の計画では、1990年から91年にかけて、汚染地域から4万5000人を避難させることになっていた。1990年の時点でウクナイナ国内の汚染地には約150万人が住んでいた。汚染地域の住民たちは、野生のイチゴやキノコを食べることを禁じられた(昔から「森の贈り物」と呼ばれ、これらの地域では日常食の重要な部分を占めていた)。彼らは自分たちの牛や山羊のミルクを飲むことを禁じられ、ミルク、肉、ジャガイモ、亜麻布を生産してきた昔からの集団農場は崩壊した。

 避難した人々の生活状態が、今なお汚染地で生活し続けている人々に比べて、ましであるかどうかは難しい問題である(原発職員のごく一部の人たちや、そのほかの特権的な人々はキエフやその他の大都市に快適なアパートを与えられたが…)。避難民用の新しい居住地は時間的な制約のもとに急造されたため、多くの場合大変居心地が悪かった。そのため、多くの人々が原発周辺の30kmゾーンを含めて、避難ゾーン内の彼らの家に舞い戻った。

 家屋の喪失、強制的な中絶、甲状腺被曝による病気など、直接的ではっきりとわかる被害もある。しかしまた、ストレス、生活状態の変化、不確かさとかいった目に見えない被害もある。もちろん、「リクビダートル」の家族もまたたくさんの被害を被っている。

 

1.3 真相を明らかにするためのマスコミと民衆の活動

チェルノブイリ事故に関する情報をソ連政府がどのように管理したかは、1986年6月27日の短い命令に象徴されている。「以下の情報は秘密扱いとする。事故に関する情報、被災者の治療結果についての情報、リクビダートルの被曝に関する情報」。リクビダートルと汚染地住民に発生したおびただしい病気は「放射能恐怖症」と名付けられた。

事故の真相を明らかにしたのは、ペレストロイカとグラースノスチであった。すでに述べたように、ソ連の多くの共和国で民主的な運動が現れ、その多くは「緑」に彩られていた。ウクライナでは1988年11月、非公式つまり共産党の命令ではない集会とデモが初めて開かれたが、それは、ウクライナ環境連合「緑の世界」によって組織されたものであった。それまで当局は、チェルノブイリ事故の被災者の数、汚染地域で生活することの危険性を隠してきたし、リクビダートルや避難民の保護をしてこなかった。そして、この集会で参加者は、そうした当局の対処の仕方を非難した。

情報公開において、もっとも役に立ったものの一つは、ジトーミル州ナロジチ地区の放射線レベルの真相を暴いたGeorgi Shklyarevskyによる記録映画(「マイクロフォン」)であった。いくつかの映画、たとえば「発端」などは当局によって握りつぶされたが、この記録映画の後、他のジャーナリストによる映画や報告が相次いだ。

リクビダートルの被害を明らかにする上で、大変重要な役割を果たしたのは、Rollan Sergiyenkoによる記録映画(「発端」、「チェルノブイリの鐘」など)であった。チェルノブイリ事故の概要や病気になった子供、「禁じられた30kmゾーン」のうち捨てられた村や住民について、西側のいろいろなマスコミが取り上げた。それらは西側諸国の人々の注意を喚起し、チェルノブイリ被災者の救済運動を呼び起こした。

1988年の秋から89年の始めにかけて、ソ連邦人民代議員(人民代議員の役割は、西側の民主制度の中での国会議員に似ている)選挙、それもほぼ自由なはじめての選挙が行われ、選挙運動が始まった。多くの候補者が彼らの選挙綱領にチェルノブイリ事故関連の要求を取り入れた。たとえば、ジトーミル州から立候補したアラ・ヤロシンスカヤは、彼女の綱領の中に次のように書いている。「ナロジチ地区の放射能汚染による被害データは人々の目から完全に隠されてきたが、それを公開させる必要がある。そこには放射線レベルが極めて高いたくさんの村がある。放射能汚染している場所に新たな建築作業が行われており、すでに5000万ルーブルを超える資金が投入されている。このような建築作業の無益さを調査することが必要である。」

秘密主義に反対し、チェルノブイリ事故被災者の利益を守るための本格的な闘いは、1989年5月25日から6月10日までモスクワで開かれた第1回ソ連人民代議員大会で開始された。ウクライナからの人民代議員、Volodymyr Yavorivsky、Yuri Shcherbak、Borys Oliynyk、Alla Yaroshinskaらがチェルノブイリ被災者を救済するように発言した。会議直前の5月24日、ソ連政府はチェルノブイリ事故による情報を公開するとの決定を下した。ただ、痛ましいことに、被災者を真に救済することに比べれば、真実を明らかにすることなど容易なことであった。

1989年に記録映画「マイクロフォン」が西側で公開されたときに、国外向けの情報の壁も崩れさった。その年、Volodymyr Yavorivskyは米国でチェルノブイリ影響について公然と発言し、Yuri Shcherbakはスイス議会(スイスでは、スイスの原子力産業の将来について、国民投票が準備されていた)の公聴会に招かれ、またアラ・ヤロシンスカはフランスで開かれた、原子力に反対する大規模な集会に出席した。

チェルノブイリの問題を解決するには多くのことがなされねばならいことが明らかになった。しかし同時に、ソ連中央政府の金庫が空っぽであることも確かであり、ウクライナ政府は自らのチェルノブイリ政策を立案しなければならなかった。それが、1990年に選出された新しいウクライナ議会の仕事となった。ウクライナ議会の数百人の候補者たちが、チェルノブイリ問題を彼らの選挙綱領に取り入れており、チェルノブイリ被災者救済の問題は現実の政治課題になった。チェルノブイリ基本法が制定され、それを実行するために資金が必要となった。

乏しい財源があちこちで必要とされ、一方、ウクライナの経済危機は容易ならぬものとなった。そこで、汚染を除去し影響に対処するために、チェルノブイリ特別税を導入することが決定された。ここでは、それらの資金がどの程度有効に使われたかという疑問は、脇に置いておこう。

