原子力安全問題ゼミ

1999年11月1日(月)

JCO事故における被曝と放射能汚染問題

京都大学 原子炉実験所  小出 裕章


機ナ射線事故と放射能汚染事故

JCO事故が発生して以降、その事故では放射線による被曝が問題であって、
放射能汚染による被曝は問題にならなかったかのような主張があふれている。

今回の事故は、臨界事故である。原子炉は、もともと核分裂の連鎖反応を持続的に維持する、
すなわち臨界状態を維持するための装置であり、
当初から、反応によって発生する放射線に対する備え、すなわち遮蔽に対する考慮がなされている。

しかし今回は、臨界事故の発生など夢にも思わなかった核燃料加工施設で事故が発生したため、
いわば裸の原子炉が突然出現してしまった。その結果、核分裂反応で生じた中性子とγ線は、
遮蔽を考慮していなかった建屋を突き抜けて、周辺環境にまで達した。
しかし、起きた物理現象はウランの核分裂連鎖反応である。核分裂反応に伴って、
中性子線とγ線が発生することは当然であるが、ウランが核分裂すれば、
反応の当然の帰結として核分裂生成物も生まれる。

その中には、閉じこめ困難な希ガスもあるし、
人間の甲状腺に取り込まれやすい上に揮発性であるよう素もある。
本報告では、それら放射性物質の挙動を検証するとともに、原子力施設の防災について考えてみる。

まずはじめに、事故で核分裂したウランの量を決めねばならない。
ウラン1mgが核分裂したときに発生するエネルギーは約1 kWD
(1 kWのエネルギーが丸1日放出される量)
に相当し、核分裂するウランの原子核数は2.56x1018個である。

10月20日になって、沈殿槽内にたまっていたウラン溶液の採取がなされ、
その中に残っていた核分裂生成物の分析がなされた。

しかし、試料を採取するときに、沈殿槽の攪拌機が動かず、
溶液の均一性が保証できないという
決定的な欠陥を持った試料となってしまった。
そのため、この試料の分析から正確な評価が得られるとは期待できない。
この試料からの推定値については、
付録2として本報告の最後に添付するが、
およそ0.5mg〜1mg程度のウランが核分裂したと推定される。

一方、今回の臨界事故で燃えた(核分裂した)ウランの量は
今中さんの評価によると0.7mgである。
そこで、ここでは、今中さんの推定値を採用し、
全核分裂数を1.8x1018個とする。
(ただし、次項のソースタームは全核分裂数1x1018
核分裂ウラン量0.4mgとして評価してあり、
各自7/4倍に補正して下さい。)

過去の臨界事故の歴史と規模を右の図に示す。


供ゴガスとよう素のソースターム

 希ガス

臨界事故の瞬間に、強烈な中性子線とγ線が周辺の放射された。
それは近くにあった日本原子力研究所那珂研究所の
中性子線モニタとγ線モニタを反応させたが、
茨城県内各所に配置されていたγ線モニタは、
その後ほぼ丸1日にわたって、断続的にγ線を記録し続けた。
その例を右中央と左下の2枚の図に示す。

また、モニタリングポストの地図を右下の図に示す。
言うまでもなく、それらのγ線は事故現場から直接放射されたものではなく、
環境に漏洩してきた核分裂生成物が放射性雲となって各所に流れてきて、
モニタを反応させたのである。

事故が起きた転換試験棟は放射性物質の閉じこめ機能が不十分であった上、
事故後も換気系が作動していたため、フィルタを素通りする希ガスは易々と環境に流出した。

当然、放射性雲の主成分は希ガスであったし
おそらくは次に述べるよう素も含まれていたであろう。

単位重量のウランが核分裂した場合に生成する
個々の核分裂生成物の時間的な推移については
すでに今中さんが計算してくれている。

そのうち、希ガスについて、
0.4mgのウランが核分裂した場合に生成される量を示すと表1になる。
この表を見れば、核分裂後のそれぞれの放射性核種の推移は、
先行核の存在のため、複雑な様相を示している。

