被災者救援活動の諸問題とロシアの現状

アラ・ヤロシンスカヤ

ヤロシンスカヤ・チャリティ基金(ロシア)

 


  1. 政府による被災者援助

ソ連時代

1996年4月26日,チェルノブイリ原子力発電所で史上最悪の原発事故が起こったとき,ソ連には,数100基に上る研究用原子炉のほか,核兵器や軍事産業の原子炉が文字通り全土に散らばっていた.それにもかかわらず,ソ連には,起こりうる原発事故の犠牲を防ぐための法律が1つもなかった.それがソ連の現実であった.チェルノブイリ原発事故が起こったとき,ソ連政府は被災者,たとえば原発職員,事故処理作業者,被災住民を救済するためのいかなる法律も持っていなかった.事故から5年間,ソ連最高会議は被災住民を保護し,彼らに特典や補償を与えるためのいかなる立法処置もとらなかった.どうしてこのような事態が許されたのであろうか? 共産党支配のもとのソ連では,被災住民の数はもちろん,事故による汚染の強さや規模も明らかにされなかった.事故後5年間,ソ連共産党中央委員会が,各共和国や地方の共産党組織に対してさまざまな布告を出し,それが「法律」の役目を果たした.そうした布告は,共産党中央委員会とソ連政府との合同の布告として出されるのが通例で,当然それらは秘密であった.たまにその布告が公開されたときには,被災者の数やその状況についての具体的な情報は含まれていなかった.

事故直後,行政当局はチェルノブイリ原発の職員や消防士に対する救命活動を行なったが,それは準備のないままの緊急時行動であった.行政当局には,巨大な原発災害に対する備えがなかったため,事故処理作業を効果的に調整することもできなかった.そのため,ヨウ素防護剤も必要なとき(事故後8日の間)には配布されなかった.ソ連国防省と民間防衛隊のおびただしい化学部隊,機械化部隊,特別軍事物資,輸送機械などが,放射線量測定や除染作業に動員されたが,行政当局には,チェルノブイリ周辺30kmゾーンから11万6000人の住民を速やかにまた効果的に避難させることはできなかった.共産党支配体制の強固な秘密主義のもとでは,事故の真相を明らかにする必要がなかったし,そのことによって,こうした失策が生まれたのである.共産党と政府の指導者たちは,ただ密室の中で悲劇について語り合っていただけであった.

30kmゾーンの村々からの住民の避難は,詳細な計画のないまま実行された.人々は,しばらくの間,たとえば2〜3週間,村を離れ,再び戻ってくるということ以外,詳しい説明はなにもうけなかった.しかし,汚染地域の行政当局者のうちの幾人かは,村人たちが2度と故郷に戻れないだろうとそのときに感じ取っていたと後に回想している(アラ・ヤロシンスカヤ,「チェルノブイリ:極秘」,1992).

筆者は1989年に,もっともひどい汚染をうけた州の1つであるウクライナ・ジトーミル州からソ連人民代議員に選ばれた.ジトーミル州のナロジチおよびルギヌイ地区から住民を移住させる必要があることを示す書類を携え,私はモスクワにきて,ソ連政府の燃料エネルギー資源局を訪ねた.当時,その局はチェルノブイリ事故影響の処理作業に当たっていた.それにもかかわらず,局上層部は,移住についてはいっさい聞く耳を持たなかった.しかし,第1回ソ連人民代議員大会において,筆者が事実を報告したことによって,即刻12の村の移住が決定された.このことは,1989年になるまで政府の計画には,チェルノブイリ被災者を救うための科学的な方策がなにもなかったことを示している.しかし,そうするために必要な科学的な思考力がなかったためではない.問題は“グラスノスチ(情報公開)”と関連している.“閉鎖社会”とチェルノブイリ事故の“グラスノスチ”とは,お互い原理的に相容れないのであった.

チェルノブイリ事故後5年間,事故処理対策と住民救済対策の調整は,行政機関の厳格な指揮命令系統に従ってなされた.この目的のために,ソ連共産党中央委員会政治局に特別作業グループが設置され,数年にわたって活動した.当初,このグループの会議は毎日開かれたが,次第に頻度が少なくなっていった.作業グループは,各共和国,政府,国防省,保健省からの報告をうけ,さらに作業グループの構成メンバーからの報告をうけた.そして,即座にいっさいの問題について決断を下した.すなわち,病院への収容,退院,汚染地域で消費する野菜や果物の最大許容濃度の増加,住民の移住,原発職員への援助,住民への補償のために導入する特典,そして被災住民への医療援助などである.

多様な課題に対して行政当局がとった行動は,秘密でかつ調整がとれていなかったため,行政権力はさまざまなレベルで職権濫用を行なった.たとえば,ジトーミル州ナロジチ地区で,移住民のためにキエフ,リボフ,ジトーミルなどにアパートを配分していた役人は,いくつものアパートを自分で取り込んでしまい,本当にそれを必要としている人々に配分しなかった.

