周辺住民の急性放射線障害とさまざまな情報

アラ・ヤロシンスカヤ

ヤロシンスカヤ・チャリティ基金(ロシア)

 


 チェルノブイリ原発事故がもたらした人間への健康影響を研究している世界の科学者たちは,しばしば和解不能なまでの対立を示す2つのグループに分かれている.第1のグループの代表は,ソ連時代またその崩壊後を通じて政府の見解を代弁してきた医療専門家たちである.彼らは,何年間もソ連と世界の人々から真実を隠蔽してきた.このグループの一致した見解によると,事故の際に死亡した消防士と一部の原発スタッフを除いて,チェルノブイリ事故は人間の健康に実質的に何の影響もおよぼさなかったし,将来もそのような影響をおよぼすことはないであろう.第2のグループは,政府から独立した立場の科学者たちで構成されている.彼らは,チェルノブイリ原発事故によって周辺住民が浴びた放射線被曝量が隠蔽されてきたことに心を痛めており,同時に低線量被曝が人々の健康におよぼす影響を憂慮している.第2グループの学者たちは,チェルノブイリ事故直後の数日間から数カ月間に住民の浴びた放射線が,これまでも,またこれからも何年にもわたって,人々に著しく否定的な影響をもたらし,健康を悪化させるだろうと確信している.人々の被曝量データは,政府当局によって,被災者にも国民全体にも知られないよう注意深く隠されてきた.この事実はウクライナの検察当局によっても確認されている.

 これから紹介する,筆者の私的なチェルノブイリ事故資料は,公式なもの非公式なものを含め,チェルノブイリ事故の放射線学的影響に関して2つのグループがどのように関わってきたかを示している.これらの記録は,かつてどこにも発表されたことがないことを強調しておきたい.

 チェルノブイリ原発周辺住民の急性放射線症状についての問題を追求しながら,記録に示された事実に基づいて,2つのグループの見解,議論,および結論を比較してみよう.

放射線の危険性に関する政府の公式見解

 チェルノブイリ原発事故の規模と影響に関するソ連の指導者たちの公式見解は,共産党機関紙によって周知となっている.その主たる結論は,次のとおりであった.すなわち,住民の健康状態にはなんら変化はなく,これからもないであろうというものである.この政治的な診断は,全体主義と民主主義のイデオロギー闘争を考慮してなされたものであった.その中には,真実のかけらもなかった.放射能汚染地域に関する真実の情報は,事故から3年間,第1回ソ連人民代議員大会まで完全に隠蔽し続けられた.ゴルバチョフ時代の選挙によって汚染地帯から選出された代議員たちのスピーチ,また「チェルノブイリ原発事故とその人間の健康と環境に対する影響」についての議会公聴会によって,当局と医療専門家のウソが初めて暴露された.

 私が持っている政府医療機関の公式文書を見れば,“生涯35レム”という,汚染地域住民が“安全に生活する”ための悪名高い被曝基準が,“権威者たち”によってどのようにして生み出されたのか,容易に追跡することができる.簡単にいえば,この考え方の底にあるのは1人当り70年間で35レムを浴びても健康に害はないという信念である.事故の1カ月後,その「上限」は70年間70レムに引き上げられ,数カ月後には70年間50レム,そして35レムへと引き下げられた.ここで指摘しておきたいのは,チェルノブイリ事故前には,L・A・イリイン,E・I・チャゾフおよびA・K・グスコワといった政府の御用学者たちは,その著書の中で,生涯のしきい値被曝量は25レムであるとはっきり述べていることである.このことだけからも,上記のような公式見解の「科学的」性格がどのようなものであるか結論できよう.

 チェルノブイリ事故の影響について最初に公表された文書は,1989年3月21日から23日にモスクワで開かれたソ連医学アカデミー総会に,アカデミー会員L・A・イリインが提出した「チェルノブイリ原発事故による放射能汚染パターンとその健康への影響の可能性」と題する(70ページの)報告書であった1.注目すべきことは,この文書が公開されたのが,第1回ソ連人民代議員大会(会議は1989年5月25日に始まった.)の直前だったことである.政府は明らかに,人民代議員大会でこの問題が追求されるだろうと予測し,あらかじめその追求かわそうと決めたのであった.