しかし、放射性核種の中には著しく半減期の短いものがあり、生成された後、急速に減衰していく。

そのため、環境に漏洩した放射性希ガスの量を評価する場合にも、生成後どの時点で評価するかが決定的な要因となる。
沈殿槽内でウランが核分裂して生まれた希ガスは直ちに気相に移り、
沈殿槽にあいた開口部から建屋内に、そして建屋の換気系で環境に放出された。
敷地周辺までの距離はおよそ100mほどしかなく、1m/sという弱い風であっても1分程度の間には、
一般環境に到達したであろう。

そこで、1分後の値で評価するならば、
環境に放出された放射性希ガスの総量は約1000テラBq
(数万キュリー)
である。
(「国際原子力事象評価尺度」は放射能による影響だけしか
考慮しないというはなはだ不十分な尺度であるが、
その尺度によると数千から数万テラBq相当の
放射性物質の外部放出は「レベル5」とされている)。

また、数km離れたモニタリングポストに達するまでにも
1時間とはかからなかったであろうし、その時点でも、
希ガスの量は10テラBq(数百キュリー)ある。
事故発生から1時間、現場の混乱が続いている中で、
放射性雲は色も匂いも音もないまま周辺環境に
広がっていったのである。

その後、一部の住民は東海村による避難勧告のため、
舟石川コミュニティーセンターに避難させられたが、
前頁左下の図に示したように、その場は、
夜通し、JCOからの風下にあたったため
放射性雲に襲われることになった。

表1 U235:0.4mg-fissionで生成される代表的な放射性希ガス

は、その時刻における最大寄与、 が2番目、 は3番目の寄与を示す。

**1sec1min1hr1day1week1month1yr
Kr-83m1.830h4.72E+063.55E+081.01E+111.74E+097.16E-015.92E-014.00E-02
Kr-85y10.73y1.19E+051.26E+051.05E+066.48E+066.60E+066.56E+066.20E+06
Kr-85m4.360h1.07E+097.44E+105.68E+111.47E+101.68E+002.43E-390
Kr-871.272h6.76E+112.26E+122.34E+121.02E+097.08E-0700
Kr-88 2.860h1.07E+122.37E+122.34E+128.88E+096.20E-0600
Kr-893.070m1.34E+141.74E+143.16E+080000
Kr-9032.321s1.01E+153.67E+143.94E-190000
Kr-918.570s2.69E+152.71E+1300000
Kr-921.850s4.76E+151.54E+0600000
Kr-9301.289s1.70E+152.82E+0100000
Kr-940.208s2.71E+14000000
Kr-950.780s2.61E+134.44E-1000000
Kr-960.497s5.60E+129.64E-2400000
Xe-1335.290d1.27E+071.46E+072.00E+097.00E+106.88E+103.27E+092.90E-10
Xe-134m0.290s1.29E+142.11E+114.48E+060000
Xe-1359.080h1.54E+101.86E+101.79E+114.32E+111.41E+073.19E-120
Xe-135m15.700m1.29E+121.24E+123.78E+112.74E+106.60E+039.24E-230
Xe-1373.830m9.56E+131.48E+142.32E+117.16E-19000
Xe-13814.080m4.16E+135.36E+133.03E+129.48E-18000
Xe-13940.800s7.68E+143.58E+142.76E-120000
Xe-14013.600s1.88E+151.01E+1400000
Xe-1411.730s3.71E+152.28E+050000
Xe-1421.240s1.46E+156.96E+0000000
Xe-1430.300s3.66E+132.31E-4600000
Xe-143m0.960s1.35E+144.24E-0500000
Xe-144 1.150s2.12E+137.60E-0300000
Xe-145 0.900s2.90E+115.32E-0900000
Xe-1462.239s2.35E+102.75E+0200000
total[Bq]*1.89E+161.23E+159.16E+125.60E+117.04E+103.35E+096.20E+06
total[Ci]*5.12E+053.33E+042.48E+021.51E+011.90E+009.04E-021.68E-04


よう素

 0.4mgのウランが核分裂した場合のよう素同位体の経時変化を表2に示す。
よう素も事故が起こった当初から環境に漏洩したであろうから、
仮に1分後の値を考えれば、ソースタームは数百テラBq(1万キュリー)、
1時間後の値を考えても、10テラBq(数百キュリー)あった。