 

2.被災者を救済するために国家が行った活動

すでに1.1で述べたように、ここでいう「国家」とは、1986年から91年まではソビエト連邦およびその一部であるウクライナ・ソビエト社会主義共和国をさし、1991年12月以降は独立国家ウクライナを指す。権力のうちの立法府と行政府はともに、しばしば「政府」と呼ばれ、両者の関わり合いは明確でない。ここでは、それら両者の活動と功罪を議論することにする。

もちろん、国家(政府)(いや、いまならむしろ納税者が、といいたいところだが…)が、チェルノブイリ被災者を助けるための大きな役割を果たした。しかし、大衆の活動こそ、影響を明らかにする上で必須のものであったし、国家に様々な重要問題を知らせてきた。大衆もまた「独自の」、非政府援助の大きな役割を果たした。このことは、本報告の第3章で取り上げる。

 

  1. 1 「命令と支配」のソ連時代:

チェルノブイリのような大規模災害に対しては、国家には何等の備えもなかった。そのため、重要な決定の大部分は、必要となってから慌てて立案された。幸い、事故直後には物資も資金も利用できたし、党、国家、軍の「確固とした連合」による指揮命令系統も存在していた。ただし、この指揮命令系統は完璧なものではなく、急速に崩壊していたし、チェルノブイリ事故そのものによってまた土台をつぶされていった。

チェルノブイリが引き起こした災害は、少なくとも事故当初、大衆が関われるような政策課題ではなかったし、いかなる政治機構でもそうであったろう。ソ連の人々は無言であったし、彼らは投票権を持っていなかった。彼らが投票権を得たのは、1989年のソ連第1回人民代議員大会がはじめてであった。

ソ連における行政権力、閣僚会議とたくさんの省庁は、1989年まで最高会議(国会)から実質的に独立して行動していた。事故直後には、影響を隠し、できるだけ小さく見せようと試みられていて、こうした態度を変えさせるには多くの努力が必要とされた(本報告の1.3および3.1参照)。

チェルノブイリ原発とその周辺で働いていた人々、および避難民に対して補償をすると決めたのは、1986年5月7日の共産党中央委員会およびソ連邦閣僚会議であった。汚染地から避難させられた人々は家財の補償及び一時金として、1人当たり4000ルーブルを受け取り、労働者には割り増しがあった。しかし、その特別な補償にしても、彼らが実際に失った家財に比べれば数分の一にしかならなかった。

避難中および事故後1週間の間に流産してしまった女性に対しては、もちろん、何らの補償もなされなかった。そうした女性の人数も不明であるし、妊娠中の女性に対して中絶が勧められたのか否か、またどのような基準があったのかも明らかでない。事故後の1週間の間に、2000の医療チームが「子供と妊婦に特別の注意を払いながら」(1,p.540)、30kmゾーンからの避難民13万5000人を調べたにもかかわらず、このことについての情報は失われてしまっている。時間を元に戻し、母体と胎児に加えられた厖大な被曝をなくすことができたのであろうか? 被曝による将来の被害を消し去ったり、少なくすることができたのであろうか? 中絶することが望ましいのか否か、あるいは必要なのか否かについては、キエフを含めチェルノブイリ周辺のすべての地域でも広く議論されたのであるが。

1986年の8月中旬までにチェルノブイリ周辺のウクライナ側では、9万784人が避難した。ウクライナ閣僚会議の布告により、農村地帯からの避難民用に、1万1000軒を超える1戸建て住宅が建設された。プリピャチ市(5万人)とチェルノブイリ市(1万2000人)からの住民には、キエフ、チェルニゴフをはじめ、ウクライナやその他の共和国の市でアパートが提供された。彼らの多くは、チェルノブイリ原発の運転再開後、その従業員のために建てられたスラブチチ市に1988年10月に再移住した。

アパート、給付金、補償金の配分にあたっては、いつものことながら、たくさんの職権濫用が現れた。人々は自分たちの問題を解決するために、検察官事務所、地方及び中央の共産党委員会、閣僚会議などに訴えの手紙を出した。あらゆるレベルの人民代議員、ジャーナリスト、大衆組織が、それら手紙を「権力の階段」を通して上のレベルへと持ち上げていった。

避難民はたくさんの問題に直面した。新しく建てられた家の質は往々にして悪く、寒くまた湿っていた。移住先の自然条件はチェルノブイリのものと違っていて、たとえば、チェルノブイリが森に囲まれていたのに、移住先は森のない草原地帯であったりした。人々は苦痛を訴え、一部の人は、一度は捨ててきた彼らの村に舞い戻った。1988年秋には、1000人を超える人々が、30kmゾーン内に住んでおり、彼らは概してお年寄りの年金生活者であった。彼らに対するいくらかの援助は、30kmゾーンの管理局が行ったし、時々、人道援助組織からの物資が届いた。

ソビエトの8つの共和国が共同して作った特別な町、スラブチチでさえ、医療が欠如し、食糧が不足し、そして不安定な生活にあえいでいた。かってのプリピャチ住民であった2000人を超える人たちが、スラブチチで大衆組織「プリピャチ社会」を作り、以下のような重要な問題を訴えるアピールをたびたび発表している。「我々の本当の被曝量を誰が計算してくれるのか? 多くが病気になっている我々の子供に対して誰が医療処置をし、その責任は誰にあるのか? いつになったら、我々は、失った健康の補償を受けられるのか? スラブチチの町は放射能汚染地帯の中にある。我々は、それに見合った特典をえられるのか?」(2.p.105)

同じような問題は、ナロジチ、オブルチ、ポレスコエなど、その他の多くの地域の人々からも出されて来た。莫大な投資がされているのに、なぜ汚染レベルが高いところに住まねばならないのか、と彼らは指摘した。「我々の地域には2万5000人が住んでいる。この地域で、新しい建物を建てるためにすでに6700万ルーブルが投資され、今年は3700万ルーブルの投資が予定されている。この合計の資金があれば、5階建てアパートを90棟建設できることが容易に計算できるし、それならば、すべての住民が家を持つことがでたはずだ。この土地から住民を移住させるべきだと決定される時に、これらの資金はいったいどこに投資されるのか? こうした無駄に使われた数百万ルーブルが誰の懐に入るのか? 我々が、「きれい」といわれる土地で、自分で食物を生産できるのに、なぜ「きれい」な食料が外から提供されるのか?」(2.p.147)