その上,もう1つの理由で,決定事項の有効性は低かった.つまり,当時,ソ連国内で食糧供給が十分でなかったのは,単に被災した地域だけでなく,大きな都会や町も同様だったのである.そのため,チェルノブイリ事故被災者への食糧供給を改善するというソ連共産党中央委員会の決定は,実質的には実現できないものであった.共産党の決定に従い,被災住民は「非汚染」食料のために,毎月30ルーブル(住民はそれを「棺桶代」と呼んだ)を支給された.ところが,村の店には「非汚染」食料などなかった.店にはもともと品物がなかったのである.食料の総量自身が足りないのであった.

1989年の段階ではチェルノブイリ事故被害に対処するための3つの独立した計画が存在していた.すなわち,ウクライナの計画,ベラルーシの計画,そして1988年から90年に至る間のロシア・ブリャンスク州での計画である.

1990年にはじめて,チェルノブイリ事故についての議会公聴会が開かれた.この公聴会を基に,ソ連最高会議は,チェルノブイリ事故影響に対処し,包括的な国家計画を実行し,また汚染地域での生活基準についてのはじめての布告を採択した.さらに,ソ連政府の国家専門家委員会(筆者もまたソ連人民代議員としてこの委員会に加わった)が設置され,チェルノブイリ事故影響に対処するためのすべての国家計画の実行に当たることとなった.

事故影響に対処するための3つの計画,すなわちウクライナ,ベラルーシ,そしてロシアのブリャンスク州のものが,専門家委員会に新たに提出された.科学的な手法に基づき,それなりに包括的で,また簡潔な内容を持っていたのはベラルーシの計画だけであった.この計画には,長い間政府の計画では触れられることのなかった重大な問題が含まれていた.つまり,被災地住民への特典の提供基準である.ウクライナの計画には署名すらなく,誰が作成したものかもわからなかった.複数の「部分」が機械的に1つの文書として合体させられたことが明白に見て取れた.もっとも奇妙だったのはロシアの計画であった.その時点ですでに,ロシア国内のブリャンスク州以外の州,たとえばオリョール,カルーガ,ツーラの各州も汚染されていることがわかっていたのに,ロシア連邦共和国の計画では,ブリャンスク州だけしか取り上げられていなかった.

議会や政府内で度重なる議論を積み重ねた後,「チェルノブイリ原発事故被災地での生活に関する基本的考え方」が,1991年4月に,国家専門家委員会で採択された.この「基本的考え方」に従って,防護対策とその規模,また住民への損害補償を決める際のもっとも重要な基準は,チェルノブイリ事故による放射線被曝量であることになった.そして,年間の実効線量当量が0.1レム(1mSv)を越えないような被曝は容認できると定められた.「汚染」地域に現に住んでいる人たち,あるいは定められた最小の期間以上かってそこに住んでいた人たちは,特典,補償,あるいは社会的・医学的援助システムを通じて,損失を回復する権利が与えられた.

ロシア住民に対する社会補償システムは,「チェルノブイリ原発事故による放射線被災者の社会的防護について」というロシア連邦共和国の法律が成立した1991年5月になってようやく動き出した.法律を実施に移すために,実質的な基準をたてるための40を越える付則が立案採択された.それでもなお,特に住民に対する補償の支払いの点で,この法律は能率が悪かった.そのため,1992年6月に修正と付則の導入が行なわれた.

チェルノブイリ原発事故の被災住民に対して,ソ連時代(1986-1991年)の政府がとった対策をまとめると,その質と有効さは別として,以下に述べる方向に区分される.

当時,住民の詳細な検査を実施したり,健康状態の変化を知るために,チェルノブイリ原発事故被災地に医療チームが派遣された.残念ながら,すべての情報は,住民はもちろん(EB・ブルラコーワによれば)ロシアの科学者に対してさえ秘密にされた.

しかしながら,この期間に,地域の健康管理のための物質的・技術的基盤は大幅に改善された.診断のためのネットワークと医療保養センターが確立され,医療職員に先進的な訓練が実施されたりした.

ロシア連邦のチェルノブイリ原発事故影響対策国家委員会のデータによれば,ロシア国民の健康状態の検査が,地方の医療機関および25の主要な研究所によって行なわれた.医学・被曝量に関するロシアの国家登録も策定された.そのデータベースには,チェルノブイリ事故の結果,放射線に被曝した137600人の情報が含まれている.内訳は,いわゆる事故処理作業者9万7000人,汚染地域から避難した3000人,汚染地域に住む3万5000人を超える人々,事故処理作業者から生まれた2600人以上の子供たちである.

チェルノブイリ事故直後の数年,ソ連政府は,移住者のための住宅建設に資金を配分した.しかし,その場合にも,イデオロギーが大きな作用を及ぼした.事故の規模を隠蔽するために,被災者のための新しい住宅が,汚染地域の中に造られた.たとえば,ナロジチ地区の「汚染」地域内に50棟のアパートが建設され,そのためにジトーミル州だけで,(当時の貨幣で)2億ルーブルが投入された.移住者たちは,住宅建設が行政側の欺瞞であることを知り,そこには住まなかったことを指摘しておく.

