鳥取東郷町方面地区のウラン残土撤去運動
   ―第79回原子力安全問題ゼミ(2000年9月27日)での報告より―   
                       
 土井淑平

 私は1988年8月の人形峠周辺のウラン残土の放置発覚当初からこの問題に取り組み、特に鳥取県東郷町方面(かたも)地区の撤去運動の中心になっている榎本益美さん(『人形峠ウラン公害ドキュメント』、北斗出版の著者)、および、方面地区の放射能分析をしていただいている小出裕章さんの協力を得ながら、12年余ウラン残土撤去運動に携わってきました。
 人形峠をはさんで鳥取・岡山両県の12地区にまたがる旧ウラン鉱山跡地のなかで、なぜ方面地区という小さな集落が12年余も撤去運動を続けてきているかという問題と、それから訴訟にまで至るこの間の運動の経過と最近の状況にしぼって、簡単に報告したいと思います。

1 方面地区のウラン残土撤去運動の背景
 方面地区は東郷町の農村部のわずか20世帯約100人くらいの小さな集落で、1955年代末から60年代初めのウラン採掘当時はたぶん25世帯、百数十人くらいだったと思いますが、過疎化でだんだん人口が減ってきています。
 まず人形峠をはさんで鳥取・岡山両県の12地区に旧ウラン鉱山跡地がありますが、旧動燃および行政の圧力でウラン残土を基本的には放置したまま、せいぜい柵で囲って立ち入り制限をし、土砂が流れるのを防ぐえん堤を設置するという、せいぜいその程度の措置でウラン残土対策は終わったとし、ほとんどの地区がそれを飲まされました。
 そのなかで、方面地区だけがウラン残土の撤去を12年余も要求して今日に至っていますが、その背景には1つは方面地区の場合は集落のすぐ近く、せいぜい1.5キロくらいの山の斜面に旧ウラン鉱山跡地があり、ウラン残土の影響が直接出ているということがあります。
 具体的には、ウラン採掘当時の伊勢湾台風で、約1000?のウラン鉱石を含む残土が流出して、方面川という小さな川を流れ下って集落のすぐ下の水田を埋め尽くしました。その当時は、村中総出でこのウラン鉱石残土の撤去作業に当たったようですが、鉱石がごろごろ水田の表面に露出していたそうです。そういうふうにウラン残土の影響が非常に強い。
 それから、もう1つは、この地区はウラン採掘当時、ほとんどの世帯から2人とか3人、採掘に伴う作業に出ておられて、榎本さんはそのなかの坑道内のウラン採掘労働者として採掘作業に直接従事されました。ほかの方々はたとえば当時ウラン残土をどんどん捨てていく、その残土のことをズリと読んでいましたが、これがどんどんずれて流れ出すのを防ぐため、ズリ止めといって柵を設けて残土が崩落するのを防ぐ作業など、いろんな雑役に従事していろんなかたちで、当時の放射線の後遺症と思われるものをそれぞれ体で知っている。
 実際、ウラン残土の放置が発覚したすぐ後、私たちは阪南中央病院の村田三郎先生に来ていただいて、村の人の健康診断というか健康調査を内々にやってもらいましたが、その村田先生の所見でも多くの方が何らかの後遺症を持っておられるという診断でした。そういう風に村の人たちが体で影響を知っておられる。げんに、榎本さんの調査では、ウラン採掘当時の1960年代初めから採掘後の1994年までの間に11人の方がガンで亡くなり、そのうち6人が肺ガン死です。榎本さんの奥さんも肺ガンで亡くなりました。直接に因果関係を立証せよというのは難しいかも知りませんが、確実に影響が出て被害を受けている人たちがいるという背景がある。
 それから何と行っても決定的でしたのは、榎本さんが採掘に当たられて当時の状況に非常にくわしく、身を持ってこの問題で立ち上がられて、私たち市民グループと小出先生と出会ったということが決定的だったと思います。もし私たちが榎本さんと出会わず、小出先生に測定していただくということがなかったら、方面地区も他の地区と同じように柵を設けて立ち入り禁止にして、それでウラン残土対策は終わったということになっていたかも知れません。
 小出先生に方面地区の土・水・植物・稲・モミ米・タケノコ等の試料を分析していただきまして、確実にウラン残土の影響で環境が汚染されているという実態をつかみ、その結果を市民グループが次々発表してきました。それもウラン残土放置が発覚した1988年8月以降、半年くらいの間に集中的に調査し、データを公表し問題を提起してきました。
 そのような実態が明らかになって、方面地区の人たちも自分たちの問題として、あらためてこれは大変だということで当初から撤去を要求されて、その年の12月には東郷町長に対して撤去申入れをし、さらに核燃・県知事に撤去申入れあるいは要求をずっと繰り返して12年になります。まずそういう背景があります。