付録-2に示した沈殿槽内のウラン溶液の分析結果を参考にすれば、
生成したよう素の数十%が沈殿槽外に漏洩したと推定され、
およそ百キュリーのよう素が環境に出たことになる。
ただし、その主成分はI-135やI-134など比較的半減期の短いよう素同位体であり
、被曝を考慮する上で重要なI-131のソースタームは1キュリー弱、
環境に漏洩した量もその数分の1程度であったと思われる。

表2 U235:0.4mg-fissionで生成される代表的な放射性よう素

は、その時刻における最大寄与、 が2番目、 は3番目の寄与を示す。

**1sec1min1hr1day1week1month1yr
I-1291.57E7y2.19E-044.44E-042.99E-019.04E+009.44E+009.80E+001.04E+01
I-1318.040d4.28E+077.48E+071.30E+102.47E+101.68E+102.24E+096.52E-04
I-1322.280h8.36E+098.56E+093.57E+109.28E+102.54E+101.59E+085.56E-24
I-13320.800h1.13E+102.77E+104.56E+112.95E+112.43E+091.76E+010
I-133m9.000s5.04E+131.13E+123.22E+111.02E+041.15E-4300
I-13452.600m1.08E+121.46E+128.00E+124.96E+051.79E-4400
I-134m3.800m1.10E+139.16E+121.94E+080000
I-1356.550h9.48E+111.85E+121.81E+121.58E+113.82E+045.36E-220
I-1361.418m8.40E+131.36E+144.56E+010000
I-136m44.800s3.50E+141.47E+142.50E-100000
I-13724.500s8.12E+141.82E+145.84E-300000
I-1386.460s1.55E+152.94E+1200000
I-1392.300s2.26E+154.44E+0700000
I-1400.860s8.04E+141.57E-0300000
I-1410.430s4.80E+132.38E-2800000
I-1420.200s6.76E+121.61E-130000
total[Bq]*5.96E+154.84E+141.06E+135.72E+114.44E+102.40E+091.04E+01
total[Ci]*1.61E+051.31E+042.88E+021.54E+011.20E+006.48E-022.80E-10


掘ナ射性よう素による汚染

 臨界事故発生直後から、放射性希ガスが環境に漏洩したことは、
モニタリングポストのデータを見れば、一目瞭然であった。
また、希ガスの崩壊生成物であるSr-91やCs-138などが各種の試料から検出されたことも
早くから公表されて、それを裏付けた。

放射性核種のうち、希ガスに次いで環境に放出されやすい核種はよう素であり、
人体への影響も大きい。

当然、よう素に対するモニタリングは、事故直後から精力的に行われたはずだと私は考えた。
ところが、事故発生後、1日たっても、2日たっても、よう素を含め、希ガス以外の放射性核種が
どのように環境に漏洩したかについては、まったく情報が出てこなかった。

東海村は、「原子力が地場産業」と言うように日本原子力研究所(原研)、
核燃料サイクル開発機構(核燃機構)をはじめ多数の原子力関連施設が立地し、
事故が発生して以降、多数の専門家が事故への対応に当たったし、
放射性物質による環境への影響も調べたはずであった。

それでもなお汚染についての情報がないということは、
汚染そのものが生じなかったということかもしれないと私自身が思いかけた。

それでも、よう素が全く漏洩しないでいてくれるとは思えなかったし、
ちょうど10月2日の夜になって、荻野晃也さんが現地に行ってくれることになり、
彼が採取してくれる試料を私が放射能測定することにした。

彼が3日午前中にサンプリングした試料は直ちに宅急便で実験所に送られ、
それを受け取った4日午前から私はGe半導体検出器による
γ線スペクトロメトリによって放射能測定を始めた。

始めたとたんに、CRTのスペクトル上にI-131,I-133のピークが現れた。
昼過ぎまでに概略を把握した私は、放射性よう素による環境汚染データをマスコミに公表し、
あわせて科学技術庁に厖大に蓄積しているはずの関連データを公開させるように依頼した。
マスコミからの問い合わせに対する科技庁の回答は、「放射性物質のデータはとりまとめ中で、
いつ公表するかは分からない」というものであったという。