ロシア連邦内では,汚染地域内の412の居住地で除染が行なわれた.およそ1万3000人の人々がブリャンスク州の汚染地域から移住させられた.うち,5500人は強制移住地域からの人々であった.18の居住地は完全に放棄された.ロシア連邦内では,1993年までに,およそ5万人の人々が,移住させられたり,自発的に汚染地域を離れたりした.

農作物への放射性核種の蓄積を減らすために,汚染地域において特別な農業化学的研究が行なわれたことも興味深い.ブリャンスク,オリョール,ツーラ,カルーガ各州のいくつかの地区では,マグサの種まきが拡大され,穀類の種まきは減少させられた.また,ソバやアブラナの種は撒かれなかった.何人かの専門家(たとえば,チェルノブイリ原発事故影響対策国家委員会の前委員長,V・Ya・ボズニャク)は,こうしたことによって,土壌は肥沃になり,植物に取り込まれる放射性核種の量は1.5分の1ないし4分の1に減ったと述べている.V・Ya・ボズニャクは,ソ連時代にチェルノブイリ事故の情報を隠した張本人であり,そんな人がいっているかぎり,筆者は個人的にはそのような数字を信じない.そもそも,放射能で汚染していることがわかっている土地に,人が食べるための食料を植えること,あるいはそれが家畜用のマグサだとしても,そんなことが本当に必要なのかどうか疑問である.筆者には,健康に対する永久的な危険がある地域に人々を居住させようとするモスクワ官僚の論理は理解できないし,うけ入れられない.

ソ連崩壊後

ソ連が崩壊してしまってからは,強い汚染をうけた3つの共和国は,それぞれが自分の力でチェルノブイリの問題に当たらなければならなくなった.独立国家共同体(CIS)が生まれた時点(1991年末)で,チェルノブイリ事故によるセシウム137の汚染が1Ci/km2を超える地域は,ロシア,ウクライナ,ベラルーシを合わせると,10km2を超えていた.新しく生まれたそれぞれの国家にとって,チェルノブイリ原発事故被災者の社会的な救済という問題はそのまま残っていた.たとえば,汚染密度が1540Ci/km2以上の地域は,いわゆる放射能汚染Bゾーン(ロシア,ウクライナ,ベラルーシのチェルノブイリ関連法令による)と呼ばれるが,そこから人々を移住させねばならなかった.

チェルノブイリ原発事故からすでに11年の歳月が流れたが,事実は悲しいものである.ソ連政府も,また民主的な政府も,彼らの議会が採択したチェルノブイリ法によって定められた最低限の補償すら,国民に与えられずにいる.その上,国家による移住への援助は今日ますます減少している.たとえば,(A・ドゥムノフ,E・ボシミルコによれば)ベラルーシで,(モギリョフ州とゴメリ州の)強制的あるいは自発的な移住対象地域から移住した人は,1993年には4410人であったが,1995年には,わずか1723人となった.ロシアでは,(ブリャンスク,カルーガ,ツーラ各州の)強制的あるいは自発的移住対象地域から移住した人は,1993年には2790人であったが,1995年には,わずか1370人であった.同じことは,ウクライナでも見られる.

暫定的なデータによれば,ロシアでは(ブリャンスク,カルーガ,ツーラ各州の)強制的あるいは自発的移住地域に住んでいる人の数は1997年初頭で41400人,ベラルーシで323000人,ウクライナで673000人(さらに,キエフ州の特別規制地域に479人)いる.簡単な計算で分かるように,現在の移住のスピードが変わらなければ,これらの国で強制的あるいは自発的移住対象地域から人々が移住し終わるまでには,数10年の時間がかかってしまう.

ロシア連邦の法律「チェルノブイリ原発事故による放射線被災者の社会的保護について」によって,被災市民の定義がされている.法の第3章において被災者は12に分類され,法による補償と特典供与の基礎となっている.チェルノブイリ被災者がうけるすべての特典と補償の内容は,この法律で詳しく規定されている.以下にそのうちのいくつかを示す.

  1. 事故によって急性放射線障害その他の病気,疾病障害者となった人は,以下の特典をうける.医学的治療(病院や移動検診車)が無料,医師の処方箋に示された薬は無料,歯の治療と入れ歯は無料,年1度の保養所での療養と平均的な旅行費用は無料などなど.働いている疾病障害者は,連続した4カ月あるいは年間5カ月まで,労働不能の手当として平均賃金の全額をうける.家屋条件の改善,あるいはアパートの別室が必要と認められた人は,現在の住居に住んでいる期間の長さに関係なく,申請から3カ月以内に,現代的な設備を備えた部屋を無料で提供される.上記の被災者および同居している家族は,家賃の5割減免,電話,ラジオ,TVアンテナその他の設備の5割減免,ガス,暖房,水,電気も5割減免,ロシア国内ならどこでも年1回にかぎって,すべての種類の旅客運賃が無料,所得税ほかすべての税金の免除など.
  2. 移住の権利が与えられているゾーン内で恒常的に生活(あるいは労働)している人は,居住時期にしたがって,毎月の手当(法律にしたがって定められた最低賃金に対する割合)をうける.