 その報告書を作成したのはL・A・イリインであるが,ロシア,ウクライナ,ベラルーシの23人の政府医療機関の権威者たちがこれに署名している.ソ連では常に責任は集団にあり,個人の責任ということはなかった.この方がより便利であったし,安全だったのだ.事故から11年経た今でも,上記の科学者の多くはまだ重要な地位にあり,チェルノブイリ事故が住民の健康に与えた影響について明白に実証された事実を否認し続けている.

 上記報告書の「住民の放射線被曝の特徴,および晩発性障害の予測に関する理論的基礎」という章では,次のように述べられている.すなわち,「甲状腺へのヨウ素の蓄積は比較的短期間,すなわち事故後2〜3カ月間であった.・・・事故直後,ソ連保健省は以前から定められていた緊急規制値,牛乳中のヨウ素131の最大許容量(1リットル当り3700ベクレル)を採用した.それは子供の甲状腺の場合0.3シーベルト(30レム)の被曝にあたる.予備的な評価に基づくと,初期の段階で住民の被曝を防ぐためソ連保健省によってとられた一連の措置,とりわけヨウ素の体内への摂取を抑えるための措置によって,・・・おそらく被曝量は,その予防措置を採らなかった場合に比べ平均約50%,場所によっては80%少なかった.」報告書の作成者らは,「事故後2060年までの高レベル汚染地域住民の被曝量を,人体への放射能の蓄積量も含め,コンピューターを用いて計算した」と述べている.彼らは特に,“人間の健康への放射線被曝の影響にしきい値はない”という広く受け入れられている説は,「晩発性障害の危険性を実際より過大に見積もっている」にもかかわらず,「その方法の限界と,得られる結果の慎重な解釈の必要性を認識しながら」しきい値なし説を採用した,と強調している.それでは,報告書作成者たちが言う「方法の限界」とは何なのだろうか? 彼らは報告書の中ではっきりと「(しきい値がないという学説の)主要な欠陥は,ひとつには被曝のリスク係数,つまり単位被曝量当りの影響の発現確率は,事実上高線量被曝および高被曝率の観察結果から推定されている」と述べ,さらに続けて「低線量被曝によっては,身体的あるいは遺伝的な影響はこれまで観察されていない」と述べている.彼らの言説は,J・ゴフマン,R・バーテル,R・グレイブ,A・ペトコなど世界的に知られた科学者たちによる,低線量被曝の健康影響に関する優れた研究結果が当時すでに公表されていたことを考えると,放射線生物学の素人から見ても奇妙である.また,国連放射線影響科学委員会も,「低レベル放射線被曝の健康影響にはしきい値がない」という理論を採択していた,それは科学的な結論に従ったのであって,意図的な評価に基づくものではない.

 上記報告書の「チェルノブイリ原発事故による甲状腺被曝にともなうソ連住民諸グループへの確率的影響の予測」という章では,汚染地域をそのレベルによって3つに分け,彼らの方法(しきい値なし説)に基づいて,事故当時0〜7歳だった子供たちとその他の人々への影響を予測している.3つの汚染地域は,@比較的汚染レベルの大きい9つの州の39地区(総人口約150万人,うち子供は15万8000人),Aそれらの州の全住民(1560万人,子供は166万6000人),Bソ連ヨーロッパ地域の全住民(7500万人,そのうち0〜7歳の子供は800万人)となっている.チェルノブイリ事故後初めてデータが公表されたのであった.この報告書が作られたのは1989年,つまり事故から3年後であったということを,心に留め置くべきであろう.

 では,政府の公式な予測結果は,どのようなものであったか.「・・・しきい値なし説に従えば,0〜7歳の子供の甲状腺ガンは,事故後30年間で約90件と予測され,そのうち10件は致死的と考えられる.これらの地区の全住民(150万人)に対して30年間で200件の甲状腺ガンが予測される.ただし,この数字は,しきい値説に修正を加えない場合である」

 「比較的汚染の大きな9州,すなわちキエフ,ゴメリ,ブリャンスク,ジトーミルといった各州の全住民の甲状腺への被曝影響を調査した結果,甲状腺ガンの発生は330件に上る可能性があり,そのうち30件は治癒不能であろう.」そして,ウクライナ,ベラルーシ,モルダビアの各共和国全土,およびロシア連邦のいくつかの中心的な州を含むソ連ヨーロッパ部の住民人口7500万人(うち0〜7歳の子供800万人)への影響予測は次のとおりである.「事故後30年間の甲状腺ガンは,治癒不能な子供20件,全人口では50件にのぼると予測される.治癒可能な良性腫瘍は,それぞれ170件と400件と予測される」