2 方面地区のウラン残土撤去運動の経過
 それから、今日に至る大雑把なウラン残土撤去運動の過程を申しますと、1988年8月に放置が発覚し、その年から方面地区は撤去要求をしました。もちろん、動燃はものすごい攻撃をかけてきまして、村を切り崩す激しい住民工作もやり、行政も鳥取県当局は当時から一貫して動燃および科学技術庁とべったり一体で、御用学者による放射能調査専門家会議というのをつくって、「ウラン残土は安全だ、大丈夫だ」と繰り返してきました。
 そういう状況でしたけど、方面地区は1つは旧社会党と県総評による動燃人形峠放射性廃棄物問題対策会議(ちょっと長たらしい名前ですが)の支援を受けて撤去交渉をずっと動燃と続けてくる。自治会と対策会議が一体となって、自治会の委任を受けるという形で対策会議が撤去交渉を進めてきまして、1990年8月にウラン残土の撤去協定書を動燃と結びました。
 これは方面地区にある1万6000?のウラン残土のうち、「ウラン鉱帯部分」と称する放射能レベルの高い3000?を撤去するというものです。しかし、さきほど小出さんが報告されたように、岡山県知事が受け入れないということで、動燃人形峠事業所に撤去する予定だったものがタナ上げになって宙に浮いてしまう。
 そこで、対策会議と自治会はなんとか方面地区から早く撤去しないといけないということで交渉した結果、人形峠の事業所に隣接する県境の鳥取県側に県有地がありまして、その県有地で一時保管するという案でいったん合意したのですが、今度は県有地の地元である三朝町が反対する。三朝町にも実は神倉(かんのくら)という所に(鳥取県側では最大の)ウラン鉱山跡地がありまして、方面地区よりはるかに多い7万?ものウラン残土が放置されているのですが、それにはまったく目をふさいで、方面の残土を管理することには反対するということで、これもタナ上げになりました。
 そのうちに1997年 ― いまから3年前ですけど、今度は鳥取県の西尾邑次という当時の知事が、「もうウラン残土は持って行き場がないから、東郷町内で保管するんだ」という提案をして、東郷町に申入れる。この東郷町内保管の中身は実は方面現地置きでした。10年以上にわたって撤去を要求してきた方面地区の住民の要求をまったく無視して踏みにじり、「方面現地に置け」という提案をして、県と町・町議会そして動燃の3者が一体で、ものすごい住民攻撃をかけました。
 もう激しい攻撃で、私たちも「負けた、持たん」と思った時期も何度かありましたけれど、方面地区の人たちはこう(柳が押し倒されるような)攻撃をうけながら、最終的に「方面現地置きはまかりならん」と拒否されました。やはり中心となられたのは榎本さんで踏ん張られました。そういういきさつがありまして、方面現地置きをはね返しました。
 そうしますと、今度は県が東郷町内の波関園(なんぜきえん)という観光梨園の土地に置けと提案してきまして、これに対しては観光梨園のある別所地区という自治会がこれまた強硬に反対してこれもつぶれる。というような経過で完全に行き場のないさ迷うような状況になりました。

3 榎本益美さんによるウラン残土撤去の実力行使
 そういうなかで、昨年(1999年)12月、皆さんも新聞あるいはテレビでごらんになったかも知りませんけど、榎本さんが自分の土地に放置されているウラン鉱石残土の一部を自主撤去する実力行使を行われて、八方塞がりの状況を打開されました。
 これはかつて貯鉱場といって、ウラン鉱石を坑道から掘り出したものの置き場となっていたところで、そこの鉱石混じり残土は放射能レベルが高いため、動燃も優先作業として袋に詰めて、とりあえずここに仮置きしていたわけです。このシートの下に、ウラン鉱石残土を552体のフレコンバックの袋に入れて、2段組みで埋めてあります。その上に真砂土をかけてシートで覆っています。
 この土地が実は榎本さんの土地です。もともとは地区の長老の方の土地でしたが、この地区の長老が「ウラン残土撤去のために頑張ってくれ」と榎本さんに譲られました。こうして、ここは榎本さんの土地になっていて、去年の12月1日にここの現地を見るということで、支援団体の対策会議ともども現地調査にこられまして、「この袋を開けて見せろ」と核燃に要求したのですが、核燃が袋を取り出すのを拒否しました。
 このため、榎本さんが地権者として「もう御託はいい。私の土地からとにかく残土を撤去しろ。しないなら私が運び出す」ということで、12月1日の深夜もう夜中真っ暗になってから、この辺のシートをはがしまして、その中のひと袋を ? ひと袋といっても約1トン弱ぐらいある重いものです。それをスコップで掘り出し、ここからチェーンブロックで吊り上げて(山道に降ろし)、ジープで山から引きずり降ろして、核燃人形峠環境技術センター(岡山県上斎原村)に直接持ち込む実力行使に踏み切られました。これには対策会議および市民グループ有志も協力しました。
 この実力行使一発で、この残土をウヤムヤにしょうとしていた核燃も県当局も町も、もうウヤムヤにはできないという状況になりました。これは全国にも報道され、全国から榎本さんや支援団体のところに、激励のファックスとか手紙が舞い込んでおります。この実力行使一発によって、核燃も全社的に方面地区の残土撤去に対応しないといけないということで、理事長をトップに全社的な検討委員会というのをつくりました。
 その結果、今年(2000年)の3月に技術的検討結果なるものを発表しましたけど、相変わらずの無責任でありまして、その榎本さんの土地に仮置きしてある290?(552体)の袋詰めのものをとりあえず人形峠の核燃センターに何とか持ち込んで、実証試験と称してウラン保管の試験をやりたい、あとの3000?の残りについては、そのうえで検討します ― と。つまり、まったくの先送りで、動燃の一連の不祥事で問題になりました無責任体質と先送り体質が、ここに至ってももろに出まして、この検討案に対してはもちろん自治会も拒否する、対策会議もその場で拒否するということになりました。