 現在のロシアでの最低賃金は,月84000ルーブルである.したがって,上に述べたゾーン内での居住者はそれぞれ,3万3600,2万5200,1万6800ルーブルの手当をうける.

  1. 強制移住地域に恒常的に生活する住民の場合には,下に示す居住時期に応じて,移住するまでの間,毎月手当(法律にしたがって定められた最低賃金に対する割合)をうけ取る.

 たとえば,1987年1月1日から,強制移住地域で生活(あるいは労働)している人の場合,他地域に移住するまでの間,毎月42000ルーブルの手当をうける.

 この地域の住民で,職のない年金生活者,疾病障害者,障害を持った子供の場合には,さらに高額の年金や特典をうける権利を持つ.この場合も,以下に示す居住期間に応じ,また法律にしたがって定められた最低賃金に対する割合として定義されている.

また,小学生から大学院生まで,移住対象地域の学校においては100%の学生に奨学金が支給される.ロシアの高等教育機関の学生に対する奨学金は,最低賃金と同額の8万4000ルーブルである.強制移住地域内の高等教育機関の学生は,168000ルーブルの奨学金をうけることができる.この地域の住民には,法律によってその他の特典も保証されている.

法律には,チェルノブイリ事故で損なわれた健康に対して補償する規定(第5章)がある.たとえば,1級あるいは2級の障害者に対しては,最低賃金の5カ月分を1年間の手当として支払うように法律が定めている.最低賃金は月8万4000ルーブルであるから,1級,あるいは2級の疾病障害者は,彼らが失った健康の補償として毎年42万ルーブルをうけ取ることになっている.

チェルノブイリ事故によって健康を害した他の分類に属する人々に対しても法律は手当を支給するように定めている.

しかしながら,国家の経済状態が厳しいため,チェルノブイリ事故被災者に対する支払いや補償は,ますます遅配されるようになってきている.

汚染地域に住む人たちへの国の支援の度合いを測る尺度の1つは,移住者のための住居,社会的・文化的施設の建設,被災者を雇用するための産業施設設立といった投資の合計額である.チェルノブイリ事故影響対策のための費用は,被災各国の予算において,特別の項目として計上されている.しかし,近年,この合計額は縮小される傾向にある.国家財政全体の後退,インフレ,新しく独立した国家が抱える過渡的な経済問題などが,その原因となっている.各国の経済全体での投資額は,毎年1030%の割合で落ち込んでいる.チェルノブイリ事故関連の投資額は,さらに著しく落ち込んでいる.ベラルーシ,ロシア,ウクライナ3国における昨年(1996年)のチェルノブイリ関連の投資額は,それぞれ1億2000万ルーブル,6000万ルーブル,1億8500万ルーブルであった.これら3国におけるチェルノブイリ事故復旧関連の住宅建設は,1995年に比べて40%も縮小された.1995年と比較して,ロシアでは27%,ベラルーシでは62%,ウクライナでは,75%の住宅しか完成できなかった(A・ドゥムノフ,E・ボシミルコ).

モスクワの政府がブリャンスク州ポトチップ地区(モスコフスキー村)で建設していた150軒の住宅建設は,チェチェンでの戦争が始まった後,凍結された.住民や移住者にとって大変重要な生活基盤である診療所,病院,中学校などは,昨年,ロシアでは全く開設されなかった.非汚染地域に移住はしたものの職のない人たちにとっては,問題が山積みである.移住者のための職はほとんど作られていない.新しい土地になじめない移住者たちは,しばしば元の「汚染」された家や土地に舞い戻っている.ロシア政府は,1997年1月に,舞い戻った移住者用の住宅を造るための基金を設立する布告を採択した.

財政の困難は,大人の療養問題だけでなく,子供の療養にも及んでいる.ロシア連邦においては,大統領直々の多目的計画「ロシアの子供たち」が,すでに数年にわたって機能していた.そのなかの1つに「チェルノブイリの子供たち」があった.大統領の計画であるにもかかわらず,昨年は十分な資金がえられなかった.1996年の9カ月間に,249730万ルーブルの資金が「チェルノブイリの子供たち」計画を実施するために配分された.この額は年間計画のわずか13%でしかない.

汚染地域の住民が個人の畑で作った「汚染」食料を食べている問題もいまだに深刻である.まず第1に,ミルク,乳製品,肉,野生の果物,木の実,キノコが問題である.事故後の数年間は,それらの食料について何がしかの規制があったが,現在では,これらの地域で実質的な規制はなされていない.

また,汚染地域住民に非汚染食糧を供給する問題も解決されていない.たとえば,1995年にウクライナの汚染地域に供給できた「非汚染」のミルク,バター,植物油,肉,野菜,砂糖などは,1991年に比べてわずか8〜20%であった.1994年との比較では,野菜,肉,植物油,種々の穀物の供給は半分に,ミルクと砂糖の供給は3分の1以下に減っている.ロシア,ベラルーシの多くの地域でも同様である.