この報告書の「チェルノブイリ事故によるソ連住民諸グループの全身被曝にともなう晩発性障害の予測」という章では,住民の被曝量の評価が示されている.ここでは,ソ連保健省の35レムという考え方が現れている.特に,厳重管理ゾーンの住民について「晩発性の影響は,事故後4年間の実際の被曝量と,2060年までの予測被曝量に基づくもので,将来の予測値は,厳重管理ゾーンでの農業制限は解除されるという仮定で計算された」と述べている.まず2つの単純な疑問が生じる.第1に,この報告書が作成されたのは事故から3年後であり,4年後ではない.もしこの間違いが作成者のミスだとすると,その意味するところは象徴的である.第2の疑問は,住民が事故後2〜3カ月間に浴びた実際の被曝量を誰が何時評価したのかである.私は,ジトーミル州ナロージチ地区の役人が,事故初期の実際の被曝量データを抹消しようとしたことを熟知している.そのかわりに,医療スタッフは実際より低い被曝量を記録するよう命じられたのである.記録に残っている「実際の」被曝量は信頼するに足るものだろうか.私が持っている,ソ連医学アカデミーの秘密文書によると,ジトーミル州の厳重管理ゾーンでは,子供も含めて事故後死亡した人々の解剖は行なわれなかった.

 報告書作成者たちが自分たちの見解に確信をもっているならば,なぜこれらの「実際の」被曝量を人々が入手できなかったのか.そしていまだに,一般の人々だけでなく,これらの問題に関心をもつ医療や放射線生物学の専門家たちも入手できないのだろうか.

 厳重管理ゾーンの住民の将来予測に関して,報告書作成者たちによって導き出された結論は驚くべきものだった.すなわち,「ソ連全土のデータでは自然発生のガン発生率および死亡率の増加傾向が認められるにもかかわらず,われわれの計算では,これらの指標は予測対象の70年間を通じて変化がないと仮定している.このことは,チェルノブイリ事故による,自然発生レベルを越える致死的ガンの増加割合は,その値が小さくなる方向へ修正されるだろうことを示している」というものである.この考え方は,全体の結論でも繰り返されている.それは,「本報告書のデータは,チェルノブイリ原発事故による被曝影響の大きさは,厳重管理ゾーンの大多数の住民を含め,該当する症状の自然発生レベルからのバラツキの範囲内にとどまることを示している」というものである.言い換えると,報告書作成者たちは,住民,とりわけチェルノブイリ事故以来,毎日放射線を浴びている厳重管理ゾーンの住民の放射線誘発ガンによる死亡ケースは,他の国民に比べて問題にならないと言っているのだ.甲状腺ガンに関する彼らの結論は「被曝にともなうこの組織のガンの増加は注目すべきかも知れない」というものである.簡単に言えば,それは注目すべきかもしれないし,そうでないかも知れないということになる.現在,チェルノブイリ事故から30年ではなく,ようやく11年たったばかりであるが,これらソビエト専門家集団の予測というものが,どれほどの価値をもっているかは明らかである.

 1年後の議会において,当のアカデミー会員L・A・イリインは議員たちにこう語った.「160万人の子供たちが浴びた放射線の量は憂慮すべきものだ.したがって,われわれは,これから何をなすべきか決断しなければならない.」1990年のソ連最高会議において,チェルノブイリ原発事故の汚染除去作業に関する政府委員会のV・Ch・ドグジエフ議長は述べている2.「・・・検査を受けた住民の62%は,1〜5レムの放射線量を浴びていた.ヨウ素による汚染がもっともひどかった地域の16万人の子供を含む150万人の住民のうち,大人の87%,子供の48%の甲状腺被曝は30レム以下であった.子供の17%は被曝量が100レムに達していた.」

被曝量についての政府専門家の説明

 チェルノブイリ事故に関するさまざまな資料を整理していたとき,たまたま私はセンセーションを巻き起こすに値する,非常に興味深い文書を見つけた.チェルノブイリ事故から11年以上経ち,これまで秘密にされてきたさまざまな公式文書が(私によっても)公表されてきた.しかしながら,このようなものは見たことがなかった.これまで明らかでなった,チェルノブイリ事故後の数カ月間に住民が浴びた被曝量について,初めて具体的な値が問題とされているのだ.

