ウラン採掘と人形峠旧ウラン鉱山

 
 

未だに陽が当たらない「上流」

原子力の世界では、ウランを採掘し、濃縮、加工して原子炉に装荷するまでの段階を「アップストリーム(上流)」と呼び、原子炉でウランを燃やしたあとの、再処理、廃物処理・処分を「ダウンストリーム(下流)」と呼んでいる。

原子炉を運転すれば、核分裂生成物や放射化生成物が生み出される。純粋に物理学的に言えば、生み出した放射能を消滅させることもできる。しかし、実際にそれを行おうとすると、厖大なエネルギーが必要となるし、別の放射能が新たに生み出されてしまう。結局、自ら生み出した放射能を消すことができないまま、人類はここまで来た。やむなく、生み出した放射能を地中深く埋める案などが出されてきたが、安全の保証を与えられないまま今日に至っている。原子力発電所が「トイレのないマンション」といわれるゆえんであり、ようやくにして「下流」問題の深刻さが認識されるようになってきた。

しかし、放射能による被曝の危険は「上流」で始まっている。なぜなら、ウランがそもそも放射能だからである。ウランは人類が作り出した放射能ではないが、人類の手でそれを採掘した段階から人類の被曝は始まっている。

 

ウラン鉱山による巨大な被曝

ウラン鉱山に由来する被曝には2つある。1つは採掘に従事する労働者の被曝であり、もう1つは掘り出した鉱石、鉱滓および残土による環境汚染からの被曝である。

ウラン鉱山労働者には古くから肺の病気が多発し、それが肺癌で、原因はラドンとその娘核種にあることも1930年代には明らかになっていた。ラドンはウランの娘核種の一つで、気体であるため、ウランを掘り出してしまえば、容易に空気中に逃げ出して、人体に取り込まれる。特に、ウラン鉱山の坑道にはラドンが充満し、労働者に肺癌を引き起こしたのであった。

また、ウラン自身の半減期は45億年。仮に製錬によって鉱石の中から完璧にウランを取りだしたとしても、残りの鉱滓にはトリウム230から鉛206までの娘核種がすべて含まれる。トリウム230の半減期は80万年という長さである。結局、ウランを掘り出すかぎり、人類は永遠という長さにわたって、これらの放射能による脅威を受け続けることになる。今日までの原子力開発ではウランを利用するという面しか考慮されず、鉱滓はもちろん、利用されなかった鉱石も環境に打ち捨てられた。国連科学委員会は、原子力開発による人類の最大の被曝源は、原発そのものでも、再処理工場や高レベル廃物でもなく、ウラン鉱山の鉱滓にあることを、すでに指摘している。

 

人形峠ウラン鉱山と労働者の被曝

1954年に原子力予算が成立してすぐ、日本では一気にウラン探鉱が始まった。日本全土の半分を超える面積を探鉱した結果、1956年になって岡山・鳥取両県にまたがる地域がウラン鉱山として有望とされ、静かな山村が一気に「宝の山」へと変わった。県境の峠は「人形峠」と名付けられ、一帯の鉱山を総称して「人形峠ウラン鉱山」と呼ぶようになった。また、鉱山の運営は新たに設立された原子燃料公社に任された。67年になって原子燃料公社は動力炉核燃料開発事業団に拡大改組されたが、およそ10年にわたってウランの試験的な採掘が行われた。その挙げ句に、人形峠のウランなど全く採算がとれないことが明らかとなって、採鉱作業は放棄される。その間、延べ1000名の労働者が坑内作業に従事したが、最近の一連の事故でも明らかになった動燃のずさんな体質はこの当時はいっそう酷く、作業環境のデータも個人の被曝データもまともなものは残っていない(と動燃は言っている)。限られたデータは当時の坑内の作業環境が著しく劣悪で、坑内は国際的な基準と比べて1万倍ものラドン濃度であったことを示している。私が暫定的に評価したところ、肺癌の犠牲となる労働者は70名となった。

 

放置され続ける環境の汚染

人形峠でのウラン採掘を放棄したあと、動燃は海外からのウラン鉱石を人形峠まで運び込んで製錬・濃縮試験を始めた。当初、坑内労働にかり出された住民たちも、一部は動燃の下請企業労働者として働き、一部は静かな生活を営む山村の住民に戻っていた。

試掘のため住民から借り上げられていた土地もすでに住民の土地に戻っていたが、88年になって、その土地に鉱石混じりの土砂が20m3(ドラム缶100万本分)、野ざらしのまま打ち捨てられていることが発覚した。

残土の堆積場では、放射線作業従事者でも許されないほどの空間γ線が測定され、半ば崩れた坑口付近では放射線取扱施設から敷地外に放出が許される濃度の1万倍ものラドンが測定された。

それでも、動燃は残土堆積場を柵で囲い込むなどの手段で残土の放置を続け、行政は安全宣言を出してそれを支えた。ただ、鳥取県側の小集落方面(「かたも」と読む)地区だけは、動燃、行政の圧力をはねのけ、残土の撤去を求め続けた。私有地の不法占拠を続けることになった動燃は、1990年になって、残土を人形峠事業所に撤去する協定書を結んだ。ところが、それまで残土の安全宣言を出していた岡山県は、事業所が峠の岡山県側にあることを理由に、鳥取県からの残土の搬入を拒んだ。動燃も岡山県の反対を口実に撤去を先延ばしし、10年目に入った現在も、残土は撤去されないままとなっている。

 

過酷な苦しみ−最近の動き

95年末の「もんじゅ」、97年3月の「東海再処理工場」、4月の「ふげん」、そして最近発覚したウラン廃物のずさんな管理など、動燃の施設で相次いで問題が噴出した。それらは、原子力が抱える困難な課題が姿を現したもので、いずれも重要なものである。しかし、それらのいずれにおいても、許容濃度を超えた放射能が敷地境界を越えて流出したわけではない。ところが人形峠においては、放射線の管理区域でもない純粋な私有地において、許容濃度をはるかに超える放射性物質が住民を襲っている。

自らの土地に放射能を放置され、何とかそれを撤去してほしいと求めてきた住民の悲願は、10年たっても叶えられずに来た。住民の間には疲れと絶望が広がり、それを見て取った鳥取県は方面地区への残土の埋め捨てを画策して動き始めた。現地は現在、緊張のただ中にある。