こうした疑問には、未だに答えられていない。放射能汚染の除去作業と建築作業がすべて終わった後、1997年現在、ポレスコエとナロジチやその他の地方のたくさんの村が放棄されている。

汚染地域の多くの人たち、特に子供のいる人たちは移住を望んだ。また一方には、彼らの土地に住み続けることを望んだ人々も多くいた。ただ、彼らは生活基盤(ガス、水道、舗装道路、医療施設)の改善と金銭的な補償を要求した。これら二つの意見はいずれも、それを実施するのに莫大な費用が必要となり、ソ連政府はそれらの間で揺れ動いた。そして2年後には、ソ連中央が行っていた資金調達の重荷はウクライナへと移された。

移住か補償のどちらを選ぶべきかは、極端に議論が分かれる問題であった。ところが、決断をするための科学的、法的な基礎知識が存在しなかった。たとえば、そのことを、1989年5月にタス通信が以下のように伝えている。「ウクライナ保健省は、汚染地域においては、放射線によるいかなる「先天的な異常」もガンも血液の病気も増加していないといいながら、汚染地域にある5つの村に対して移住を勧告した」(3)。

1989年末までに、放射能汚染を除去しようとしてもうまく行かないことが明らかになり、14歳以下の子供を持った家族は汚染した村から移住してもよいとの布告を、ウクライナ閣僚会議が出した。この布告の中には、汚染地域に置いて行かねばならない家財道具に対する幾ばくかの補償も含まれていた。汚染地域に住み続ける住民の補償と療養のために要する費用は、住民を移住させる費用に比べて2倍以上高いということが、80年代の末までの計算で明らかにされた。

1990年から92年の間に、ウクライナ閣僚会議は、強制避難、自発的移住、汚染地域に住み続ける住民への補償について、いくつかの布告を出した。1990年から91年においては、強制避難者の数は1万3658人、「自発的」な移住者の数は5万8700人であった(1,p.88)。

1995年までに、チェルノブイリ周辺の57のウクライナの村と居住地では、事故前の人口が半分以下に減っていた(強制避難させられた居住地のことではない)。

リクビダートルもまた適切な医療処置を受けられなかったし、年金や失った健康に対する補償も低いものであった。彼らの多くは疾病障害者になっていたが、病気の原因が、30kmゾーンで働いて被曝したことにあるとの当局の証明を受けることができなかった。リクビダートル用の特別病棟や診療所において、彼らはハンガーストライキを行った。

1990年3月、ソ連邦閣僚会議と労働総同盟中央会議はリクビダートルの身分を定義し、彼らに恒常的な医療検査を行うこと、また、いくつかの特典を定めた規定を採用した。1990年6月1日からこの規定は発効し、リクビダートルとしての最初の証明書が発給された。しかしながら、「ソビエトの正義」はもはや働かず、規定を実施するためには実行力のある法令と機構が必要なことは明らかであった。

1989年9月から10月の間に、ウクライナSSR(ソビエト社会主義共和国)、白ロシアSSRおよびロシア連邦はチェルノブイリ事故の影響に対処するための合同将来計画を作り上げ、ソビエト連邦の最高会議(国会)がそれを承認した。その作業に沿い、ウクライナ議会(Verkhovna Rada)は1991年2月28日に「チェルノブイリ事故被災者の身分と社会保障」法案を通過させ、同時に、「チェルノブイリ事故で強い放射能汚染を受けたウクライナSSRの地域における、安全な生活の概念」を承認した。

同時に、これらの法令を実施するために必要となる財源についても議会は決定した。チェルノブイリ事故影響に対処するための特別基金に、個々の企業は給与総額の19%(のちに12%に改訂)を納入することが義務づけられた。

 

2.2 被災者救済法とその実施

1991年2月28日、ウクライナSSR議会はチェルノブイリ事故の被災者を救済するための法律を採択した。それは、チェルノブイリ・ロビー、すなわち、リクビダートルや汚染地域住民から選ばれた人民代議員および彼らの組織の真剣な努力のもとに立案されたものであった。この法律はその後、実施上いくつかの経済的な誤算があったため、1992,93,96年にいくつかの大きな改正が加えられた。

(第一条)「この法律は、チェルノブイリ事故被災者を保護し、地域が放射能汚染を受けたために生じた医学的および社会的な問題を解決するためのものである。

チェルノブイリ事故被災者を社会的な面で保護するための国の政策は、以下の原則に基づく。

−チェルノブイリ事故被災者の生命と健康が最優先の課題であり、安全で無害な労働環境を作ることは国家の責任である。

−(中略)

−住民の社会保障、チェルノブイリ事故被災者が被った損害の完全な補償。

−チェルノブイリ事故被災者と彼らの組織に対しては、税の減免措置をとるという経済的な政策によって、生活条件を改善する」(引用は、本報告の筆者による非公式の翻訳である。以下同じ。)

1996年に追加された第70条によって、この法律で保証される利益や権利を守るために、市民は法廷で争う権利を得た。

A.法は、事故処理作業に従事した人々(リクビダートル)、および汚染地域に住む(子供を含む)人々(被災住民)の2つのグループを明確に区分している。また、子供は独立したグループとして、特典と補償を受ける(法、第X章)。

リクビダートルと被災住民は4つの被災者レベルに分類される。これら4つのレベルは、作業中に受けた、あるいは汚染地域に住むことによって受ける健康被害(すでに現れたものも、潜在的なものも)の程度に従って定義されている。こうした被災者レベル毎に、「補償と特典」が定められている(第W章。市民の社会保障:補償と特典)。