 1987年5月26日,ウクライナ共和国の保健大臣A・E・ロマネンコは「1987年4月13日のソ連保健省法令第527号の実施について」という書簡No.428をソ連保健大臣E・I・チャゾフにあてて報告している3.「機密」,「公開禁止」というソ連共産党中央委員会のスタンプが押されたその文書には,次のように書かれている.「7万4600人の子供を含む21万5000人がキエフ,ジトーミルおよびチェルニゴフ各州の放射能汚染地区に居住している.・・・従来把握されていなかった病人が,3万9600人もいることが判明した.さまざまな病状を抱えている患者に対し,観察,入院,外来治療を継続する必要がある.この1年間に入院した患者の総数は2万200人で,そのうち子供は6000人であった.」そして,次の一節に注意されたい.「チェルノブイリ事故から最初の数カ月間に,すべての子供について甲状腺被曝量の測定が実施された.2600人(3.4%)の子供たちに放射性ヨウ素による500レム以上の被曝が認められた.」先述の報告書に署名した,イリインをはじめとするソビエトの専門家たちが,これらのまやかしでない恐るべき事実を知らなかったはずがない.だとすれば,ソ連医学アカデミーへの70ページにおよぶ報告書に書かれた被曝量評価とその影響に関する予測が,どうして科学的であるなどと言えよう.

 500レム以下の被曝をした子供の数は,いまだに公表されていない.チャゾフ保健大臣は,1987年11月16日のソ連共産党中央委員会あての,「秘密」「公開禁止」のスタンプが押された覚書4の中で,次のように報告している.「1987年9月30日までに,62万16人が病院の診察を受け,5213人が精密検査と診断ために入院したが,それらは放射線被曝には関係なかった」というものである.保健大臣が, 500レム以上の甲状腺被曝をした2600人のウクライナ汚染ゾーンの子供たちをこの5213人に含めているかどうかは不明である.もし,その子供たちの数を計算に入れているなら,一体どうして彼は,子供たちだけでなく大人に対しても,信じがたいほど大きな被曝の影響が関係なかったなどと言えたのであるろうか.もっとも考えられる説明は,共産党中央委員会が自分たちに都合の良い“真実”のみを聞きたがり,そして保健大臣は,その期待に応えたということである.

 1990年12月28日,ソ連共産党中央委員会書記長V・A・イワシコは,ソ連共産党第28回大会決議「チェルノブイリ大惨事とその影響の解決」の実施に関する共産党中央委員会指令草案の中で次のように述べている5.「事故の影響は出生率と平均寿命に現れ続けている.この4年間に,ベラルーシ共和国の出生率は10パーセント減少した.ガンによる死亡率が増加し,モギリョフ州とゴメリ州では,19パーセント以上増加している.」こうした共産党中央委員会の結論と,その1年前の,23人のソ連医学アカデミー会員によって署名された先の報告書にある楽観的な結論との間にはいかなる共通点もない.

 以上のことから,次のような現実が明らかになる.それは,事故から11年経った今でもチェルノブイリ事故から2〜3カ月間の実際の被曝量は,一般の人々に知らされていないということである.

 ソ連医学アカデミー会員であり全ソ血液学センター所長のA・I・ボロビヨフ教授によって,実際の被曝量の隠蔽と歪曲がいくぶん明らかとなった.彼は,1991年8月18日付けのモスクワニュース紙に「なぜソ連の放射線はもっとも安全なのか」という論文記事を書いた6.ボロビヨフ教授のいうところでは,「事故地域には専門家がひとりもいなかったので,ウクライナでは事故直後の数日間に1万5000人が誤って入院させられた.」しかしながら,1986年5月2日に急性放射線障害についての診断マニュアルが通達され,誤診によって入院させられていた人々はすべて退院させられた.」この退院の事実から,ある出来事が思い起こされる.著書「チェルノブイリ:極秘7」の中で私は,ソ連共産党中央委員会政治局に設置されたチェルノブイリ事故対策作業グループの40の秘密議事録を暴露した.その議事録には,政治局が大慌てで最大許容量を修正し,それを数回にわたって引き上げていたことが示されている.それと同時に,すべての入院患者,議事録によると1万5000人の入院患者が,突然健康であると診断され退院させられている.ボロビヨフ教授が言っているのはこのことであろうか.であれば,彼の告白は逆に,事故後数週間,および数カ月間に約1万5000人が急性放射線障害にかかったということ,そして政治局と御用医師たちが一緒になって実施した基準値の恣意的な操作によって,ソ連政府の事実隠蔽工作を助けただけでなく,被災者の入院を拒んだことを,間接的に認めるものとなっている.