4 ウラン残土撤去の訴訟に向けた動き
 一方で、鳥取県の知事が昨年の4月に、西尾邑次から片山善博という自治省出身の若手のかなり有能な官僚ではありますけど、その片山知事に代わってこれまでの鳥取県の動燃・科技庁べったりの行政を180度転換して、協定書に基づいて撤去しなさい、約束は守りなさい、守らないなら最後は訴訟にでも訴えてやらないと解決しない、ということを知事就任いらい公言しておりましたけど、榎本さんのこの実力行使があってから、去年の暮より核燃に自ら直接出向いて、理事長に対しても撤去を申入れるというような行動を起こしました。
 そして、今年の春いらい方面自治会に知事として初めて来まして ? それまでの前知事は10年間、方面の現地の要求を無視というか黙殺というか、放ったらかしてかしてきたわけですけど、片山知事が初めて現地に来て、もう皆さん本当に撤去させるには訴訟しかない、訴訟が有効だと提案して、方面自治会もこれを受けて訴訟に踏み切ることをこの7月に決めまして、県が物心両面から支援し資金も持ちましょう、ということになりました。おそらく自治体が住民訴訟の資金まで持つのは異例のことで例がない。現在(2000年9月)、県が指定した弁護士3人に依頼して訴訟の提訴の準備を進めています。
 この訴訟の原告は自治会で、内容は1990年8月の(ウラン残土撤去の)協定書を履行しなさいというもので、早ければ今年(2000年)10月にも提訴ということになるかと思います(追記 ? 実際は2000年11月7日提訴となった)。但し、残念ながら、この片山知事のトップ方針、トップダウンの訴訟支援は、私どもも高く評価し画期的なものだとは思いますけど、行政当局のスタッフの官僚としての根性は変わっていません。
 訴訟を支援するのはいいけど、運動体は排除 ― 対策会議も市民グループもどけなさい、私たちがやるんだからもう関係ない、と県官僚のもとで運動体を排除してこの訴訟を進めようという、スタッフの進め方があって、私たち市民グループおよび対策会議はこれに対して非常に強い批判なり意見を持っています。もちろん、早ければ来月にも提訴される方面自治会の訴訟は評価し、その成功というか実現は祈りつつも、しかし12年間支援してきた者として独自の行動は取っていく。自治会の訴訟にすべてを委ねない。撤去のために有効な行動は取っていく。
 これからいろいろと行動が出てくると思います。この場でどういう行動かは申せませんけど、そういうことを準備中でして、またそうなりましたら私どもも全国の皆さんに訴えて、支援や協力を仰がなければならない場面も出てくるかと思いますので、よろしくお願いします(追記 ? その準備中の行動とは榎本益美さんの地権者としてのウラン残土撤去と土地明渡し、および、慰謝料と弁護士費用を請求する独自の訴訟で、自治会訴訟に引き続き実力行使の1周年に当たる2000年12月1日に提訴した)。

(追記)方面自治会と榎本益美さんの2つの訴訟については、土井淑平・小出祐章共著『人形峠ウラン鉱害裁判』(批評社、2001年1月刊)を参照されたい。
 また、私たち市民グループを中心に結成した「ウラン残土訴訟を支える会」(石田正義代表)の次のインターネットHPに、2つの訴訟の動きと資料を紹介している。
 http://homepage2.nifty.com/uran_zando