チェルノブイリ事故によって健康を害し、疾病障害者と認定された人(リクビダートル、被災住民の両者)は第1レベルに入る。このグループに入るためには、「病気とチェルノブイリ事故との間の因果関係を確認する」ための特別医療委員会の証明(医療診断や記録に基づく)を受けなければならない。この委員会は、各州の中心都市に設置されている。

現在障害を受けていないリクビダートルが、第2レベルと第3レベルのどちらに属するかは、彼らがいつ、どの程度の長さにわたって事故処理作業に従事したかによって決まる。本当に作業に従事したか否かは、任務についた組織の記録によって証明される必要がある。たとえば、第2レベルに入るためには、「1986年4月26日から7月1日までの間に1日以上、あるいは7月1日から86年の年末までの間に5日以上、あるいは1987年に14日以上」働いていなければならない。その他の場合は、第3レベルとなる。

B.被災住民がどの被災者レベルになるかは、法の第2条「放射能汚染地域の分類」に規定されている土地の汚染レベルごとに定められている。汚染地域は、4つのゾーンに分けられている。

最も高い汚染を受けた地域は第1ゾーンとされ、この地域は、1986年に住民が避難した、いわゆる「強制避難ゾーン」である。「強制(義務的)移住ゾーン」(第2ゾーン)、「希望すれば移住が認められるゾーン」(第3ゾーン)、「厳しい放射線管理が必要なゾーン」(第4ゾーン)は汚染レベルによって区分けされる。たとえば、セシウムの汚染が1.0〜5.0 Ci/km2、ストロンチウムなら0.02〜0.15 Ci/km2、プルトニウムなら0.005〜0.01Ci/km2の地域は第4ゾーンに属することになる。また、この他にも国の放射線防護委員会が定めた付加的な基準がいくつかある。

個々の被災者がどの被災者レベルに入るかは、どのゾーンで、いつ、どれだけの長さにわたって生活していたかによって決まる。たとえば、「事故の起きた日に、強制移住ゾーンに定住していた人、あるいは1993年1月までに最低2年以上、その地域に住んだ人」は、第3レベルに属する。

第2、第3、第4レベルへの分類は、すでに現れた健康被害(病気、よくある体調不良、あるいは精神的な不調)や、現在は現れていないが将来現れる可能性のある害に基づいて決められているわけではない。

被災者数の変化は衝撃的である。その理由の一端は、被災者の社会保障を充実させるため法令が変わったことにもあるし、また新しく子供が生まれたためでもある。ウクライナの法律によって被災者と認められた人の数は、1986年に54万人であったものが、90年94万人、95年320万人(うち子供が99万7000人)に増加した(1,p.129)。

チェルノブイリ事故による子供の被災者は7つに分類されている。強制避難ゾーンからの子供、その他の汚染地域に住んでいた子供、第1、第2、第3レベルに属する親から生まれた子供、甲状腺ガンやその他の放射線障害にかかった子供、保健省の基準以上に甲状腺に被曝を受けた子供である(第27条)。子供の被災者に対する医学的な処置は他のすべての課題よりも優先され、最高の医療施設と保養施設が使われる。子供のチェルノブイリ事故被災者は大人の被災者と同じ特典と補償を受ける。こうした処置がどれほど能率的に行われ、また政府がすべての被災者に等しく機会を与えているかどうかは不明である。

C.法には、この他に3つの特別な章がある。第W章は、主として避難(あるいは移住)によって財産を失った人々に対する補償と援助について規定している。また、この章は、彼らに新しい住居を提供することについても規定している。

第Z章は、汚染地域で働く人々の労働規則と賃金を定めている。

第[章は、チェルノブイリ事故によって疾病障害者となった人々に対する年金と、一家の大黒柱を失った家族に対する補償について特別に定めている。

社会保障システム「補償と特典」に従って、高いレベルに属する被災者は、より多くの特典を受けることができる。この社会保障システムを構成している主なものは、健康(治療)、リクレーション(休暇と保養所)、アパート・家・水道・ガス・電気の料金割引などのような物質的な補助、学校・大学などの社会的な便宜、税金の減免、年金支給年齢の引き下げと高い年金、交通機関の恩典などである。

第1グループに対しては32項目に上る長いリストがあるし、その他のグループに対しては幾分短いリストがある。

ただ、このシステムが法で定められたすべてを完全に実行している訳ではない。アパートや家を待っている人、病院のベッドが空くのを待っている人、約束された自動車を待っている障害者などがいつもいた。公表されたデータによれば(実態がいかなるものかはわからないが)、割り当てられた国家財政では、1991年には被災者の1/2、92年には1/3、95年には1/8のレクレーション費用がまかなえただけであった。(1,p.128)

たとえば、被災者はどのレベルに属していようと、医薬品は無料のはずであったが、薬局には必要な薬がなかった。そのため、せっかくのこの規定は往々にして役に立たなかった。

リクビダートルに対する税の減免や、輸入品に対する関税免除などのいくつかの特典は直ちに悪用された。2週間ごとに新しい自動車を輸入するリクビダートルや被災住民がいることを、新聞紙上でたくさんの報告が告発した。また、関税なしで商品を輸入し、それを売り払っている企業もあった。もちろん、こうしてもうけた資金は「チェルノブイリ事故被災者の保護」のために使うよう注文が付けられてはいた。しかし、彼らにそうさせることは難しかった。その結果、税金と輸入にあたっての特典はじきに廃止された。

法律が承認された時点では、レクレーション費用、給料への上積み、「きれいな」食料のための費用の支給など、いくつかの特典には意味があった。しかし現在では、それらの多くが無いに等しくなり、単に会計担当者の仕事を増やしているだけになってしまった。たとえば、第3ゾーンで「きれいな」食料を買うために支給される金銭は、月に2.10グリブナ(1.1ドル)である。