 さらに,教授の論文は矛盾するような見解を述べている.「調査されたチェルノブイリ州の住民の40%には,被曝は全く認められなかった.50%が50ラドの被曝,そして5%以上が50〜80ラドの被曝をしていた.最後のグループにはガンの著しい増加が予想される.汚染地帯の住民の2%は・・・100ラド以上の被曝をした.事故処理作業者には,この量の被曝をした人々はさらに多い.」ボロビヨフ教授はさらに,論文の中で次のように述べている.「ゴメリ州とブリャンスク州の住民の中には,非常に高レベルの被曝影響を示唆する細胞変化を示す人々があった.全身被曝量が30〜50ラドなのに,その一方,個々の細胞では1000ラドかそれ以上の被曝をしている,という明らかに矛盾する現象が認められている.」教授は,この事実を保健省とソ連医学アカデミーに報告したが,彼の科学的仮説に対して何の反応も得られなかった.

 1989年に,モスクワニュース紙は筆者を含む数名の人民代議員を招いてチェルノブイリ原発事故の影響に関する円卓会議を開催した8.ベラルーシの代議員であった故アレス・アダモビッチは,次のような報告を行なった.「・・・他の疾患,たとえば虚血性心疾患などで死亡した患者の解剖結果によると,これはE・ペトリャエフ教授のデータであるが,彼らの肺にはいわゆる“ホット・パーティクル”が大量に発見された.そのホット・パーティクルは1万5000個にものぼるという! そのようなホット・パーティクルは2000個でガンを誘発するのに十分だ.」旧ソ連の核物理学者セルゲイ・ティトキンがイスラエルから私のところに送ってきた原稿9によると,そのような固体粒子による発ガンなどの影響は,ずっと以前から知られていた.たとえば,タバコの煙,炭塵,シリカ(大量に吸入すると珪肺の原因となる)である.チェルノブイリ事故の場合,原子炉内にあった燃料粒子が肺に入って,肺組織に密着すると考えられる.

 1986年8月25-29日にウィーンで開かれたIAEA事故検討専門家会議に提出された「チェルノブイリ原発事故とその影響10」という,ソ連政府原子力利用国家委員会の報告の中に,被災者の体内から放出される放射線のガンマ・スペクトロメーターによる分析結果が示されている.そこでは,「事実上,すべての患者に,急性放射線障害の存在,あるいはその症状との関係は明白ではないものの,主としてヨウ素,セシウム,ジルコニウム,ニオブ,ルテニウムなどの放射性核種の混合物が検出された.」と述べられている.放射性核種の吸収について別のところでは,「チェルノブイリ事故による被曝によってもたらされる死亡率の増加は,住民の自然発生によるガン死の2%以下であろう.・・・現段階では,放射能汚染地域での,吸入による放射性核種の取り込みにともなう住民の被曝量は無視できる程度である.」この報告書ではまた,事故後,急性放射線障害で死亡した人々の肺から,さまざまな放射性核種が検出されたと記されている.

 核燃料のチリが実際にどれぐらい危険なものかを評価するための特別な研究がなされるべきである.筆者自身が,事故直後および事故後の数カ月間に汚染ゾーンにいた数100人の住民を調査あるいはインタビューした経験では,事故の規模はあまりにも甚大であり,すべての人が放射能のチリ,ひりひりするのどの痛み,気密性のないトラクターなどについて語った.人々は,地面に沈着した放射能がチリとして舞い上がり体内に吸収されると考え,それを“放射能のチリ”と呼んでいた.ただし,体内に深く入り込み,時には人を死に至らしめる,いわゆるホット・パーティクルの危険性について,誰ひとり考えもしなかった.これもまた,放射能汚染がチェルノブイリの周辺住民にもたらした問題の1つである.