荻野さんが採取し、私が測定した試料の中に放射性よう素が含まれていた事実は
翌5日朝刊で報道された。
それを受けて、茨城県は5日にほぼ同じ場所で同じ試料を採取。
6日に測定、7日にその結果を発表した。
その値は、放射性核種の減衰を考慮すれば、荻野さんと私が得た値と実質的に同じものであった。

その後、7日になって小林圭二さんが社会民主党の現地調査に同行してJCO内部に立ち入り、
試料を採取するとともに、敷地周辺でもサンプリングを行ってくれた。
それらの試料も合わせ、よう素についての分析結果を表3に、
サンプリング点の地図を下の2枚の地図に示す。














ポイントで「G1」のように「G」の表記がされているものは荻野さん、
「K1」のように「K」の表記がされているものは小林さんによるサンプリング点である。











表3 土とヨモギについてのよう素検出データ(放射能強度は1999年10月1日4:30am時点に補正)

Point方角距離SoilMugworf
***I-131I-133ratioI-131I-133ratio
** MBq/m2%Bq/m2%*Bq/kg%Bq/kg%*
K-6ENE5321989ND*0ND*ND**
K-5NE4882565ND*0ND*ND**
K-4NNE387120862579081215ND*ND**
K-15NNE10140017543005239-*-**
K-3NE1873845ND*02.633.4ND**
K-11NW1133511282883421-*-**
K-2NW105ND*ND*0395.111334229
K-12WSW115387.9373262524-*-**
G-1WSW73212130019143110.36071120
K-10WSW2344ND*ND*0ND*ND**
G-2SW70111.02251320508.910635.521
K-1SW824648ND*0475.09833221
K-9SW781ND*ND*02.128.0***
K-8SSW406ND*ND*0-*-**
G-3SSW98-*-*0738.412987.218
K-13S119046.0377032020-*-**
G-5S1344ND*ND*0ND*ND**
G-4S171152529919201210.32198.118
G-6S813ND*ND*01.668.4276217
G-7SSE2063ND*ND*0-*-**
K-14ESE2048211110145523-*-**
K-7ESE288265ND*0-*-**












このうち、ヨモギについての測定結果について、
公表されている範囲での原研、核燃機構、茨城県などの測定結果とともに、
試料採取あるいは測定時点での値を、図示すると右の図になる。

 I-131,I-133が検出されたこれらの試料は白菜、ナスの葉などの野菜から、
ヨモギまで種類が様々であるし、測定機関も異なっている。
また、採取地点も敷地境界のごく近傍から1000m離れた地点まで分布している。
それでも、いずれも2桁程度の範囲に含まれ、傾向としてはよい一致を示している。

























同じデータを臨界状態がほぼ終了した10月1日4:30am時点に減衰補正し、
距離別に並べ替えて図示したのが、右の図である。
当然のことであるが、私が測定したデータも、核燃機構など
その他の機関が測定したデータもほとんど同じであり、
I-133はI-131濃度のほぼ20倍の濃度となり、
敷地境界近傍の汚染が高い試料では、
I-131で100 Bq/kg、I-133は2000 Bq/kgの
汚染であったと思われる。





















やはり、よう素は環境に漏洩していたのであった。
そのことは、事故期間中、転換試験棟の換気系が動いていたので
むしろ当然ともいえるし、転換試験棟には、
換気扇などの開口部があいていて、そこからも漏洩が起こった。

JCOは10月8日になって排気筒においてよう素測定を始めたが、
その時点においてもI-131の濃度は周辺監視区域外に放出が
許される濃度限度の2倍になっていた。

その後21日までのJCOによる測定結果を右下の図に示すが、
事故当時にまで外挿すれば、I-131、I-133では、
濃度限度の10倍を超えるような濃度であったことが分かる。

ただし、測定が行われたのは、排気筒出口であって、敷地境界ではない。

そのため、事故の進行時において、
敷地境界におけるよう素濃度が法の規制を超えていたかどうかは
定かではない。









事故調査対策本部は10月22日に「(株)ジェー・シー・オー東海事業所に係わる
環境モニタリングについて(実施状況)」という文書を公表したが、
その中には、核燃機構が9月30日の13:55には大気中のよう素の測定を始めていたことが記されている。