この法はまた、いわゆる「社会主義者の配分システム」の特徴をすべて備えている。事故当時(そして現在もまた往々にして)、国家こそが住居、通信手段(電話)、教育や交通機関などの最大の所有者であり、投資者であった。これらのサービスや施設を容易に利用できる権利(第1順位でとか、順番を飛び越えてとか)は、それだけで利益があるし、法がそうした権利をしばしば定めている。実際に、このシステムは働いた(悪用しようとする大きな誘惑でもあった)。リクビダートルは、「順番を飛び越えて」モーターボートや電気掃除機を買うこともできた。

法が通過したのとほぼ同時に、関連する問題を取り扱うために、国家チェルノブイリ委員会(後のチェルノブイリ省)が設立された。社会基盤(社会保障、治療など)を握っている地方の行政機関もまた、これらの活動にきわめて密接に関係した。州政府ごとに、「チェルノブイリ」特別部局が設置され、現在もそれが被災者の補償や要求への対応に責任を負っている。

D.補償には、健康に対するものと、失われた財産に対するものの2つがある。健康への補償は、議会が決めた月額最低賃金(1997年時点で、17グルブナ、9.20ドル)に基づいて計算される。

たとえば、第1レベルに認定された疾病障害者(原則として、このレベルの人々は、働くことができず、日常生活での介護が必要である)への一時金補償額は、最低賃金60ヶ月分(1020グルブナ、550ドル)である。また、彼らの家族や子供への補償もある。

被災者は、どのレベルであろうと、いずれも年金の上積みと支給年齢の引き下げを受ける。第2レベルに属する被災者の場合は、年金支給年齢が8歳引き下げられるため、本来なら60歳にならないと受けられない年金を52歳で受けられるようになる。また、このレベルに属する年金受給者は、最低年金額の30%を上積みして受け取ることができる。

失った財産の補償については、法の特別の章で定められている。移住前後の生活条件にきわめて大きな幅があること、およびウクライナの経済状態が急速に変化し悪化していることのために、この問題は事故直後からずっと大きな論争となっている。

もう一つの重大な問題は、避難住民や移住住民のための家屋と社会基盤の建設についてであった。莫大な国家財政が(国家による全資本投下の15%にものぼった)この建設のために使われるのに伴って、建設資材や資金の悪用が大変頻繁に発生した。そして当然のことながら、建設計画は目標に達しなかった。1992年においては、移住は計画の19%、家屋の建設は28%しか達成できなかった(5,p.668)

補償、特典、事故影響に対処するための直接的な経費(たとえば、30kmゾーンの社会基盤の維持)はウクライナ経済に信じられないほどの負担となった。これらの出費がウクライナ国家予算に占める割合は、1992年15.7%、93年5.4%、95年3.4%であり(1,p.79)、なかでも補償費用が最大の出費項目であった。チェルノブイリ予算(推定)の構成は以下の通りである。補償:50%、移住:20%、治療:9%、「シェルター(石棺)」と30kmゾーン管理:5%、農業と森林:6%、その他:10%。すでに述べたように、これらの資金は、企業が給与の12%分を支払って運営されているチェルノブイリ特別基金によってまかなわれている。

ウクライナ議会と閣僚会議は、資金やその他の資源を厖大に必要とする様々な他の社会分野、たとえば、一般の社会保障、医療、教育、汚染地域以外の地方当局など、チェルノブイリ問題に関係していないところから強い圧力を受け続けてきた。たしかに、チェルノブイリ被災者は、他の被害者に比べて大きな特典が与えられており、不公平のように見える。なぜ、チェルノブイリと放射線被災者だけが、それほど優遇されるのか?  他の環境危機、たとえば、DniprodzerzhynskやMariupolなどのような極度に汚染された町は、なぜ優遇処置を受けられないのか? ウクライナの多くの地域には、おそらく高濃度の化学物質による空気、水、食物の複合汚染が原因で、髪の毛を失う子供たちが時々いる。チェルノブイリの子供たちは優遇され、なぜ、こうした子供たちは優遇を受けられないのか? この鋭い疑問に、答えは全くえられていない。

すでに述べたように、汚染地域で働く組織や「チェルノブイリ」関連組織の輸入品に対して与えられていた免税処置は、すでに廃止された。

 

  1. ウクライナ国内・国外の被災者救援のための民間活動
  1. 国際的な医療活動と人道援助

この章では、チェルノブイリ被災者を助けるための「非公式」の国際的な非政府組織を特別に取り上げる。ウクライナの人々からは全く否定的な評価しか受けていない、いくつかの国際組織(IAEAやWHO)のプロジェクトについては、ここでは取り上げない。それらのプロジェクトの目標は、ウクライナのそれぞれの学術団体に研究上の援助を与えることを通例としている。そのため、これらのプロジェクトは、いくつかの治療問題に関わることがあっても、被災者の救済に直接的に関わることはない。

チェルノブイリ原発が爆発した時、ソビエトの支配者たちはまだ国家の窮乏状態を理解しておらず、ウクライナ共和国共産党第一書記、Volodymyr Shcherbytskyに率いられていた当時のウクライナ政府は、外国からの援助を拒絶した。

それでも、ミハイル・ゴルバチョフが始めた情報公開政策は、徐々に「鉄のカーテン」を解体していった。ソ米・平和行進や生態学に関する会議では、チェルノブイリ被災者問題が取り上げられた。

援助は、はじめ非政府組織や慈善基金からやってきた。当初は、放射線測定機器や医療機器であったが、次第に医薬品、ビタミン、食料へと変わっていき、子供を守ることに努力が集中された。

チェルノブイリ被災者を救援する外国からの活動が広がるにつれて、ソビエト連邦の民主化の動きも進んでいった。もちろん、諸外国の援助者は、最良の援助がいかなるものか、また、どうすれば援助を実質的に広く行き渡らせることができるのか、ウクライナ国内の組織からの協力を必要とした。当初から、このような国際的な接触は、「Zeleny Svit(緑の世界)」、「チェルノブイリ同盟」、「ルフ(運動)」のような新しく生まれたNGOが主導権を取って担ってきた。また、労働組合、青年共産主義者前衛同盟、ウクライナ平和行進などのような、ソビエトにおいて確立された権威となっていた「疑似NGO」は仲介者の役割を担うことになった。ルフは1989年に設立され、後に政治党派となって行った。