失われたチェルノブイリの教訓

 核物理学の専門家で,以前キエフに住み,今は西側の国に住んでいるイーゴリ・ゲラシェンコが私に「失われたチェルノブイリの教訓11」という彼の原稿を送ってくれた.(この原稿が最終的に出版されたかどうかは不明.)信じがたいほどの偶然と言うべきか,この原稿にはまったく興味深い事実が書かれている.論点を明確にするために,いささか長い引用をする.

「それでは,被災地域住民の被曝量はどうだったのだろうか.確かなことはだれにもわかっていない.被災地の放射線量を測る手段がほとんどなかったのだ.私の知人の一人が,内務省の大尉であったが,被災地で1週間を過ごした.彼は放射能の測定器をもたず,自分がどれぐらい被曝したのかもわからなかった.住民の避難にあたった運転手たちも,やはり測定器をもっていなかった.これは偶然だったのだろうか.そんなはずはない! その方が,自国の国民や,疑うことを知らない世界の人たちにウソをつくには簡単だったのだ.

 出所不明のデータによるとプリピャチ(チェルノブイリ原発から最も近い町)での放射線レベルは1時間当り1〜10レントゲンであったという.(ヤロシンスカヤ注:筆者が確認できたデータでは,ジトーミル州ナロジチの放射線レベルは,チェルノブイリ原発から80kmも離れていたにもかかわらず,最初の数日間,1時間当り3レントゲンであった.)放射線レベルと爆発点からの距離の関係は,非常に複雑である(風向き,放射能の雲から降った雨,その他さまざまな要因が大きく作用する).しかしながら,平均放射線レベルは,距離の2乗に反比例すると仮定できる.つまり,(爆発地点からの)距離が2倍になると,放射線レベルは4分の1になるのである.

 1986年5月の終わりに私がキエフで個人的に測定した最大放射線値は1時間当り0.0018レントゲンであった.測定に使用したのは,民間防衛隊の倉庫からもってきた軍隊用の測定器であった.キエフでの知人による5月始めの測定値は1時間当り0.003レントゲンであった.爆発地点からキエフまでの距離は約130kmで,プリピャチまでは約5kmである.

 したがって,プリピャチの町の平均放射線レベルは(130÷5)の2乗で,その676倍,つまり1時間当り2レントゲンということになる.1時間当り1から10レントゲンという先の数字は,プリピャチによくあてはまりそうだ.

 プリピャチでは爆発から36時間もたってからようやく避難が始まった.そのことから推測すると,プリピャチ住民は36から360レントゲンを浴びたということになる.4月26日の人口は4万5000人であった.そのうち,何人が今も生存しているのか私は知らない. (ヤロシンスカヤ注:この原稿の日付は1987年5月である.)夜ごとにキエフの病院に運び込まれた患者のうち約1万5000人が死亡したことを私は知っている.・・・私に言えるのは次のことである.すなわち,私はパニックのうわさを集めていたのではない.この原稿の中の情報はすべて,周辺地域やその他各地からきていた事故処理作業者,運転手,病院のスタッフ,兵士たちから直接聞いたものである.

 キエフに運ばれた人々への治療はまったく行なわれなかった.そのような可能性はまったくなかったのだ.何1000人もの被災者の輸血や骨髄移植のための血液を確保することは不可能だった.これらの患者たちは放射線科だけでなく,あちこちの病棟や廊下や,病院の地下にも横たわっていた.ある病院では,死体安置所の一部さえもがこの目的のために使われた.

 これら1万5000人は,急性放射線障害で死んでいった.」

 別の資料に,これと驚くべき一致が見られる.共産党中央委員会事故対策作業グループの秘密議事録によると,最初の週に約1万5000人が病院に収容されたとある.アカデミー会員A・I・ボロビヨフはその論文記事に,1万5000人が誤診によって入院させられ,医療スタッフが急性放射線障害に関するマニュアルを受け取った後に,患者たちは退院させられたと書いていた.物理学者I・ゲラシェンコもまたこの数字を証言している.ゲラシェンコはただひとつ,これらの人々は死んだのだ,という恐るべき修正を加えた.