そして、その測定で、敷地近傍において、I-133とI-135を検出している。
その濃度はI-133で3.6x10-7〜3.9x10-7Bq/m3、I-135で1.6x10-6〜3.4x10-6Bq/m3とされており、
濃度限度にはなお(I-135に対する濃度限度は4x10-4 q/m3)2桁ほどの余裕があったように見える。

しかし、原研(6試料)や水戸原子力事務所(3試料)をあわせても、合計で30試料にすぎず、
必ずしも十分であったとはいえない。
何よりも、事故の進行途上において、速やかに正確な情報を公開することこそ行政の役目であったと思うが、
それは満たされなかった。


検ッ羸子線によって放射化された放射性核種の量

荻野さんと小林さんが採取してきてくれた試料には、
よう素のほかにもいわゆる放射化生成物が含まれていた。
そのうち土ついての測定結果を関連した測定ポイントのみ、表4に示す。

このデータは各地点での中性子の積分フラックスを評価する上で、役立つはずであるが、

残念ながらまだ各試料中に含まれる元素組成の分析が済んでいない。

表4 土試料に含まれていた放射化生成物の濃度(放射能強度は1999年10月1日 4:30amに補正)

Point方角距離Na-24Sc-46Fe-59Co-60Eu-152Sm-153
**mBq/kg%Bq/kg%Bq/kg%Bq/kg%Bq/kg%Bq/kg%
K-11NW11906896.41460.483.61.16.43.248.88413.7
K-12WSW15210013300.923.82.01.47.71.52.79525
K-13 S116760276.42.93.96.7ND*0.731ND*
K-15NNE105053676.73.03.48.30.2450.347ND*
K-14ESE20ND*2.95.50.457ND*ND*ND*
G-2SW704306.0ND*ND*ND*ND*ND*
G-1WSW732229.5ND*ND*ND*ND*ND*
G-4S1712418.6ND*ND*ND*ND*ND*
G-5S1344970ND*ND*ND*ND*ND*



后ツ消J射線による被曝






JCOは事故当日の13:56に半径500m以内の住民を
避難させるよう要請を出した
(当時、中性子線量の測定すらがなされず、
臨界が続いているとの確証もないままで、
何故JCOが半径500m以内の住民の避難要請をしたか、定かでない。
しかし、相当の判断応力を持った専門家がいたであろうと思われる)。

これまで原子力防災は国の専管事項であるとされてきたが、
その国が何らの対応もとらないため、
15:00になって、東海村が半径350m以内の住民に対して避難の指示を出した。

500mから350mにされた根拠は示されていないが、
それは左に示す地図を見れば理解できる。
すなわち、自治会の区画がちょうどそれに適していたからである。




















敷地周辺におけるγ線と中性子線の測定点を右の図に、
また、このうち転換試験棟にもっとも近く最大の線量率を示した
ポイントい砲けるγ線と中性子線の線量率の推移を右下の図に示す。










JCOでは臨界事故を全く想定していなかったため、
当初中性子の測定はなされず、
公表データは夜7時を過ぎてからのものしかない。

ただ、その後のガンマ線量との比をとると、およそ9となっていて、
その値を使って事故当初にまでさかのぼることができる。
そうした操作をした上で、今回の事故で転換試験棟から
直接周辺に漏洩してきた中性子線とγ線による事故継続期間中の
積分被曝線量の推定をすると次頁中程左の図となる。

敷地境界のごく近傍にいた人は約100mSv
(放射線業務従事者の線量限度が50mSv/年、
緊急時の線量限度も100mSv、一般公衆の線量限度は1mSv/年)

もの被曝をしてしまうほどの放射線であったし、
1mSvを超える被曝範囲は半径450m近くに達した
(「国際原子力事象評価尺度」のレベル4では、
一般公衆の被曝線量は数mSvとされている)。

国も事態の深刻さが明らかになってきた9月30日夜には、
避難範囲の拡大を考慮したといわれるが、
混乱が起きるとの理由で、避難の範囲を拡大しなかった。

また、避難の指示が出た後、実際の避難が行われたのは
夕方4時から5時近くであったというが、
15:35迄の積算の被曝量を推定した結果を右下の図に示す。
半径350m圏にいた人たちは、すでに避難をするまでに
一般公衆の年間線量限度(1mSv)を超える被曝をさせられてしまっていた。