同時に、諸外国においては、いくつもの“チェルノブイリ基金”が始まった。1989年10月、米国訪問中のVolodymyr Yavorivskyはチェルノブイリ被災者の悲劇を防ぐために米国の援助を訴えた。そして、米国人は医薬品、ビタミン、粉ミルクなどの人道物資をウクライナに送った。ウクライナ系米国人Matkivskyとその仲間たちの家族が、チェルノブイリ基金を作り、この時のすべての組織化を行った。この物資は、独立とペレストロイカを目指したウクライナの運動体、Rukhによって、汚染地の住民たちに配られた。1989年春、リクビダートルとチェルノブイリ原発の元職員が、彼ら自身のNGO、「チェルノブイリ・ソユーズ」(チェルノブイリ同盟)を設立した。

1989年から90年にかけて、その他の多くの国際的な活動が取り組まれた。ここで、そのいくつかを簡単に紹介しておこう。ただ、ここで紹介する活動は、それが優れているとか、独自性があるとかの理由で選んだのではなく、筆者がその活動になにがしか加わったという理由で、選んだものである。

A.ミュンヘン大学のエドムンド・レンフェルダー教授は、被災者を支援するための大変魅力的な計画を提案した。ドイツの多数の組織や当局(大学、市、国を含める)が放射線測定機器、診断用機器、治療機器などを、ウクライナと白ロシアの病院に送った。この活動は、3国(ドイツ、ウクライナ、白ロシア)の共同で計画されたが、後にドイツは彼らの力を白ロシアに集中させるようになった。ただ、後日、ドイツ人が点検調査に訪れた時、高価な診断用機器がしばしば使われないままであったことが発見され、ドイツ人たちを失望させた。

B.フランスの組織「人民の医師たち」はチェルノブイリの子供たちを診察するためキエフに診療所を設立した。彼らは、現地の医療機関と密接な関係を保ちながら活動した。残念ながら、彼らは診察した病気の子供たちにほんのわずかの治療しか施さなかったため、「我々を実験材料としている」との批判を受け、1年後に撤退した。

C.ウクライナに最初にやってきた国際組織の一つはグリーンピースであった。1989年、グリーンピースは「グリーンピース・チェルノブイリの子供たち」という名前を付けた事務所を設立した。この事務所の目的は、チェルノブイリの子供たちのために最新鋭の設備を持った病院を作ることであった。ウクライナ側の医療当局や政府当局との交渉は難航を極めたが、結局は必要な承認を獲得した。残念ながら、子供病院の1つを改造する計画ができあがった時、ウクライナ側が合意を破棄してしまった。グリーンピースは、キエフのある子供病院で生化学実験室を作っていたが、それを中止する羽目になった。カナダの専門家と医師は、その後1年にわたってウクライナの医師たちが必要とする分析を行うために実験室で作業した。最終的に、その実験室はキエフ市に寄付された。アルバータ大学は、カナダ政府の交付金をえて、ウクライナの医師たちを訓練するためのプログラムを続けた。

次にグリーンピースは(国際ルネサンス(SOROS)基金およびウクライナ環境連合「Zeleny Svit(緑の世界)」と共同して)、チェルノブイリ周辺の土、食物、水の放射能汚染などを調査するための独自の環境研究室を設置した。

D.大変魅力的なプロジェクトの一つは、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)スイス支部のマーチン・ウォルター博士によって始められ、その後SKH(スイス災害救助委員会)によって強化されたものである。スイスの組織は、キエフ州ポレスコエの地区病院に最新の診断用機器を設置し、その後数年にわたってスイス人医師がポレスコエに滞在して、ウクライナ人の同僚とともに働いた。信じがたいことだが、(天然ガスの供給網が敷かれ、新しいアパートが建てられ、道路が造られ、放射能汚染に数百万ルーブルの資金が投入された後になって)1990年代半ばにポレスコエは放棄された。

 

一般的に言って、ウクライナの医療当局は友好的ではあったが、大変建設的というわけではなかった。外国の組織が、放射線症や被害を受けた子供についての貴重な情報や秘密情報を奪いに来るのではないかと、彼らはいつも疑っていた。ウクライナの医療組織や医師たちから、感謝の手紙をもらうこともめったにできなかった。

たくさんの外国の組織が、高度で高価な治療を含めて、子供への援助に関わった。“チェルノブイリの子供達を救う”プロジェクトは、子供たちのグループを組織して自国でホームステイさせたり、ウクライナ内で休養させることなど、いろいろな形で取り組まれた。東西ヨーロッパの数十の国、旧ソ連、米国、その他の国々がウクライナからチェルノブイリの子供たちを招待した(1997年現在もまだ続いている)。ウクライナでは、あらゆる種類の組織が外国の援助団体の協力者として働いた。いくつかの活動を以下に紹介するが、これらはわずかの例にすぎない。

事故後間もないころには、子供たちはしばしば綿密で特別な医学検査を受けた。しかし、後になって、それは不必要と思われるようになった。たとえば、チェルノブイリの子供たちを毎年キューバの病院で治療するようなプロジェクトについては、様々な議論があった。多くの専門家は、キューバの気候は暑すぎるし、交通費が高すぎると指摘したが、このプロジェクトは続いている。

厖大な人道援助物資がウクライナに受け入れられた。医薬品、注射器、ビタミン剤、粉ミルクなどで、毎年、数十台分の20トントラックや航空貨物によって運ばれた。多くの場合、それらの物資は病院や診療所に配られたが、時には多人数の家族や障害者に直接配られた。