ゲラシェンコは,さらに興味深い論を展開する.

「読者が注意深く読むならば,そのような数字は驚くにあたらない.広島では約7万人が死んでおり(爆発の直接の影響で死んだ人はほんのわずかで,大多数の人々は放射線による被曝で亡くなったのだ),われわれの場合,その何1000倍もの放射能が放出されたのに,死者はたったの1万5000人だ.間違いなく,実際の犠牲者の数はもっと多いはずだ.なぜなら,第1に私が語っているのは,入手したデータに示されている死者の数だけである.第2に,放射線の影響は長期にわたって続く.さらに何万,何10万もの人々が放射線によるガンで死んでいくことになるだろうが,それが現れるのは後のことだ.潜伏期は何年間も続くのであるから.」

 死亡した1万5000人についてI・ゲラシェンコは,ニューヨーク・トリビューン紙のインタビューと,チェルノブイリ事故とその影響に関するアメリカ議会の公聴会で証言した.彼は,事故の被災者たちは「急性放射線障害」という診断ではなく「自律神経失調症」とか「血管失調症」などの診断が下されたと語った.この事実はすでに証明されている.死亡した人々の医療記録には「一連の治療を受けた」とか「これ以上治療の必要なし」などの言葉が書かれている.

被災地住民の健康状態

 放射能汚染地域での生活に関する新たな概念がロシア連邦政府によって入念に作成された.これと関連して,ロシア環境省とロシア労働省は,事故で汚染されたロシア連邦の16の州の健康問題を詳しく調査中である.自分たちが危険な汚染ゾーンに居住していることを,この地域の大多数の住民は事故から7年たってようやく知らされた,という事実がそこでは考慮されている.労働省と環境省の専門家レポートの中で,M・S・マリコフとO.Yu・ズィッツァー12は,チェルノブイリ事故は138の行政地区,15の州管轄市,7700以上の居住区に住んでいる270万の人々に影響を与えたと記している.1995年4月のデータによると,チェルノブイリ事故の事故処理作業に携わって死亡したロシア国民の数はおよそ7000人にのぼる.この事故のために生活水準が低下したり,この事故のために障害疾病者となった国民はおよそ2万人にのぼる.

 労働省と環境省の専門家レポートの中で,思いがけず,ウクライナ保健大臣A・E・ロマネンコからソ連保健大臣E・I・チャゾフにあてた先述の秘密書簡で述べられていた,ウクライナの子供の甲状腺への大量被曝に関する事実を確認することができる.専門家レポートによると,14歳以下の子供50万人を含め,ウクライナでは現在240万人がチェルノブイリ事故で汚染された地域に居住している.もっとも注意を払うべきことは,15万人が許容量の何10倍,何100倍もの放射線を甲状腺に浴びたという事実である.とりわけ5700人の子供たちが200ラドの線量を浴びており,7800人の大人が500ラド以上浴びている13.一方,許容量は5ラドと定められている.この被災住民の集団で,小児の甲状腺ガンが,1991年だけで12件記録されている.

 同じレポートは,ウクライナの汚染地域における子供の疾病の中で,呼吸器官,消化器官,内分泌系および循環器系の疾患が極めて多いことを指摘している.また,腫瘍の発生も増加していることも記されている.

キエフの小学校1年生583人の子供たちを検査したところ,1982年に比べて1992年には身体の発育が著しく遅れていることがわかった.発育不全は女子の方により多く見られた.

 レポートはまた,1980-1985年と1986-1991年の期間におけるチェルノブイリ原発ゾーンに隣接するウクライナ住民のガン死率を分析し,乳腺,泌尿器系および前立腺ガンによる死亡が明らかに増加していることを確認している.

 ベラルーシ住民のストロンチウム90の体内蓄積量に関する評価によると,赤色骨髄の被曝線量は事故前に比べて2.5〜3倍大きくなっている.調査対象者の3パーセントでは平均値に比べその被曝量は4〜8倍であった.