チェルノブイリ被災者への国の援助に関しては,職権の濫用について触れずにいられない.チェルノブイリ原発事故によって放射線の被害をうけたいくつかの地域において,被災者が抱える問題を解決するために配分された予算が他のことに使われてしまったことが,以前から知られている.たとえば,ロシア連邦ブリャンスク州では,地方行政機関が,チェルノブイリ被災者のための予算を地方空港建設のために使ってしまった.ウクライナのジトーミル州では,役人のための保養施設の建設に予算の一部が転用された.数年前には,ウクライナのキエフで,国からきた「チェルノブイリ」用の予算が,高官の個人的な基金に横流しされるという汚職が発覚した.この汚職事件は内閣メンバーを含んだものであった.

このように,新しく独立した国々で,この数年取り組まれてきたチェルノブイリ被災者に対する国による援助は,社会経済システムの再構築,経済政策の調整,新しい国の最優先課題の決定といった過程のなかで,新たな試練をうけたのであった.こうした理由のため,多くの「チェルノブイリ」問題は未解決のままである.ロシア連邦における主要な問題は以下の通りである.

事態は明白である.チェルノブイリ事故から11年たった現在でも,もっとも危険な放射能汚染地域から避難した住民が抱える,もっとも緊急を要する問題に対してすら,政府は対処できないでいるのである.各国の中央政府が援助の縮小をもくろんでいる状態が続いていることも明らかである.将来,チェルノブイリ被災者に対する援助の重荷は,地方の行政機関と被災者自身が背負わされることになって行くであろう.

2.被災者救援の大衆運動

チェルノブイリに関連する最初の大衆運動は,事故後しばらくして発表されたチェルノブイリ口座904であった.ソ連国民は,支配システムの一環である党やソビエトの役人からこの口座について知らされた.口座番号と口座に関する情報は,すべてのラジオ,テレビで放送され,党,ソビエト,労働総同盟,そして公的な新聞のすべてに掲載された.権力機構が国民を慈善へと駆り立てたのであった.ソ連国民は,チェルノブイリ被災者のためにこの口座へ送金するように要請された.当時,それ以外のことはできなかった.(「チェルノブイリ」のものも含めどんな口座であっても)銀行に特別な口座を開くことができるのは権力だけであった.ソ連国民が開くことができたのは国営の貯蓄口座だけで,普通の銀行に口座を持つことはできなかった.ロシアには,国家中央銀行以外の銀行がなかったのである.

第1回のソ連人民代議員大会で,人民代議員がチェルノブイリ問題を公開するよう発言をはじめたとき,ソ連政府は,WHOIAEAのいわゆる「独立した」専門家に対し,ソ連にきて,チェルノブイリ原発の事故影響について「独立した」調査を行なうよう要請した.そして,日本人科学者・重松逸造を長とする委員会ができた.この委員会の結論は,チェルノブイリ事故は住民の健康に何らの影響も及ぼさないし,国際的な専門家の調査では何らの健康被害も見られなかったというもので,多くの人に混乱をもたらした.しばらくして,ソ連政府がこの国際的な専門家たちの費用を負担したことが明らかとなった.滞在費,最高級ホテル代,その他一切の費用が,ソ連政府首相N・I・ルイシコフの指示により,「チェルノブイリ」口座904から支払われていた.このことにより,チェルノブイリ原発事故被災者に対する最初の公的な大衆慈善運動は不名誉な終焉を迎えたのであった.

1989年までのソ連においては,共産党のもの以外いかなる大衆組織も許可されなかった.当然,チェルノブイリ被災者を救援するためのいかなる大衆運動も,できる道理がなかった.ソ連人民代議員は1990年にソ連憲法第6条を破棄し,共産党独裁体制の破棄および複数政党性と大衆組織についての新しい条文を採択し,大衆組織と運動についての法律を採択した.こうしてようやくにして,チェルノブイリ被災者救援を目的としたものも含め,多様な市民運動と組織が設立されるようになったのである.

ソ連人民代議員のはじめての,まがりなりにも自由な選挙が行なわれた後,チェルノブイリ事故の影響について多くの記事が新聞などに発表されるようになり,80年代末に非公式の「緑」の運動がソ連国内のさまざまな場面に現れはじめたことは特別に指摘しておくべきだろう.いくつかの資料によれば,1987年にソ連国内に存在していた環境保護関連の非政府組織(そのすべては,疑いなく共産党中央委員会のヒモ付きであった)は38団体であった.1991年には,環境保護関連で新しく生まれた非政府組織は5倍以上に増加し,その総数は1000を超えるほどになった.