此ス颪遼漂匯愎砲隆靄椹兩

今回の事故が示した教訓はたくさんある。
そのうちでも、国が防災に対してとっている基本的な立場を確認しておくことは重要であろう。
原子力防災は国の専管事項とされてきたが、今回の事故を通じて、
結局国が行ったことは、事故が収束してしまった以降の、
データ整理とつじつま合わせでしかない。

事故発生以降の国と県、村の対応を表にして示す。
事故発生後、直ちに対応したのが消防隊であったことは当然であろう。

しかし、事故が進行する中で、対策本部を初めて作ったのは東海村であった。
科技庁が対策本部を作ったのは、事故発生から4時間過ぎた午後2時半になってからであったし、
政府の対策本部はそれから30分たった午後3時であった。

国が何らの指示も出さない中、東海村は独自に350mの決定を出したのも、午後3時であった。
安全委員会に助言者組織が設置されたのは、さらにそれから30分もたった3時半であった。
その間にも、中性子線やγ線が事故現場から直接周辺に漏洩していたし、
放射性希ガスやよう素も周辺環境に漏洩していた。

1999/9/3010:35事故発生
*10:46消防隊到着
*12:00(警)対策本部
*12:10(警)200m立ち入り規制
*12:15(村)災害対策本部
*13:56JCOが500m圏の避難命令を村に要請
*14:30(国)科技庁災害対策本部
*15:00(村)350m圏避難指示
*15:00(国)政府事故対策本部
*15:20(警)3km立ち入り規制
*15:30(国)原子力安全委員会、「緊急助言者組織」
*16:00(県)事故対策本部
*16:51(国)政府事故対策本部初会合
*17:45(県)事故対策本部初会合
*17:55中性子線の確認
*18:00(国)安全委「助言者組織」初会合
1999/10/10:50(県)10km圏の屋内退避勧告
*06:15臨界の収束確認
*16:40(県)10km圏の退避勧告解除
1999/10/218:00(国)350m圏の避難解除

その後、17:55には中性線が出ていることが確認されるが、
それでも国は住民に対する何らの処置もとらなかった。

東海村が独自に舟石川コミュニーティーセンターに避難させた住民は不安の夜を迎えたであろう。
原子力安全委員会の「緊急助言者組織」の会合で、
「風下に避難している住民は別の場所に避難させるよう要請があった」との説明が
21:06に科技庁審議官によってなされるが、国は何らの処置もとらなかった。

その夜、舟石川はJCOの風下となり、避難した住民たちは放射性雲に巻き込まれることになった。

場所低減係数
屋外1.0
自動車内1.0
木造家屋0.9
石造り建物0.6
木造家屋の地下室0.6
石造り建物の地下室0.4
大きなコンクリート建物(扉及び窓から離れた場合)0.2以下

国が作成した「原子力発電所周辺の防災対策について」では、
住民の予想被曝線量が10〜50mSvになってはじめて「自宅等の屋内待避」することにされている。
一般公衆の年間の線量限度1mSvの10倍から50倍である。

その後、50mSv以上の予想被曝線量になって、ようやく「避難」も視野に入ってくるが、
それでもなお「避難」は「コンクリート建屋の屋内待避」と並列で記されている。
しかし、被曝を避ける上で、一番有効なのは、放射性雲に巻き込まれないことであり、
風下から逃れることである。

右の表に示すように屋内待避などは実質的にはほとんど意味がない。
今回の事故での国の対応が示したように、
国が嫌がるのは「混乱」であり、「混乱」を避けるためには、
民の被曝を低減させようとはしていない。

少なくとも、政府の中に対策本部が作られるまでに5時間もかかるようでは、
事故の決定的段階は過ぎてしまうし、
今回も国の防災対策は実質的には何ら発動されず、事故の進行を座視するのみであった。

今回の事故で燃焼したウランの量は、はじめに述べたように0.7mg程度である。
その反応で生じたエネルギーは、1.4リッターの灯油が燃えた時に生じるエネルギーと同じである。
そして、これだけの事態が発生した.。原子力とはつくづく取り扱いにくいものだと思わせられる。

広島原爆で燃焼したウランは750gであるから、今回の事故の約100万倍である。
100万kWの原子力発電所の場合には、1年間の運転で約1000kg、
広島原爆に比べて約1000倍のウランが燃える。今回の事故に比べれば、10億倍となる。

今回の事故ですら、国の防災対策は有効でなかった(あるいは意図的に処置をとらなかった)が、
その10億倍もの放射能を巻き込んだ事故が起こった時に、
なおかつ有効な防災対策が実行されると期待する人はいるのであろうか?