食糧供給の実際については、いくつかの説明が必要である。ウクライナから白ロシアにまたがるポレーシエ地方は森林に覆われた大変貧しい田舎である。そこにあるのは小さな村々であり、道路網は著しく悪い。昔から住民たちは、ミルク、乳製品、ジャガイモなどの食料を自給自足していて、野生の木の実やキノコは、日常食として重要なものであった。事故後、ミルクは放射能で強く汚染されたため、子供や赤ん坊にはとうてい勧めることができず、何が何でも緊急に取り組まねばならない問題であった。安全で新鮮なミルクを供給することは実際上難しかったし、子供や赤ん坊向けのソビエト製の食品は(当時の、他の多くの企業製品と同じように)大変酷いものであった。外貨状況が厳しかったため、ベビーフードを輸入することもほとんどできなかった。このように、赤ん坊と子供用食料の荷物はどんなものであれ、大変貴重であった。

こうした人道援助の活動では、外国側からもウクライナ側からも失望の声があがった。外国側は、寄贈品が不公平に分配されていることを問題にし、ウクライナ側は、医薬品が期限切れのものであったり機器が壊れていたとして外国側に文句を言った。役所が調整しようとしたこともあり、1991年のウクライナ医学会・世界連合の会議において、調整委員会の設立が試みられた。幸か不幸か、会議の共同議長のいずれもが実際にはこの仕事を始めなかったため、調整委員会はできなかった。しかしながら、調整の必要性は大変切迫したものであり、1992年には、同じようなアピールがVolodymyr Yavorivskyによって表明された。

結局、ウクライナ閣僚会議の中に人道援助委員会が設置された。副首相が委員長となり、人道援助物資の受け入れと配分に関するすべての問題を解決するために作業を続けてきた。1992年12月28日までに、1万1439トンの人道援助物資がウクライナに受け入れられた(1,p.176)。もちろん、すべての物資が委員会によって把握されたはずはないので、実際の数量はもっと多いであろう。最大の援助者はドイツ(援助物資全体の50%)、次いでイタリア、米国、その他の国々が続いた。受け入れた人道援助物資の67%が食料、18%が医薬品と医療機器、15%が衣類やその他の物資であった。

80年代末から90年代はじめにかけて、チェルノブイリ関連のNGOがいくつかの基金を設立しようとしたが、あまり成功したものはなかった。たとえば、ヨーロッパ諸国へのバスツアー、TVキャンペーン、展示会などであった。そうした企画に要した出費は時には全収入と匹敵するものであった。また、ヨーロッパの人々は、民間チェルノブイリ基金の“設立者”に関して苦い経験をしてきた。すなわち、金銭や医薬品を集めておきながら、それらの医薬品を病院に売り払ってしまったと後に知らされたりしたのである。

「チェルノブイリ救援」活動の中心は、子供たちの夏のリクレーションへと徐々に移っていった。一方、医学的な問題は、主として2国あるいは3国の政府間プロジェクトのもとで行われてきた。たとえば、日本の笹川財団は、(ジトーミル州)オブルチのものも含めいくつかの診療所に、子供を検査するための機器や資金を援助した。

政府間で行われた被災者援助はほんのわずかであった。たとえば、旧ソ連の3つの地域に特別なチェルノブイリ基金を作ろうと、1991年9月にニューヨークの国連で特別会議が開かれた。ところが、その会議は総額で150万ドルしか集められなかった(1,p.161)。このような無惨な結果になってしまった一因は、IAEAが作成し発表した報告にある。この報告は、重松逸造を委員長とした国際的な調査によって作られた(もっとも、この調査はリクビダートルを対象に含んでいない)。この調査が始まってすぐ、環境保護派はIAEAの偏った調査方法に強く抗議した。報告が発表された時には、ウクライナ政府もまた報告の結論に異議を唱えた。

 

3.2 チェルノブイリ関連の非政府団体

 ウクライナにおいて、チェルノブイリの真実を明らかにしようと最初に運動を始めたのは、ウクライナ人の記者たちであった。1988年に、ウクライナにおける最初の“緑”のNGO、「Zeleny Svit(緑の世界)」が設立された。それは、ウクライナの多数の州や地域にある厖大な数の組織の連合体であった。もちろん、チェルノブイリ問題が「緑の世界」にとっての最も優先順位の高い課題であった。1989年になって、「緑の世界」の中に、小さなNGO団体のネットワーク組織として、「チェルノブイリ救助」連合が産まれた。この連合に加わった組織は、主として汚染地域に根を下ろしていた。

これらのNGOは圧力団体として重要な役割を果たした。汚染地域の利益になるように資材を配分しようと、汚染地域の人民代議員や地方行政当局は、こうした“世論”を利用した。また、地方の政治家は選挙運動や立法作業にこれらの団体をしばしば用いた。

このような活動の最も重要なものは、1989年8月、ジトーミル州ナロジチで開かれた「チェルノブイリ事故被害対策国家委員会」の第1回公聴会であった。

その年の終わりになって、反原子力、反チェルノブイリのデモ行進が、「緑の世界」とペレストロイカのためのウクライナでの運動体である「ルフ」によって共同で取り組まれた。デモ行進は、ウクライナ西部のKhmelnytska原発からはじまり、終点はキエフであった。沿道の村や町ではたくさんの集会が開かれ、人々はチェルノブイリ問題が秘密にされていることに抗議し、被災者への正当な補償を求め、被災者のためのきれいな食料や医薬品、そして子供たちの移住を要求した。ソ連邦最高会議に対するアピールには、5つの地方から30万を超える署名が集められた。この署名はモスクワに運ばれ、ウクライナからの議会メンバー(Shchebak,Yavorivskyその他)に手渡された。彼らは、緊急の課題としてチェルノブイリ立法を議会で成立させるために、このアピールを使った。