チェルノブイリ事故影響に関係する最初の非登録(つまり非合法の)非政府組織(共産党独裁当時,登録制度はまだ存在していなかった)は1986年末から1987年始めにかけて現れた.ジトーミルの町では,非登録(非合法)の政治団体「ペレストロイカ」が報道関係者の機関である「ジトーミル通信」の編集者,ヤコブ・ザイコと筆者によって生まれた.この団体の仕事の1つは,汚染地域で生きる人々の生活について,あらゆる手段を使って,その真実の姿を広めることであった.公式の共産党の新聞では,そうした情報は禁じられていたため,この情報はタイプで打ったうえで,非合法なルートで人々に配布された.1988年以降,「ペレストロイカ」は簡単な機械を使って「速記録」と名付けた新聞を100部印刷し,非合法に発行した.その新聞は,政治的なテーマやチェルノブイリ事故によるジトーミル州北部汚染地区の状況についての批判を展開した.当時,グラスノスチこそもっとも重要な課題であった.チェルノブイリ原発4号炉の本当の事実や事故影響の規模について,国内では誰も知らなかった.その上,汚染地域に残っていた人々は,自分たちについての情報が完全に隠蔽されていることに気づいた.事故による被害,病気,死といった自分たちことについて誰も知らなかった.もちろん,彼らに対する救いの手は一切存在しなかった.

1988年に,チェルノブイリ地域で何が進行しているかについて,「プロムアフトマチカ」工場労働者の集会で,筆者ははじめて公式に報告する機会を持った.さらに,ソ連の民主化の進行にともない,チェルノブイリ被災者の権利を擁護するためのはじめての集会が「ペレストロイカを支持する国民戦線」によって開かれた.この組織は,小さな団体であった「ペレストロイカ」が成長したもので,そのときには,地方の行政当局によって登録されていた.数1000人の人々がこれらの集会に参加した.ジトーミルの人々は,チェルノブイリ被災者との団結を表明し,ウクライナ政府の総辞職,チェルノブイリ原発事故影響の真相の公開,行政が被災者に対して効果的な援助を与えることを要求した.チェルノブイリ原発事故影響の情報公開を押し殺そうとする勢力に対して,ベラルーシ国内(たとえば,人々は1990年に,汚染地域からミンスクまで「聖戦」行進を行なった)と同様に,放射線の影響をうけたジトーミル州のすべての地区で集会の波がわき起こった.

こうして,チェルノブイリ事故影響の真相を求め,被災者救援にむかう市民運動が始まったのである.1991年になってようやく,チェルノブイリの直接被害者,とくに子供たちを救うことを主な目的とする非政府組織が行政当局に登録され,社会に認知された.そうした組織は,当初,キエフ,ミンスク,モスクワで結成され,共和国規模または全ソ連規模の組織としての地位を得た.当時,「チェルノブイリ」に関する24時間テレビキャンペーンがしばしば行なわれ,被災者への救援金を集めるために有効に働いた.

1989年に,多数の外国人ジャーナリストが被災地を訪れ,被災地の複雑な状況が西側諸国の新聞に掲載された.その結果,チェルノブイリ被災者を救援するための数100もの組織が,西ヨーロッパ,日本,米国に現れた.国内の非政府組織は西側諸国の組織との連携をとるようになり,国際的な非政府組織となっていった.西側諸国や日本などからチェルノブイリ被災者へ人道援助を行なううえで,官僚的な壁を乗り越えるためには,共同して作業することが役だった.チェルノブイリ被災者にむけた,日本からのたくさんの親切で熱心な人道的援助は特筆しておくべきであろう.

1989から91年にかけての数年間が,ソ連国内と諸外国における「チェルノブイリ」運動のピークであった.ソ連の崩壊とともに,「チェルノブイリ」慈善活動と原子力平和利用の被災者に対する援助は著しく弱まってしまった.チェルノブイリ問題は,独立国家の建設と国家そのもののさまざまな問題を解決するために,脇に追いやられてしまったのであった.筆者の資料によれば,今日ロシアには,チェルノブイリ被災者を,直接あるいは間接に,救援している非政府の反原発国内組織が50以上ある.また,(ロシアの組織と連携している)国際的な非政府組織もいくつかある.

ロシア国内で,「チェルノブイリ」問題に専属的にかかわっている非政府組織は25である(末尾に一覧を示してある).概していえば,それらの組織の活動は,チェルノブイリ事故被災者に対するさまざまな形の援助である.ロシア連邦議会において必要な法律を作ったり,チェルノブイリ原発事故影響に関する科学的な調査計画についてロビー活動をすることから,具体的な組織,特に子供たちの家,病院,家庭や人々を助けるための活動までさまざまである.

筆者は,チェルノブイリ孤児を援助するために設立された,ロシアでは未だ唯一の個人的慈善基金の代表をしている.この基金では,ロシア国内の放射能汚染地域にある2つの子供の家に住む150人の孤児に対して恒常的な援助をしている.また,関税の壁と,基金の能力が許すかぎりにおいて,ウクライナ・ジトーミル州ナロジチ地区のナロジチ市とバザール村で,子供病院,老人,病人,たくさんの子供を抱えた家庭を助けている.この慈善基金の人道援助のなかには,食料,ジュースなどを購入し,貧しい子供や乳幼児(子供の家に住む0歳から12歳までの孤児)に与えることも含まれている.また,医薬品,注射器,靴,本,おもちゃ,キャンディー,ビスケット,カラーテレビなどを配ることもある.