察テ本の原子力開発の最大の欠陥 ――― 責任の根元を問えない体質

水俣病にその生涯を捧げて取り組んできた原田正純氏は
大佛次郎賞を受賞した「水俣が映す世界」で書いている。

「水俣病の原因のうち、有機水銀は小なる原因であり、
チッソが流したということは中なる原因であるが、大なる原因ではない。
大なる原因は"人を人と思わない状況"
いいかえれば人間疎外、人間無視、差別といった言葉でいいあらわされる状況の存在である。」

今回のJCO事故の原因については、作業員の愚かな行為であったかのような主張が当初なされた。
しかし、臨界事故に対する知識を全く与えられなかった作業員を責めるのは筋違いであるし、
沈殿槽にウラン溶液を投入することについても作業員は
「核燃料主任技術者」に相談して許可を得ている。

ステンレス製のバケツを使ったことが悪いかのようにもいわれたが、
作業員が現場での工夫を凝らして作業することは褒められこそすれ、非難されるいわれはない。
その上、バケツの使用は工場のマニュアルとして認められていた。

そのマニュアルが悪いとの批判もあるが、扱っていたものが粉体や揮発性の溶液ではないから、
バケツを使うこと自体も褒められることではないとしても著しく悪いことでもない。

今回の事故でもっとも問題であったことは、私にとっては信じがたいことであったが、
臨界を防ぐための「形状管理」がなされていなかったことである。

ウランを含めた核燃料物質は臨界形状に制限を付けておけば、決して臨界にならない。
「仮に作業員がどんなにミスをしても、原子力ではfool proofになっているので安全だ」

といってきたのは、国と原子力産業であった。

核燃料加工工場で臨界を防止するための形状管理を行うことは容易なことであり、

私ですら当然そうされているものと信じてきた。

今回事故を起こした施設は高速炉「常陽」用の燃料加工用の専用施設である。
沈殿槽でいえば、20%濃縮ウランの取り扱い制限量である
2.4kg以上に入らないような大きさにしておかねばならなかった。

しかし、問題の沈殿槽は140リッターもの容量があった。
安全審査においてもこの沈殿槽については「質量管理」でよいとされている。
そうなったのは、おそらくは作業の効率性、経済性を考えたためであろうが、
効率や経済性が安全を犠牲にしたのであった。

そのツケを本来は責任のない作業員が生命をかけて負うことになったし、
工場や工場の責任者も組織的、個人的な責任を問われることになろう。

しかし、この施設に許可を与えたのは、原子力安全委員会であり、
審査に携わった委員たちである。

その委員会あるいは委員たちが、組織的、個人的に責任を全くとろうとしないのが
日本の原子力の現状である。

責任の根元を正せないのであれば、世界の物笑いになるのも当然であるし、
それを許しておくかぎり、次の事故、一層大きな規模の事故も必然的に準備されるのである。




付録1

 冷却水抜き作業員の被曝

今回の臨界事故は、はじめの即発臨界で沈殿槽が破壊されず、
その後も臨界状態が長期間続いたことが特徴であった。

周辺での中性子線量の測定値を見れば、
臨界による出力は次第に減ってきており、
いずれは自然に臨界状態が解消されたであろう。

しかし、それがいつになるか予測できない状態では、
危険を冒しても臨界を終わらせることは
至上命令であったろう。

その決断に異議を唱えることは私にはできないが、
その代償は、JCOの作業員が払った。

水抜き作業に従事した作業員は、
3人1チーム(1人は車の運転手)で数分毎の作業に従事したが、
放射線業務従事者の年間線量限度(50mSv)を超えて
被曝した人も10人近くに及んだ。
また、緊急時の限度として設定されていた
100mSvさえ超えて被曝してしまった人もいた。