 ロシアの専門家たちは,ベラルーシのある州では安定ヨウ素の欠乏による(チェルノブイリ事故によって放出された放射性核種を含め,ある種の微量元素濃度が異常な値を示す地域がある)風土病として知られている甲状腺腫が,放射線被曝という要因と複合して甲状腺の異常を最大にしたと述べている.このことが,被曝量と甲状腺障害の関係についての従来の知見に基づく予測を越えて,多くの甲状腺の異常が現われた理由かも知れない.

 ゴメリ州における住民の毛髪へのプルトニウム蓄積量は,ミンスク州の値より1桁多かった.

 ゴメリ州ブラーギン,ホイニキ,およびナローヴリャの各地区における902人の子供たちの検査では,218人が貧血症と診断された.貧血の子供たちのうち,第1度の甲状腺腫が女子の68.3%と男子の52.6%,第2度の甲状腺腫がそれぞれ24%と18.2%,第3度が子供全体の1.4%に認められた.汚染管理地域の子供たちには,血液と造血器,内分泌系,呼吸器系,消化器系の疾患,および腫瘍の増加が見られた.

 ウクライナのキエフ,ジトーミル,チェルカッシ,およびロブノの各州の汚染管理ゾーンに住む子供たちにも同様の健康状態が観察されている.

 ロシアの専門家たちが心配しているもう1つのことは,チェルノブイリ事故後,放射線リスクが上昇している地域に居住する女性の妊娠・出産と新生児死亡率である.新生児死亡率は増加傾向にあり,正常分娩の割合は著しく低下している.新生児の先天性障害も増えつつある.(ウクライナのジトーミル市にはある研究所では,チェルノブイリ事故後ジトーミル州内で障害を持って生まれた人間と動物の新生児がアルコール保存されている.)事故前の出産異常の割合は,妊娠100件当り9.6件であった.それが事故後には13.4件に増加した.この割合と女性の受けた放射線被曝量の間には,極めて密接な関係が見いだされている.事故以来6年の間に,放射線レベルの増加といった,環境条件への新生児の適応力が実質的に低下したことに注目すべきである.

 ここで,1991年イングランドで私が受け取った,キエフから移住したロシア人物理学者,イーゴリ・ゲラシェンコによる原稿「失われたチェルノブイリの教訓」に戻るのが適切であろう.彼もまた,この問題について次のように語っている.「チェルノブイリ事故には,ほかにも被害者がいる.それはすなわち,一度もこの世を見なかった者たちだ.生まれる前に殺された子供たちだ.爆発後,医師たちは妊娠中の女性に中絶を勧めた.妊娠6カ月以内の女性に,医師たちの手で正式に中絶が強制された例をいくつか私は知っている.・・・昨年1年間に(ヤロシンスカヤ注:チェルノブイリ事故後の最初の1年を指す)キエフだけでも2万人がチェルノブイリ事故のために中絶手術を受けた.それでは,プリピャチから避難した女性たちはどうだったのだろうか.」

 事故から数カ月後,ジトーミル州の汚染された村々を旅行していたときにも,筆者も同じことを聞いた.つまり妊娠中の女性たちは中絶を勧められたが,そのような忠告があったことについては,誰にも言わない方がいいと言われたという.そのような忠告がチェルノブイリ事故直後,直ちに流布されたことに注意しなければならない.事故から11年経た今日も同じく,専門家たちは事故の重大な影響が妊娠中の女性に現れると心配している.このことは,チェルノブイリ事故後の数週間から数カ月間,出産年齢であった女性を含む住民が浴びた実際の被曝量を誰も知らないということを,間接的に示している.私たちは,何年か後に現れる影響から,その被曝量がはなはだしい量であったと推測できるだけである.

 チェルノブイリの核爆発から11年が経過した.しかし,地球上で起きた人類最悪の事故から数週間あるいは数カ月間に,汚染地域の住民が受けた実際の被曝量に関して,いまだ人々は信頼すべき情報を得ていない.まずなによりも,原子力に関与している世界の科学者集団,あるいはそれに準ずる集団が,この問題に責任を負うべきであるが,彼らは現在,世界の政治的組織に奉仕しており,真実を明らかにしようとしない.この真実を明らかにすれば,世界のエネルギーシステムにおける原子力の役割に,根本的な変化をもたらすだろう.これまでは,全世界の人々の利益より「金袋」つまり核ロビーの利益の方が優先されてきたことが明らかになった.しかしながら,いつまでもそうであっていいのだろうか.

文献

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