この基金は,「非汚染地域」に新しく子供の家を造り,「汚染」地域であるクリンツィ市から,子供の家を移転させるようにモスクワ市長Yu.M・ルシコフに申し入れた.新しい子供の家の用地が見つかり,土木工事のデータがそろい,家の設計図面も引かれた.しかし,チェチェンでの戦争が始まったために,すべての作業は中断してしまった.

基金は,その能力が許すかぎり,汚染地域からの子供を治療しているジトーミル子供病院を支援している.また,汚染地域に住む低所得者の子供たちの心臓手術代を工面し,さらにウクライナ・ジトーミル州の汚染地域の老人や疾病障害者に一時金の支給をしてきた.

また,基金には奨学金制度があり,高等教育機関に在籍しているジトーミル州の優秀な学生に対し支援を行なっている.

加えて,基金の出版部では,環境保問題あるいは原子力に反対する本を編集,出版している(チェルノブイリ事故被災者には無料で配布).そして,その利益のすべてはチェルノブイリ事故被災者の救援のためだけに使われる.基金のスタッフは,さまざまな国際会議や,「緑」やその他の組織のフェスティバルに招待されたり,また「国際法廷」のメンバーに選ばれたりしている.基金は,さまざまな国際的あるいは国内的な「緑」の組織,「緑」の報道の参加者に対して特別な賞をもうけている.

基金は,西側諸国や日本に信頼できる仲間を持っている.和田あき子(東京)と日下郁夫(石巻)を代表とする組織との連携は特別に親密なものである.近年,彼らと彼らの組織は,ジトーミル州の老人に対して,またわれわれの基金が運営している2つの子供の家に対して,基金を通じてたびたび有意義な援助をしてくれた.また基金は,日本の京都大学原子炉実験所の研究者,今中哲二,小出裕章,小林圭二らと密接な共同作業を行なっている.彼らは,基金が出版した世界初の「核百科事典」の共著者でもある.

「チェルノブイリ」に関する非政府組織のうちでも,汚染地域に住み生きるために闘っている被災者が加わっている組織,あるいは事故処理作業に従事し,その結果障害をうけた人々の非政府組織について述べておきたい.ここでは,「モスクワ大学チェルノブイリ協会」および「モスクワ大学チェルノブイリ障害者協会」について紹介しておく.これらの組織は,それぞれ1991年と1994年に公式に登録され,今日ますます精力的な活動を続けている.

モスクワ大学チェルノブイリ障害者協会の主要な目的と仕事は,チェルノブイリ事故被災者あるいはその他の放射線被曝者に対する,社会・心理学的,情報関連,法律的,医学的な援助と物質的な支援である.すなわち,子供,女性,障害者,死亡した人の家族などに対する物質的,医学的,社会的援助;外国での医療を含め,子供,女性,疾病障害者に対する治療と旅行費用の工面;新しい事業をおこすことによる,協会メンバーへの職場の提供;(国際的な協力に基づく)チェルノブイリ原発事故被災地の復旧活動;チェルノブイリ原発事故影響に関するさまざまな観点(社会心理学的,法的,医学的,経済的,生態学的)からの科学的研究への資金援助,などなどである.

協会が支援してきたこれらの研究はなかなか興味深いものである.1991年以来,彼らは,チェルノブイリ原発事故影響に直接あるいは間接にかかわる約20の課題について研究を行なってきた.それらの課題のいくつかを以下に記す.「放射能で汚れた森林に生育する植物中の放射性核種の量」,「汚染地域住民の健康状態に対する,新しい医学・生物学的生活基準の影響」,「航空機乗務員とチェルノブイリ原発事故処理作業者に対する免疫学的試験の応用」,「ストレス要因への抵抗力強化手法の開発」(「チェルノブイリの子供たち」計画の一環).

また,モスクワ大学チェルノブイリ障害者協会は,モスクワ市当局によって認められた「チェルノブイリ事故による被災者と疾病障害者の社会的救済のための1997年プログラム」にも参加している.

モスクワ大学チェルノブイリ障害者協会が最近始めた取り組みの1つに,被災地からモスクワにきたものの,高等専門機関に入るうえで困難を抱えている子供たちへの教育支援がある.“チェルノブイリ人”の子供500人を支援する計画が進んでいる.

チェルノブイリ事故被災者救援をめざした大衆組織の問題を考えるに当たって,避けて通ることのできない問題がある.チェルノブイリ事故後,真相の報道を妨害し,また汚染地域住民の状態に関してたびたび嘘の情報を流してきた組織や人々がいる.そうした組織や人々が,グラスノスチの大改革の後,チェルノブイリ被災者救援組織を作り,自分たちこそ被災者の本当の友人だといいはじめている.