さらに、この作業における中性子の被曝線量は
熱中性子線に対して校正された
ポケットドシメーターを使ったであろうが、
現場での中性子のスペクトルは相当硬かったであろう。

そのため、公表されている被曝線量の値は
ファクターで3程度の過小評価である可能性が強く、
それを補正すれば、車の運転以外の作業に従事した17人の作業員の被曝は
すべて50mSvを超えてしまうし、
100mSvを超えて被曝した作業員も10人近くになる。

 この作業を行うに当たっては、
将来子供を作る可能性のある若い労働者は除外され、
またあくまでも志願した労働者だけで行ったとされているが、
それでも、こうした作業を選択せざるを得なかったことを思うと、
放射線災害の過酷さを思わずにはいられない。



付録2

沈殿槽内の硝酸ウラニルの分析結果から求めた核分裂量

臨界反応が起こった沈殿槽内には希ガスのすべて、
およびよう素の一部を除いた
ほとんどの核分裂生成物が残っているものと想像され、
10月20日に槽内からウラン溶液が採取され、原研が分析を行った。

その結果が、10月28日になって公表されたので、それを下の表に示す。

ウラン溶液採取時には、溶液の均一性を保証するために
沈殿槽の攪拌機を動かそうとした。
しかし、攪拌機は動かなかった。
そのため、採取されたウラン溶液試料は
沈殿槽全体を代表しているとはいえない。

そのことを頭に入れた上で、核分裂したウラン量を評価し、
それを最後のカラムに記載した。

Mo-99についての評価は他の核種についての評価と
著しく異なっており、ここでは使用しない。
また、I-131は揮発して沈殿槽から散逸したはずであるから、
それも考慮から除く。
そうすると、核分裂したウランの量は0.44mgから1mgの間に収まる。

本報告では、冒頭に述べたように核分裂したウランの量を0.4mgとしたが、
それはここでの評価の最低量にほぼ等しい。
また、I-131は不揮発性のZr-95やCe-144の評価に比べて
3〜5割ほど低い値となっている。
そのことは、それに相当するI-131が
沈殿槽内から外部に放出されたことを意味する。

Nuclide沈殿槽内ウラン溶液51.6l *)中の
存在放射能量
今中さんによる
核分裂20日後の放射能量
核分裂量推定値**)
原研による分析値(1999/10/20換算)ABC
A-GroupB-Groupaverage51.63757
Bq/cm3Bq/cm3Bq/cm3BqBq/1mgU-fissionmgU-fission
Zr-952.15E+052.63E+052.39E+051.23E+101.85E+100.670.480.74
Mo-994.34E+044.64E+044.49E+042.32E+093.44E+100.070.040.07
Ru-1031.77E+051.96E+051.87E+059.63E+091.13E+100.850.610.94
Ce-143NDNDND-1.17E+10---
Ce-1446.91E+04ND6.91E+043.57E+093.95E+090.900.651.00
Sr-90NDNDND-1.31E+08---
I-1311.89E+052.18E+052.04E+051.05E+102.14E+100.490.350.54
Cs-1371.48E+03*1.48E+037.64E+071.24E+080.620.440.68
Ba-1405.31E+055.97E+055.64E+052.91E+104.31E+100.680.480.75
U-238278.9 g/L279.3 g/L279.1 g/L***


*)事故当時沈殿槽に供給されていた硝酸ウラニル中のウラン濃度は360 g/L、
採取して分析された試料中のウラン濃度はAグループ、Bグループとも279g/Lであった。
事故当時にはおよそ40リッターの溶液が沈殿槽に供給されていたとの証言と、
このウラン濃度の変化から、硼酸溶液が注入された後の溶液の総量を評価すると、
51.6リッターとなる。

**)核分裂量の推定は、

(A)51.6l:上記*)、
(B)37l:試料採取した10月20日に沈殿槽内にあったという溶液量、
(C)57l:事故時に沈殿槽内に投入したといわれている40lと
臨界を抑えるために投入されたという硼素溶液17lの合計、の3種類について行った。