 「緑の世界」が取り組んだもう一つの重要なプロジェクトは、法律家や証人を立てての、「独立チェルノブイリ裁判」(1990-1992)である。これは、チェルノブイリ事故とその後の後始末に責任のある、政府役人やすべての関係者の行動を法的な観点から評価しようとする試みであった。もし、この試みがうまくいったとしたら、チェルノブイリ被災者が、国、役人あるいは管理者を訴えることができるようになり、裁判所の手続きに従って、失った健康や財産に対する正当な補償を受けることができるようになるはずであった。(主催者は、このプロジェクトをニュールンベルグ裁判のようにしたいと考えていたが、)残念ながら、このプロジェクトに参加する法律家はごく少なかった。その結果、集まった証拠や法的な評価は、説得力を持つほどのものにならなかった。ただ、この過程で、一層重要なことが明らかになった。すなわち、チェルノブイリに責任のある政府の役人たちは現在もなお現役の政治家であり、彼らはこのようなプロジェクトが進行することを決して許さないだろうということである。

 「緑の世界」が主として汚染地域住民のために働いたのに対して、リクビダートルや避難民のための同じような役割は、「国際チェルノブイリ同盟」(CUI)が果たした。CUIは1989年にウクライナで作られ、1991年に国際組織として登録された。CUIの主要な目標は、以下のとおりである。「チェルノブイリ事故の影響を明らかにし緩和すること...事故により疾病障害者となった人や子供を含め150万人もの直接的な被災者がいる。彼らは並々ならぬ社会的、経済的そして医学的な必要に直面しており、それらの問題に対処することで彼らを助ける」(国際組織「チェルノブイリ同盟」規則、1992年2月24日ウクライナ法務省登録)。

CUIは活動費用を捻出するために、ババリア赤十字、ドイツの州および市の政府、診療所など外国の慈善組織から資金を受けた。CUI自身が援助を受けとる訳ではなく、公共施設、病院、診療所への救済活動の仲介者あるいは協力者として働いた。CUIによってウクライナ国内で配分された物資や医薬品は総額で数1000万ドル(1991年の国連の集会で集まった金が150万ドルであったこと(3.1項参照)と比べてみよう)にのぼった。

CUIはチェルノブイリ被災者の身分や社会的な必要に関する法律を提案したり、立案する上で重要な役割を果たした。当時のCUIの代表Volodymyr Shovkoshytnyはウクライナの人民代議員であった。CUIによって現在も続けられている重要な活動は、子供たちを外国で休養させることで、1990年231人、91年1520人、92年1800人の子供を送り出した。

ウクライナの国内外には、「チェルノブイリの子供たち」といういくつもの組織がある。それらの組織は、子供たちをウクライナ国内や外国で治療し、休養させる活動に取り組んでいる。

チェルノブイリ事故被災者自身が組織した慈善基金や事業については、その活動の役割と結果の評価のために、別の調査が必要であろう。それらの組織は、チェルノブイリ関連の法令によって、税制上のかなりの恩恵や便宜を享受している。こうした特典は、法律だけでなく、閣僚会議の指令や布告によって実施されており、組織やその他の要因によってしばしば恣意的に適用されているという問題を抱えている。

 

結論

本報告は、ソビエト連邦及びウクライナによって発表された資料、そして筆者の個人的な経験に基づいている。チェルノブイリ事故関連のウクライナでの社会的活動を完璧に調査したものではない。

1987年から89年にかけて、筆者は30kmゾーンあるいはその他の汚染地域で物理学者として働いた。この時に、筆者は様々な人々(行政担当者、共同農場の農民、避難からの自主的帰還者、など)に出会った。1988年から91年には、ウクライナ環境連盟「Zeleny Svit(緑の世界)」の活動委員会メンバーであり、研究者でもあった。当時「緑の世界」は、ソビエト連邦人民代議員であったYuri Shcherbakが代表を務める、ウクライナで最も大きく最も影響力のあるNGOであった。

1991年から93年にかけて、筆者はグリーンピース・ウクライナ事務所の企画マネジャー兼代表として働いた。当時、グリーンピースは医学的な援助計画を実施し、またジトーミル州の汚染地域で独自の放射能調査を行っていた。こうした活動の中で筆者は汚染地域の住民とともに、保健省やウクライナ議会のメンバーとしばしば接触することになった。

筆者はまた、主としてスイスとドイツの仲間たちと一緒に、いくつかの人道援助計画に加わった。

筆者はまた自身が「第2レベルのリクビダートル」であり、関連する社会保障を個人的にも受けている。

チェルノブイリ事故後、公衆やその他のいくつもの社会的勢力が様々な役割を演じてきた。この短い報告は、そうした役割を明らかにするための小さな試みの一つにすぎないことを、筆者は十分に承知している。

ようやくにして、たくさんの文書が公開され、また分析されてきた(1,5)。しかし、たくさんの重要な団体、たとえばIAEA、国連とその機関、国際的な「緑」と反原子力の運動体、ソビエト内部の原子力関連の圧力団体、ソビエトの「緑」と大衆運動などが果たした役割を、ありのままに、また偏りなく分析することが必要である。おそらく、今日はまだ早すぎる。なぜなら、ドラマはまだ終わっておらず、たくさんの役者たちがいま現在も舞台の上にいるため、徹底的な分析ができないからである。

もちろん筆者は、チェルノブイリ事故被災者の救援活動について、公的な側面と非公式で個人的な側面の両方からの情報を集め公表することは、全世界の人々からの善意への返礼として必要な作業であると考えている。本稿が、そのためにいささかなりとも貢献できれば幸いである。

 

出典

1. Chornobylska katastrofa (Chernobyl catastrophe). - Chief editor V.G.Barjakhtar. Kyiv, “Naukova dumka”, 1996. 576 pp. (in Ukrainian).

2. Alla Yaroshynskaya. Chernobyl’ s nami (Chernobyl with us). - Moscow, “Kniga”, 1991. 158 pp. (in Russian).

3. Villages Suffering Chernobyl’s Fallout Face Soviet Silence. By Peter Gumbel. - “The Wall Street Journal”, 03/06/89.

4. Lyubov Kovalevskaya. Chernobyl DSP (Chernobyl classified). - Kyiv, 1995. (in Russian).

5. Chornobylska tragedia. Dokumenty i materialy (Chernobyl Tragedy. Documents and materials). - Kyiv, 1996. (in Ukrainian).