そうした皮肉なケースがジトーミルで起こった.筆者は1987年当時「ラジャンスカ・ジトーミル」新聞の記者をしていたが,その新聞の編集者D・パンチュークは,私がジトーミル州ナロジチ地区の被災地域を訪ねることを許さなかった.でも,私はそれらの村を訪ね,真実を伝える記事を書いた.編集者はそれを掲載しなかった.その代わり,別の記者による,被災地ではすべてがうまくいっている,という嘘の記事が掲載された.ところが,チェルノブイリ問題を取り上げることが危険でなくなってから,D・パンチュークは彼の同類と一緒になって,ジャーナリストの地方組織のなかにチェルノブイリ被災者救援のための基金を設立した.驚いたことに,こんないんちき基金が日本と関係を持つようになったのである.彼らの真の姿を知らずに接触を持った日本の人たちは,人道的な目的(そのことは本当にありがたいことだが…)をもって,ジトーミルにやってきた.そして,被災地の真相を隠蔽せよという共産党の決定を躊躇することなく履行し,仲間であるべき住民のストレス,病気,そして死に対してまさに罪のある人々と会ったのであった.チェルノブイリを秘密にすることに荷担した人々が日本に招待され,彼らがいかに勇敢にチェルノブイリの真実を伝えたかを日本の人たちに語り,そして新聞のインタビューに応じた.これ以上皮肉な例は想像することができない.私はこのことを,全ソ連とウクライナの新聞で2度にわたって記事にしなければならなかった.

しかし,ジトーミルでの出来事は決して例外ではない.チェルノブイリの真相を隠してきた人々が,大衆組織のレベルで真実の擁護者に転身したり,独立した国家において高い地位についている例は他にもたくさんある.

 

参考文献

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  2. On Common Program and Situation Concerning Liquidation of Chernobyl Catastrophe's Consequences. The Resolution by Supreme Soviet of the USSR. Moscow. 1989. Author's archive.
  3. An International Day of Environment. Expert's Evaluations of Programs and Decisions Concerning Liquidation of Chernobyl Catastrophe's Consequences. Moscow. 1990.
  4. A.Yaroshinskaya. Bluff and Poverty. Stolitza. 1991. Moscow; Komsomolskoe znamya. #136.1991. Kiev.
  5. A. Yaroshinskaya. Chernobyl. Top Secret. Tokyo. 1993.
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ロシアの国内あるいは国際チェルノブイリ被災者救援非政府大衆組織リスト

 

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  3. チェルノブイリ事故被災者協会:Public Association of Persons Affected as a Result of the Catastrophe at the Chernobyl NPS. Moscow.
  4. チェルノブイリ事故被災者救済国際基金:Division of the International Foundation for Assistance to Victims of Chernobyl. Moscow.
  5. 虹21:"Raduga-XXI" ? division of the international non-government humanitarian organisation "Foundation "Chernobyl - help" of North America. Moscow.
  6. チェルノブイリ救済医療基金:Foundation "Social Protection and Medical Provision of the Chernobylers". Moscow.
  7. スペック・チェルノブイリ:"Spec.Chernobyl" Foundation. Moscow.
  8. チェルノブイリ障害者,孤児,難民支援療養基金:Foundation of assistance and rehabilitation of invalids, orphans, refugees and victims of Chernobyl. Moscow
  9. チェルノビラー:"Chernobyler" ? social protection foundation. Moscow.
  10. ロシアチェルノブイリ同盟:Union "Chernobyl" of Russia. Moscow, with divisions over the country.
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  12. チェルノブイリ・ヘルプ:"Chernobyl-Help" ? the international humanitarian organisation. Moscow.
  13. チェルノブイリ・チェルノブイリの子供たち:"Chernobyl, Children of Chernobyl" ? division of the international association. Ul'yanovsk.
  14. チェルノブイリ労働者同盟:"Union of Chernobyl Workers" ? Russian association. Voronezh region, settlement Ramon.
  15. チェルノブイリ・アトム:"Chernobyl-Atom" ? international association of unions. Moscow.
  16. チェルノブイリ・病院:"Chernobyl-Hospital" ? foundation. Moscow.
  17. チェルノブイリ・希望:"Chernobyl-Hope" ? foundation for assistance to invalids, injured, ill, overirradiated as a result of Chernobyl catastrophe. Moscow.
  18. チェルノブイリ安全基金:Chernobyl Safety Foundation. Moscow.
  19. チェルノブイリ・エネルギー盾:"Chernobylenergozaschita" ? association for social protection of citizens who took part in liquidation of the consequences of the accident at the Chernobyl NPS. Moscow.
  20. チェルノブイリ・ミッション:Chernobyl Mission" ? public organisation. Moscow.
  21. チェルノブイリ・シベリア支部:Operative department at the Siberia regional division "Chernobyl". Novosibirsk.
  22. チェルノブイリ:"Chernobyl" ? public association of invalids of war and Chernobyl. Moscow.
  23. ヤロシンスカヤ・チャリティ基金:Private Charity Foundation of Yaroshinskaya (assistance to people affected by the accident at the ChNPS). Moscow.
  24. チェルノブイリ協会:Association "Chernobyl ? Moscow State University"
  25. 国立モスクワ大学チェルノブイリ疾病障害者協会:The Moscow State University Scientific Association of Chernobyl Invalids. Moscow.